閑話:黒兎、霧の街の化け物と会う話
これはまだ夏の暑さを感じない頃、『母なる金字塔』が現れる数か月前の話。
「か、勘弁してくださいってば!!」
無数の人の足元の合間を縫うように走り、追いかけてくる男たちから逃げる一匹のうさぎ。
事の発端は数分前。人の多さに目を回しそうになりながら歩いていたら強面の男性の一人にぶつかってしまったのだった。震える声で謝ったものの値踏みする様に見られ一言。
「うさぎ鍋にしてやろうか?」
命の危険を感じ、文字通り脱兎の如く逃げたのだった。
本来、
「謝ったじゃないですか~それに食べても美味しくないですって!!」
悲鳴にも近い言葉を吐いていると何かにまたもぶつかった。勢いそのままにぶつかったものだから、「はう!」なんて無様な声と共に尻もちをついた。
「す、すみません!」
立ち上がりながら顔を前に戻すと目に入ったものに固まる。
大きな黒い鳥の様な足。視線を上に上げれば暗めの色のローブにフードを被っていて顔はよく見えない。それでもペストマスクらしきものを付けていることと背がかなり高いことは確認できた。そして、見下ろす様にぶつかってきた小さな生き物に視線を向けていることも。
違う方向を向いていた足が此方を向き、しゃがまれる。見えなかったフードの中の顔が見えた。色白い肌に自分の毛並みには劣るが柔らかそうな白髪。若めの青年が此方をじっと見ている。その赤い瞳には怒りの色は見えないもののぶつかられたことに対して文句の一つや二つはあるのかもしれない。そうれなければこうしてわざわざしゃがむなんてことはしてこないだろう。
「あ、あの……」
もう一度謝ろうと思った時、後ろからまた自分を探す怒号が聞こえて来た。青年と自分が一緒に声のした方向を向く。急いで逃げなくてはと思うも目の前にはまた別のぶつかってしまった人物がいてほぼ全て自分が悪いとは言え前も後ろも逃げ場所はない。
青年が改めて此方を確認するように見て手を伸ばしてきた。もう無理だと諦めてうさぎパイでもうさぎ鍋でも好きにしてください、でもできれば痛くしないでなどと思いながら目を閉じる。
痛みなどはやってこない。ただ優しく隠す様に抱っこされた。立ち上がったときの浮遊感を感じつつ、今更ながらに感じる乱れた呼吸を整えるように物を掴むのには適していない手で服を摘まんだ。
てっきり怒号を上げながら向ってきている男性に渡されるのかとも思っていたがそんなことは無く、聞こえてた声は遠ざかっていく。お礼ともう大丈夫ですよと降ろすように促すも聞こえてないのか、無視されているのか何も答えは返ってこない。そのまま何処かに歩き始めたからハッと気づく。多少のピンチが通り過ぎたところで問題は解決していないのだ。このまま無言で連れ去らわれて家で捌かれる、なんてこともなくはない。姿的にあり得る。
「食べても美味しくないです!!!おやめください!」
暴れる力空しく、寧ろ落とさないように強めに抑えられる。
そのまま運ばれること数分。先ほどよりも格段に人通りの少ない場所にあったベンチにそっと降ろされる。久々に自らの足で立っている感覚に感嘆としていると青年は手負いの子の面倒を見た後のように疲れたような息を吐いた。そしてそのまま自分の隣に腰掛ける。
「すみません。つい、捕まって食べられると勘違いしたので……助かりました」
その言葉を聞いてか何やらメモ帳らしきものを取り出し書いていく。何か書いたのちに此方へ見せて来た。とてもきれいで読みやすい字だ。
『追われてたみたいだから…僕が貴方を食べると思ってたの?人混みの中じゃ話しにくいから連れて来たんだけど怖がらせてたみたいでごめん』
「いえ、私の方が勘違いしてたと言うかあの状況だと本能的にそうなってしまってもおかしくないと言いますか……えっと…しゃべれないのですか?」
文字で会話をしてきたあたりきっとそうなのだろうが一応聞く。
『しゃべれない。会話しにくいけど許してほしい』
文字でしゃべるには淡々としているものの青年の顔を見れば多少眉が下がっている。言葉の通り自分に対して申し訳ないと思っているのだろう。
「気にしないでください、その様な会話も新鮮で良いと思いますし。申し遅れました。私、モーリス・ロップと申します」
自己紹介をお互いにと思っていたが返ってきた文字列は意外であった。
『そう思ってくれているのなら良かった。僕の名前……名前はもう誰も呼んでくれないから忘れた。でも、ある人には“番人”と呼ばれていた。だからそれでいい』
名前を忘れた。そんなことがあるのだろうか。此方が知りようのない情報だから彼自身が提示した名前で呼ぶしかない。
「分かりました。では番人さんと……顕現した作品の名前とか教えてくださったりしませんかね?」
それを教えてもらえれば調べることは可能だ。それで多少知れたら……
『きっと貴方は知らない。マイナーな物だから』
教えてくれなかった。あまり詮索しないでほしいとでもいうかのような言葉に落ち込むしかない。
当たり前なのかもしれない。所詮初対面のニジゲン同士。よく友人にも警戒心のないとか人が良い、いやうさぎが良いなんて言われたりしていた。
「すみません。ぶつかったり変に疑ってしまったり色々としてしまって」
項垂れるように謝っているとまたメモ帳を渡される。
『別に、僕は怒ってない』
それを読んでいる間撫でられる。
気持ちよさそうに撫でられていると遠くから自分の名を呼ぶ知人の声が聞こえた。そろそろ失礼しますと声をかけ会釈し声のした方へ向かう。
そんな黒いうさぎの後ろ姿を彼がどこかまぶし気に見ていたことも、また少し時がたった時に再会する事もモーリス自身は知らない。
小さな者たちのお話 雪乃瀬 茸 @yukinose-kinoko
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