第10話 君との登校と

九月一日。始業式の日。事前に先生にだけは伝えておいたけど、改めて学校に行くのはひどく緊張する。制服のブレザーを着て、襟元に前と同じ様な、学校用の紐ネクタイをリボン結びにする。普通のリボンやネクタイもあるけれど、わたしはこれが何となく好きだった。

長く伸ばした髪の毛をもう一度くしでとかして、ある程度見栄えを整える。自分の青い目の奥をもう一度見つめ直して、わたしは言った。

「大丈夫。もう一人じゃない」

そう言ってほんの少し笑う。それだけで勇気が出る。腕時計を見ると、もうすぐ集合の時間だった。行こう。わたしは遮光レンズと帽子を用意して、扉を開ける。

「行ってきます」

五年ぶりのその言葉は、自分でも予想出来ないくらい、さらりと口から出た。

外に出る時、わたしは用意した遮光レンズーわかりやすく言えばサングラスだーをかける。わたしの様なアルビノの人間は、肌だけでなく目もとても弱い。視力も低く、目そのものも光に極端に弱いのだ。

学校の方の道路に出る裏口からマンションを出ると、そこに人影がある。ぼんやりして、顔はよく見えないけれど、誰なのかはわかる。

「おはよ。アオイさん」

「おはよう。真太郎」

わたしのたった一人の友達は、明るく声をかけてくれた。

二人で並んで、通学路の川沿いを歩く。この暑いのに長袖、そして不似合いなほどツバの広い帽子を被っているわたしと、すらりと背の高い、感じのいい彼とは対照的な組み合わせだったと思う。

「大丈夫?」

気遣わしげに彼が話しかけてくる。外の明るさで、道がわからなくなるのではと心配してくれているのだ。

「大丈夫よ。サングラスかけてれば、結構見えるから」

幸い今日は曇り空で、陽射しはある程度弱い。サングラスをかける必要さえなかったかも知れないくらいに。

「でも、本当に良かったの?保健室登校にしなくても」

「まあね。実際のところ、保健室に居てもさして変わらないわけだし、それだったら君と一緒にいられた方が良いわ」

先週、まだ夏休みが終わってなかった頃。わたしは彼と父さん、それから先生に頼んで家でちょっとした相談をした。わざわざ家まで来てくれた先生には感謝している。

二学期から学校に行くつもりだ、と伝えると先生はとても喜んでくれた。三年生になって変わった新しい人で、わたしは一度も顔を見たことがなかった。まだ二十代そこそこの、若い女の先生だった。

そこでわたしは幾つか先生にお願いをした。教室の後ろ半分のカーテンを閉めてくれる事、席を目立たない一番後ろの方にして、近くに彼、慎太郎の席を持ってきてくれる事。クラスは元からわたしをいじめていた子達とは違っていたから、そこは心配いらなかった。

先生はわたしのお願いを快く聞いてくれた。そして帰り際に、

「真太郎君、本当にありがとう」

わたしが一番言って欲しかった事を彼に言ってくれた。もうそれだけで、わたしにとっては「良い先生」だと感じている。

「でも、本当に瀬戸村先生良い人だよね」

「ほんとにね。わたしのお願い聞いてくれたし、ちゃんと君にお礼を言ってくれたから」

「?」

「別に。何でもないよ」

何となく説明するのは照れ臭くて、わたしは視線を外した。

川辺沿いに続く桜並木は、まだ夏の緑色のまま。でも、所々に黄色の模様が見え隠れしている。

外に出なければ分からない事が沢山ある。わたしは改めてそう思った。

「これからは外にも遊びに行きたいな」

「大丈夫なの?」

「うん。海とかプールとかは難しいけど、それ以外の場所はきちんと対策さえしてればね」

「そっかぁ…アドバイスは余計だったかな?」

「ううん。見た目的には、外に出るのも難しそうに見えるから。気遣ってくれて、ありがと」

二人して話しているうちに、学校が近づいてくる。古めかしい門と築地塀。その奥には新築したばかりの校舎。

随分と久しぶり…いや、ほとんど初めて見る光景だった。


門をくぐって、日本庭園を抜けていく。鯉の泳ぐ広い池と、そこに建てられた苔むした灯籠。季節になれば彼岸花が咲き乱れるそうだ。

昇降口に入ると、出席番号ごとに上履きと靴を出し入れする下駄箱が置いてある。わたしの隣には真太郎のボックスがあって、そこにはぼろぼろの上履きが既に収まっていた。

「持って帰ってないの?」

「つい忘れちゃってね」

そう言いながら、わたしも袋から上履きを出す。一度も使った事のないピカピカの上履き。学校にもう一度行く事を告げたら、喜んだ父さんと母さんがわざわざ新調してくれたのだ。

教室は二階。クラスは一番隅の四組で、昇降口階段からは少し遠い。教室の壁には色々なものが貼ってあるけど、どれもほとんど初めて見るものだった。

四組の教室に入って、わたしは窓際の一番後ろの席に荷物を置いた。そこが先生との相談で決まったわたしの席。教室の後ろ半分、私の席にかかる位置までカーテンを閉めて、それからサングラスを外す。一方、彼もわたしの正面前の席に荷物を置いて座った。これも、先生との相談で決まった事。

時間は始業まであと四十分くらいあって、教室にまだ人はいない。丁度いい、とわたしは幾つかの教材を出して、前に彼に教えたところの復習を始めた。

「そう言えば、君はここの公式覚えた?」

「げ、まだだ…」

「それじゃ、復習ね。いい、この三角形の面積は…」

数学や英語の復習をしているうちに時間は過ぎていく。幾らか経った時だったか、教室の扉が開く音がして、何人かの生徒が喋りながら部屋に入ってきた。

「もう夏終わりかよ…」

「全くだなっ…」

会話が途切れる。同時に、わたしの方に視線が向かうのを感じた。そして次の瞬間、誰だあいつはと言いたげなヒソヒソ話が始まる。確かに、彼ら彼女らにしてみれば、興味や疑問を抱いて当然だと思う。何しろ、三年間全く通っていなかった人間が教室にいて、しかも異性としゃべっているわけだから。

そうしてる間にも、次々と教室には人が入ってきて、ガヤガヤと騒がしくなってくる。だけど、他の話題を話しつつも皆目線の端でわたし達を見ていた。その目線に悪意はない。中学生なら誰しもが持つ、好奇心から出る目線だった。

「このくらいで終わりにしよっか。お疲れ様」

「はーい。うー、疲れた…。ちょっとトイレ行ってくるね」

彼は軽く伸びをして席を立つ。わたしはそれに合わせて教材を片付けた。一人になると、周りの視線をよりクリアに感じる。わたしを遠巻きに観察する視線だ。だけど、誰も話しかけてこないだろう。そう思っていた。

「津深さん。ちょっといいかしら」

急に声が聞こえた。周りのそれとは違う、明確なわたしに向けられた言葉。内心でわたしはひどく驚いた…と言うより、焦っていた。何しろ、長いこと親と彼以外の人間とまともな会話をしていない。親に連れて行ってもらった店の店員さんとなら幾度もあるけれど、コミュニケーションとはとでも言えないものだ。

「…何?」

努めて冷静な声を作って、その声の方に顔を向ける。

立っていたのは、ロングの黒髪を地味なヘアゴムでまとめた、茜色の縁のメガネをかけたセーラー姿の女の子。わたしはその顔に見覚えがあって、素直にその記憶を口にした。

「…委員長」

「別に。そんな畏まった呼び方しないでいいわ。加々美でも、カエデでも。好きなように呼んで」

彼女は相変わらず厳しい顔を崩さない。元の整った顔と相まって、更に鋭い印象を受ける。

「じゃあ、加々美さん。どうしたの?」

「…あなたに聞きたいことがあるわ」

「……」

「あなたは覚えていないかも知れないけど、一応わたし、中一の時からあなたと同じクラスなの」

そう言えばそうだった。彼女は何だかんだずっとわたしと同じクラスで、そう、一年の時からずっと学級委員長をしていた。

「それで…」

「あなたに二年間、正確には三年の五月末まで課題ファイルを届けていたわ。体育祭の練習の怪我で、学校を休んでる間に、津田君に役目は交代していたけどね」

「あぁ…その節は、本当にありがとう」

お礼を言うと、彼女は不快そうに鼻を鳴らす。

「別に。仕事だから。それで、聞きたいって言うのはね…」

彼女の声が少し低くなる。

「あなた、どうして今になって学校に来たの?」

「……」

「聞いたわよ。あなた、津田君と文通してたそうじゃない。…でも、覚えてないわよね。わたしも最初はメッセージをファイルに入れてたのよ」

「……」

「でもあなたは返事をくれなくて、そして今日まで学校にはこなかった。でも、今になって来た。どうしてなの?」

ああ、そうか。わたしは彼女が内心に持っているピリピリした怒りの理由がなんとなく分かった。

「…別に。ただ、心境の変化があっただけ」

わたしの知っている彼女ーといっても、真太郎から聞いた話だけどーは真面目で、努力家だ。

「そう。きっと、ずっと二位のわたしなんかには、決して分からない発想なんでしょうね。あなたみたいな天才の考えっていうのは」

その嫌味にも、苦々しい怒りがこもっている。裏切られた努力、自分の無力さ。そうしたものを噛み締めた怒り。だけどそれは、わたしを不快にはさせなかった。

「そんなんじゃないよ。ただ、兎に角学校に来たいと思っただけで」

二年間彼女が積み上げて来たものを、わたしは傷つけたくはなかった。彼女は良い人で、わたしと違ってひたすら努力して来た人だ。だけど、そのために言葉を選べるほど、わたしは人と話した経験がなかった。

「…そう!もういいわ。兎に角よろしくね。分からないことがあったら聞いてちょうだい」

歯ぎしりしながらも、委員長としての仕事は忘れない。わたしは彼女に好意を持った。

「や、ごめんね」

少しして彼が戻って来た。

「加々美さんと何かあったの?」

「ううん。別に。『分からないことがあったら聞いて』って」

「なるほど」

そんな風に話していると、始業五分前のチャイムがなった。同時に先生が教室に入ってくる。まだ席に着けとは言われないけど、何人かはもう席について授業の支度を始めていた。

「やべえ遅刻だ!」

後ろ扉からひどく焦った様子の男子が駆け込んでくる。

「よお!椎崎、夏を過ぎても癖が治らなかったな!」

同時に真太郎が彼に親しげに声をかけた。察するに、彼の友達なのだろう。元より彼の様な良い人に、友達がわたししか居ない筈がない。

「やれやれ、クソ暑い中走ってくるのは大変だった…」

「本当にお前朝弱いなぁ。昨日もゲームで徹夜でもしたか?」

「んなわけねえだろ!」

普段わたしと話している時の様子とは違う、気遣いの無い態度。二人の距離が、わたしと彼との間の距離よりもずっと近い事が分かる。

それを意識する度に、ほんの少し胸がチクリと痛む。その痛みに気が付いて、わたしは自分自身に驚いた。

…嫉妬?心の中でつぶやく。どうして?わたしが誰に?久しぶりにわたしの中で疑問が湧いてくる。

「…アオイさん?」

「…!」

それに没頭していたわたしは、彼が戻ってきていたことに気が付かなかった。

「な、何?」

声に震えが混じる。彼に悟られなかったかな。

「ううん、なんかボーッとしてたから」

「う、うぅ…」

流石に嫉妬だなんて言えない。答えに困って、わたしは彼から視線を外した。

「ほおん…この人が…」

それを見て、椎崎と呼ばれていた男子が興味深げにつぶやく。

「ん?」

「いや、初めて見たからな。お前がいつも言ってる津深さんの事」

「いつも?君、いつもわたしの事話してるの?」

「ああ、こいつ。いつも君の事ばっか話してるんだぜ?」

「やめてくれよ!」

そうか、そうなのか。少しの気恥ずかしさを覚えると同時に、わたしの中の刺々しい気持ちが消えていく。うん、それならいいかな。そう心の中で言った。

「あ、自己紹介が遅れたな。俺は椎崎。こいつの一応…友達?あと、同じ演劇部だ。よろしくな」

「一応って何だ。含みのある言い方はやめろ」

「にしても…ふーん」

椎崎君はわたしを少し見つめて、何かに納得した様にうなずいた。

「わたしが何か?」

「いや、ある程度聞いてはいたけど、本当にアルビノとか言うのなんだなって」

「…誰から?」

「こいつからじゃねえよ。噂してる奴らがいたんだ。前々からな…でも、真っ白ってわけじゃ無いみたいだな」

どうやら彼はわたしの髪の毛のことを言っているらしい。

「光の当たり方で、少し金色が入ってる様に見えるのよ。まあ、歳をとった時の白髪は多少違うから、そこもあるんでしょうけど」

「ふーん」

わたしにとって椎崎君は、どうも「明るすぎる人」に見えた。真太郎が月みたいな優しい光だとすれば、彼はある種太陽の様な強い光だ。わたしは彼に対して幾分かの付き合いづらさを感じた。

「もういいだろ。ほら、もうチャイム鳴るぜ」

真太郎が少しイライラした声で言った。もちろん本気では無いのだろうけど、彼が怒るのを見るのは初めてだった。

と、その時始業のチャイムが鳴った。同時に委員長が号令をかける。

「起立。気をつけ!礼!」

間延びしたところが少しもない、ハッキリとしたよく通る声だった。

挨拶が終わった後、先生が話し出す。

「夏休みは有意義に過ごせましたか?受験に向けて、とても大切な時期だったと思います。まだ夏休み気分の人は、早く切り替えて、二学期からまた改めてスタートを切りましょう…」

この辺りの話には特に個性はない。大体どの先生も同じ事を言う。

「あと、皆さんにお知らせしておく事があります。今日、このクラスに新しい友達が来ました」

同時に、わたしの方に幾つもの視線が向けられた。夏休み前だったなら、きっとわたしが耐えられなかった沢山の視線。だけど、きっと大丈夫。わたしの正面で、笑ってくれている彼。幾つもの視線の中に、彼のものがあると考えただけで、勇気が湧いてきた。

「津深さん、簡単な自己紹介をお願いできるかしら?」

「はい」

そう言ってわたしは立ち上がった。大丈夫。このぐらいの人数なら、大丈夫。

「皆さん初めまして。津深アオイです。趣味は色々ありますが、特に読書が好きです。この通り、皆さんと見た目が大分違いますが、中身は同じです。どうぞよろしくお願いします」

そう言って頭を下げる。少し早口になってなかったかしら。心配にはなったけど、目の前の彼が、グッと親指を上に立ててくれる。それなら、上手くいったって事。差し当たって、わたしの二学期は、順調に始まったみたいだった。

「さて、今日は夏休みの振り返りと二学期の抱負、あと簡単にでいいですが修学旅行の準備をしてもらいます。班組みの締切はまだ後ですが、早めに決めて計画を立ててください」

先生が今日の予定を説明し終わった時、ちょうどまたチャイムがなった。朝の時間が終わった事を知らせるものだ。また教室にざわざわとした雰囲気が戻る。

「修学旅行か…」

わたしにとっては泊まりがけの行事は未知の領域だ。小学校の移動教室にも参加したことはもちろん無いし、中学のスキー旅行なんかもかっ飛ばしてるわけだから。

「ありきたりだけど、やっぱり京都あたり行くみたいだね」

「そうなの?」

「うん。神戸とか九州とかの案も出たけどね。聞くところによれば、自然を楽しみたい人と歴史を学びたい人で割れたみたい」

「ふうん。君はもちろん?」

「歴史派。まあ、どこに行っても学べないことはないと思うけどね」

「そっか…」

「後は、海なんてなったら、君が楽しめないでしょ?だからこれで良いんだ」

「うん、ありがとう」

一応修学旅行は十月の頭の予定になっている。時期的には少しシーズンから外れてる気がしてならないけど、こちらの方が涼しくて混まないから都合がいいらしい。

「いやぁ、楽しみだなぁ…」

「そうね」

彼の言葉に、控えめに同意する。同じ気持ちでも、きっと彼とわたしとでは楽しみの方向も、意味も少しずつずれている。

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