番外編 エピローグ 後

 現実世界の時間で、それから2週間後。


 老人は人生の終着駅に今まさに辿り着こうとしているところであった。


 終着駅。

 人生を鉄道での旅に例えるならば、その老人にはもはや他に駅は無く。車内にもうすぐ終着駅に到着するというアナウンスが流れているところといってもいいだろう。


 末期癌。

 ステージⅣだとか、転移だとか、主治医からの説明は手を変え品を変え様々な角度からなされていたが、要するに老人は間もなく死ぬという事である。


 長年に渡る闘病生活の果てに大きく体調を崩して現在の病室に入院してから早3ヵ月。


 老人は点滴の管が繋がれた自分の体に、それを包むお決まりの病衣。それから1日の大半を過ごすベッドのせいで自分も清潔感ばかりを押し出して異様に無機質な病室の一部になったような錯覚すら覚えるほどだ。


「先生、今日はいくらかお加減がよろしいようですが少し散歩にでも出てみませんか?」


 無機質な病室に、間もなく訪れるであろう死を受け入れた老人。

 その個室の中に生気を放つ存在が2つだけあった。


 1つは窓際に飾られた松の盆栽。

 もう1つが老人の世話をする弟子の女性であった。


「そうだねぇ。昼前くらいで良いかねぇ?」

「そうしましょう!」


 処方されている強力な痛み止めをしてなお体中を駆け巡る鈍痛の影を察していながらも老人は弟子の提案を受け入れる。


 痛み止めの薬が無ければきっとベッドの上でのたうち回っているのは確実であろうとは思うが、それでも弟子の表情が綻ぶと思えば無理をするだけの価値がある。


 思えば昔気質というか、健気な弟子である。

 師匠としての用を果たさなくなった自分の世話を未だ甲斐甲斐しくしてくれる者などこの弟子くらいのものであった。


 飾ってある盆栽を送ってくれたのも彼女。


 本来であれば鉢植えのような物を病人に送るような事は禁忌タブーである。


「根付く」が転じて「寝付く」とされ忌避されるという事など当然、彼女だって知っていよう。


 だが、あえて弟子の女は老人の病室に盆栽を飾った。


 あえていうなら土中に根を張る盆栽を送る事によって弟子は「生にしがみついてでも生きていてくれ」とメッセージを送っているのだ。


 老人はそのような言外のメッセージを理解するだけの脳の働きがまだある事を感謝する。


 死を目前にして師として弟子を指導する事ができなくなった以上、老人にできる事は「老い」と「死」を見せる事だけである。


 女流の時代劇小説の大家として世に知られ、また自身もそう自認していた老人にとってはその最後を見苦しいものにしない事こそが最期に弟子に伝える事ができるものだと、そう思っていた。


「それまではそうだね。こないだ編集が持ってきたファンレターでも読んでいようか」

「前みたいにたまには返事でも書かれてみてはいかがですか?」

「よしとくれよ。震えたミミズみたいな字なんぞ他人に見せるもんじゃない」


 朝の回診が済み、今日は検査やらも無し。

 昼食までの空いた時間に老人はベッド脇のサイドボードに置いていた小箱を開けてファンからの手紙を見てみる事にした。


 編集がたまに持ってくるファンレターは昔ながらの郵便によるものの他、編集部あてに届いたEメールをプリントアウトしたものも含まれている。


 いずれにしても老人の主戦場が時代劇小説という事もあってかファンもコアな者が多く、送られてくる手紙には含蓄深い考察や感想などが含まれている事も少なからずあって、そのような物には以前には老人自身が筆を執って返信していたものであった。


 一切の返信をしなくなって何か月だろうか?


 無論、読者たちへの感謝が無くなったわけではない。


 元外国人の、しかも男性同士の恋愛を描くいわゆる“やおい小説”出身の自分を日本の時代劇小説を代表する作家にまで育ててくれたのは間違いなく読者たちのおかげであろうという確信があったのだが、それ以上にマトモに字を書けなくなった事を知られたくないという作家としての矜持があった。


 だが、そこで弟子がわずかに悲しそうな顔をしたので老人も「しまった……」と思うものの後の祭りである。


 何と言って取り繕おうかと思っていると、そこで老人の病室をノックする者がいた。


 弟子が椅子から立ち上がって応対するためにドアを開けると、そこにいたのは長身の中年男であった。


 背広姿にセカンドバッグと花束を持っているところを見るに病院関係者ではなく入院患者への見舞客なのであろうが、老人も弟子も中年男に見覚えが無く困惑しているところに男が口を開いた。


「すいません。お見舞いに伺ったのですが先生のお加減はいかがでしょうか?」

「はぁ……。貴方は?」


 老人が闘病中である事は連載を休載する時に誌面で告知してはいたが、当然ながらどこに入院しているかなど公表しているわけではない。


 そんなわけで弟子はあからさまに怪訝な顔をするが、それでも老人が客を受け入れようと思ったのはただの気紛れ。

 強いていうならば男の持っていた花束が真っ赤な薔薇と白い百合という老人にとって思い出深いものであったからだ。


「せっかく来てくれたんだ。入れてやんな! それに自販機コーナーで何か飲み物でも買ってきてはくれないか? 私はホットのほうじ茶を、お兄さんは?」

「いえいえ、そんなお構いなく……」

「そんなつれない事を言うない! まっ、適当にコーヒーでも頼むわ!」


 弟子が病室を出ていき、入れ替わりに男が促されるままに椅子に腰かけるまでの間に老人はすっかりこの中年男が好きになっていた。


 一見はただのくたびれた中年男である。


 長身ではあるし、背広の着こなしはこなれてはいる。


 だが場を取り繕うために浮かべた表情の奥には隠し切れない疲れが見て取れるのだ。

 肉体的な疲れではない。もっと根が深い精神的な疲れ。


 いわば人生に疲れているとでもいえばしっくりくるだろうか?


 それでも男が放っている気はどこまでも剣呑なもの。


 まるで老人がこれまで小説の世界で散々に描いてきた侍のような。

 むしろ豪気な武将、いや剣豪か?


 気配だけで濃密な血の味を想起させるような男が、時代劇小説の主役か悪役がそのまま飛び出してきたかのような男が自分の最期に見舞いにやってくる。


 これほど愉快な事が他にあるだろうか。


 しかも、それがただの勘違いではないと男は名乗るだけで老人を沸かせてくれたのだ。


 粕谷正信と名乗った男に薔薇と百合の花束を手渡されると百合の甘さと薔薇の華やかな香りと共に老人は多幸感に包まれる。


「粕谷正信とは驚いた。私ゃ、領空侵犯をした覚えも無ければ、異星人でもないよ。帰化した元外国人だけどね」


 老人にとっては「粕谷正信」という名は今でもビッグネームであった。


 戦国武将を題材とした小説も書いていた都合上、かの時代の戦術や戦略と比較するために老人は現代の戦史の研究にも手を出していたのだ。


 それでどうして粕谷正信という名を忘れる事ができようか?


「いえいえ。今日は“そっち”の件の縁で来た次第でして……」

「ああ。アンタも“ケダモノ”かい? でも、済まないが私はアンタの顔に覚えがないんだが……」

「ええ。私はβテストはやっていなかったので……」


 何であの粕谷正信が見舞いに来てくれたのかという心当たりが無くて老人は首を捻るが、男は笑いながら花束を指差してみせる。


 それが意味するところは1つしかない。

 少なくとも老人にとっては。


 昨年から闘病のために一気に連載やら書きおろしやらを減らした暇を潰すために始めたVRゲーム「鉄騎戦線ジャッカルONLINE」である。


 だが男はβテストには参加していなかったという。

 つまり正式サービスが開始される前から入院していた老人とは接点が無い事になる。


「古い知り合いから先生の事を聞きまして、それでちょいと調べてみたら大病を患って入院だと言うじゃないですか。それで失礼とは思いながらも押しかけてきてしまった次第です」

「そうかい? でもここを調べるだけでも大変だっただろう?」

「いえいえ。先週の土日に駅前のベンチでボ~としてるだけで“北”の工作員を捕まえられたので、ちょいと脅してそいつに探らせました」

「ハハハ……。アンタならやりかねないから笑えないね」


 老人は男の言葉をリップサービスとして受け取った。

 第一、どう考えてもそんな事できるわけがない。

 自分の表情と態度で彼のファンだという事がバレて、それで粕谷正信流のジョークで相手をしてくれたのだ。


 それでも……。

 どうしても老人の脳裏からは男の言葉が真実なのではないかという思いが拭いきれなかった。


 それをやりかねないのが粕谷正信という男なのである。


 せめて「ちょいと脅して」という部分でできるだけ血が流れていない事を祈るしかない。


「せめて仕事を終えた後は少し穏便に……」

「そうですなぁ。意外と有能な奴でしたし、そうしましょうか?」

「そうなのかい?」

「私もてっきり『加藤さん』かと思っていたら、元イタリア人の『Catoカトーさん』とは気付かなかったもんで、それで3日で先生の居場所を突き止めたんですから十分に評価してやっていいかと」


 そうこうしている内に飲み物を買ってきた弟子が戻ってくると、ベッドの下にしまっていた花瓶を取り出して花束を活ける用意をしだす。


 手渡された缶コーヒーを一口飲むと男はここからが本題とばかりにセカンドバッグを開いてタブレットPCを取り出した。


「実は今日ここに来れない2人からもビデオメッセージを預かってきているんです」

「2人? いったい誰のこったい?」


 差し出されたタブレットPCはすでにメディアプレイヤーが起動されていて、促されるままに再生ボタンを押すとそこに映し出されていたのは1人の少年であった。


『どうして……。どうして病気だって教えてくれなかったんですか?』


 どこかのガレージで映されたと思わしきその動画に映されていた少年が涙目になって老人を非難する事から1件目のビデオメッセージは始まった。


「マモル君……。なんで?」

「β版時代のユーザー補助AIの一部には特別な役割を持たされて現在もあの世界で働いているんですよ」


 その少年の顔を忘れるわけがない。

 老人とともに“10年に匹敵する1年”を共に駆け抜けたパートナーなのである。


 そのような間柄とあっては涙声で末期癌である事を教えなかった事を責めてくる少年すら愛おしく思えるほどだ。


「あ~あ~! こんな顔をぐしゃぐしゃにしちゃって……。『一人砲兵中隊』なんて異名で恐れられてた奴がなんてザマだい!」


 やがて少年は老人を責める事を止め、感謝の言葉に変わっていた。


 老人に鍛えられたおかげで特別な仕事に抜擢された事。

 そこで仲間たちと毎日、楽しくやっているという事。

 その仕事はとても誇らしいものであるという事。

 最後にその仕事よりも老人と過ごしていた日々はもっと楽しかったという事。


 老人を責めていた時の何倍も長い感謝の言葉が終わると、名残惜しさにそのまま同じ動画をもう一度再生。


 弟子も男も黙って繰り返し動画を再生する老人を見守っていた。


「……ああ、済まない。1人でちょいと昔の事を思い出しちまってた。それで、もう1件ってのは?」


 男が差し出してきたハンカチで涙を拭いながら老人はタブレットを返すと、粕谷正信は少しタブレットを操作する。


「その前に少し説明をしなくてはなりません。その上で見るかどうかを決めてください」


 男が再び差し出してきたタブレットの画面に映し出されていたのは先ほどのような動画ファイルではなく、1枚の画像データであった。


 それを見て思わず老人は息を飲む。


 先ほどのマモルのビデオメッセージが撮影された場所と同じところで撮影されたと思わしき画像には1人の幼女が映し出されていた。


 ふっくらとした頬が特徴的なまだ幼い少女。

 老人が1年以上も何度も夢に見た顔だ。


「……ヨーコちゃん」

「ええ。ですが、このヨーコ君は先生の事を知りません。あくまで正式サービス版でのヨーコ君です」


 それから男は説明する。


 すでにヨーコからの依頼であるミッションはほぼ完全な形でクリア済みであるという事。


 その時にゲーム内で再会したかつて「総理」というハンドルネームを名乗っていた者から老人の話を聞いたという事。


 そして再び繰り返すような形であくまでこのヨーコは正式サービス版の存在であり老人の事を知らないと説明した。


「つまり、私が持ってきたビデオメッセージはあくまで今のヨーコ君が見ず知らずの闘病中の先生に向けた応援のメッセージという事です」

「そらぁいい。もうあの娘が泣く事は無いのか……。粕谷さん、これはこれ以上ないほどのお見舞いだよ」


 老人の胸にはわずかばかりの寂しさと、それ以上に大きな晴れ晴れとしたものが押し寄せていた。


 思わず口元が綻ぶが、男は老人の言葉を否定する。


「いえ、今回も泣いてましたよ」


 その言葉で思わず老人は跳ね上がるようにベッドから起き上がるが、男の表情にはしてやったりと言わんばかりの笑みが浮かんでいた。


「死んだと思ってた母親と再会できたもんで」

「なんだいそりゃ。でも良い。最高じゃないか!」


 もはや言葉は必要なかった。

 僅かに視線を交差させた後、老人の表情で男は何も言わずにヨーコからのビデオメッセージを再生する。




 これが時代小説家、長谷川=カトー=ペネロペが死を迎える前日の出来事であっ

た。






(あとがき)

これにて番外編は終了となります。

次章以降も本作をお楽しみいただけると幸いです。

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