第六章 動き出す災厄
第19話 動き出す災厄①
深い静寂の中、その男は一人、空を見上げていた。
しかし、本物の空ではない。雲もなければ太陽もない真っ白な空。
代わりに浮かぶのは、数え切れないほどの輝く球体。
蒼。赤。緑。黄色。銀。橙。
と言った各自様々な色を持ち、輝き続ける球体たちだ。
だが、それ以外は何もない。
ここもまた、果てしなき純白の世界だった。
そんな場所で男は静かに球体たちを見つめ続けていた。年齢は四十代後半。赤髪と同色の双眸を持ち、がっしりとした身体の上に、ローブのような白い服を纏う人物だった。
彼はしばし沈黙していたが、不意に双眸を細めると、
「……ふむ。あれで試してみるか」
そう言って、空にある球体の一つを指差し、くいと指先を動かした。
するとそれに従い、赤い球体がすうっと動き出し、男の眼前で止まった。
近くで見ると球体は相当な大きさだった。まるで紅玉を彷彿させる美しい表面は鏡のようであり、男の全身が映っている。
赤髪の男はじっくりと球体を見つめた後、
「さて。早速始めるか」
言って、指先でコツンと球体をつついた。
途端、触れた箇所から、ビシリと球体に大きなひびが入った。そのひび割れは全体へと一気に侵食していく。と、
「………む」
赤髪の男が眉をしかめた。
突如、赤い球体の周辺に、極小の黒い粒子のような点が出現したからだ。その数はおよそ百にも及び、まるで丸い染みのように赤い球体にこびり付いている。
「………これは」
赤髪の男は露骨に渋面を浮かべた。
まさに報告通りだが、これは想像以上に醜い。不愉快極まる現象だった。
「どうやら条件を満たすと、自動的に発動するように仕込んでいるようだな。ふん。小賢しい真似をする」
と、分析したところで眉間に深いしわと刻み、
「見るに堪えんな」
赤髪の男はそう呟くと、再び赤い球体を指先でつついた。
すると、今度はひび割れさえ起きず、粉微塵となって赤い球体は砕け散った。
赤く輝く欠片を振りまいて散りゆく姿は、とても美しい。
幾度となく見て来たが、やはり心打たれるものだ。
この美しさこそが正しい姿なのだ。赤髪の男は満足げに口角を崩した。
しかし、すぐにその表情は険しいモノに変わる。
「《ガーナスの魔王》め」
忌々しげに吐き捨てる。
「まさかこのような小細工をしていようとはな。これでは台無しではないか」
赤髪の男はローブの裾を握りしめ、怒りを露わにする。苦情が相次ぐのも当然だ。
実際にこの目で現象を確認して、同胞たちの気持ちがよく理解できた。
「……もはや放置など出来んな」
赤髪の男は決断した。そしておもむろに後ろに目を向ける。
「やはりお前の出番のようだ」
そこにはいつの間にか巨大な獣がいた。人間程度なら丸のみ出来そうなほどの体躯を持つ魔獣であり、今は唸り声も上げることなく鋭い眼差しで主人たる赤髪の男を見据えていた。
だが、その双眸に敵意はない。ただ従順に命令を待っているのだ。
対し、赤髪の男はふっと笑い、
「主命である」
巨大なる僕に淡々と命じる。
「かの地に赴き、罪人どもを殲滅せよ」
そして――……。
そこは平和な村だった。
大都市アワドセラス・シティから森を挟んで、かなり離れた南方に位置し、主に農耕で生計を立てる人口が百人程度の小さな村だ。ただ、規模の割には意外と村の歴史は古く、開拓された時期は実に数百年前にまで遡り、
とは言え、それ以外はさしたる特徴もなく、時折何人かやって来る行商人から珍しい品を買うことが楽しみな、そんな集落である。
名はフフラン。
どこにでもあるような、実に平凡とした村だった。
そして今そこに、一人の男性が立ち入ろうとしていた。
ザックス=サハト。やや白髪の目立つ彼の年齢は三十代後半。生まれた時からのフフラン村の住人であり、アワドセラス・シティまでブモウ肉などの買い出しに行った帰りだった。
「ふふ、今日はいい絵本を手に入ったな」
と、幌のない荷車の御者台から
すでに、彼の乗る荷車は村の中に入っている。
ザックスの頭の中にあるのは、三歳になったばかりの娘のことだ。
幼馴染との間に生まれた待望の一子。目に入れても痛くない愛娘である。
洋服やぬいぐるみよりも本が大好きな子で、こうやって仕入れの際に絵本をお土産にすると凄く喜ぶのだ。それが嬉しくて、ザックスは今日も絵本を購入していた。
まあ、毎回、高い本ばかり買うなと妻には叱られるのだが。
「……と、そろそろか」
幾つかの農家を越え、いよいよ我が家が見えてくる。
そこで
すると、その声と車輪の音に気付いたのか、ゆっくりと彼の家のドアが開かれた。
玄関から出てきたのは、腰まで伸ばした栗色の髪を持つ素朴な顔つきの女性と、彼女によく似た幼い少女だった。愛娘を抱きかかえた妻が出迎えにきてくれたのだ。
ザックスは徐々に荷車の速度を落とし、玄関の前で停車させた。
そして御者台が降りたザックスは、満面の笑みを妻と娘に向けて告げる。
「ただいま、シャロン。メアリーもお迎えをしてくれたんだな」
言って、愛娘であるメアリーの頭を撫でる。
母親譲りの柔らかな栗色の髪を持つ少女はニパっと笑い、
「とーちゃ。とーちゃ」
そう言って抱っこして欲しいのか、片手を伸ばしてきた。
ザックスは微笑んで愛娘の小さな手を取ろうとした――その時だった。
突如、空が黒い影に覆われたのだ。
「………?」
天気でも崩れたのだろうか。ザックスは眉根を寄せて空を見上げた。
そして――絶句する。
近くで農作業を行っていた村人の一人も影に気付き、呆然として呟く。
「お、おい、何だよありゃあ……」
農耕に勤しんでいた村人たちが、つられるように作業の手を止めた。
「う、うそだろ!」「う、うわああああああ!?」
次いで上空を見上げ、次々と恐慌の声を上げた。
そこには見たこともない獣がいたのだ。
――いや、見たことはないが、村人のほとんどはその獣のことをよく知っていた。
緑色の鱗に鋭い牙。長い鎌首をもたげて眼下を見下ろす赤い双眸。ひしゃげた四肢に長い尾を持ち、太陽さえ覆い隠す大きな翼を広げて悠々と大空を飛ぶ巨大な魔獣。
それはあらゆる異世界においても、あまりにも有名すぎる獣だった。かの魔獣を知らない人間などまずいないだろう。
しかし、このファランでは一度も確認されたことのない獣でもあった。
「ひいいいいいいィィ!?」「に、逃げろォ!?」
村人たちは一斉に逃げ出した。
姿を見ただけで分かる。あれには絶対に敵わない。
あの魔獣は、数多にある世界でも最強の存在として知られていた。
いかなる者であっても、人間が勝てるような相手ではなかった。
「「「うわあああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!?」」」
あっさりと平穏を奪われた村は、一気に狂乱状態に陥った。
ある青年は一人で逃げ、ある女性は子供の手を引いて走る。そしてまたある少女は恐怖から腰を抜かしてその場から動けずにいた。
「あ、あなた!」
そんな中、シャロンが怯えた声を上げる。
その声にハッとして、ザックスは妻の手を握りしめた。
「に、逃げるぞ! 二人とも!」
それから自分が乗ってきたばかりの荷車の荷台に急ぎ妻と娘を乗せると、怯える
「しっかり掴まっていろ!」
妻と娘にそう声を掛け、ザックスは荷車を全速力で駆けさせた。
だが、空を制する魔獣は誰一人とて逃がす気などなかった。
『グルウウウゥ』
背筋が凍り着くような唸り声を上げて、眼下を見据える。
次いでおもむろにアギトを開いた。
その紅い口腔には、太陽を彷彿させる大火球が蠢いている。
ザックスは、燃え盛る太陽を呆然と見つめた。
(……ああ、神さま)
どうか、家族だけでも――。
そう真摯に願うが、それは叶わない。
死を司る真紅の太陽が、煌々と赤く輝いた。
そして――。
――ズウウゥン……。
大火球は無情にも、フフラン村の中央に落とされた。
すべてを焼き尽くす業火は、破裂するように四方へと広がる。
その速度は人が逃げられるものではなく、炎は村を丸ごと呑み込んだ。
そこにいた、百人近い人間たち。
ザックスと、彼の愛しい家族たちも――。
フフラン村を呑み込んだ後も紅い炎はなお燃え盛り、真昼の空を赤々と照らす。大地を埋め尽くす炎の様子は、まるで地獄の釜のようでもあった。
炎を吐き出した獣は、しばしの間、悠然とその上空を旋回していた。
赤い双眸は静かに炎を見据えていたが、
『グルウウウゥゥ』
再び唸り声を上げる獣。
そして、その有名すぎる獣はアギトを歪めて――
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