第10話 いと高き処に座して奈辺を見遣るか

キース・アンヴィルは魔王城の長い廊下を歩いていた。

既に窓の向こうの空は暗く、月明かりが庭のよく刈り整えられた芝生と植木に降り注いでいる。

たった今届いたばかりの報告書を手に、キースは魔王の執務室へと入室した。

部屋の主はどっしりとした執務机につき、明日までに各所へ届ける必要のある書類に目を通してはペンを走らせている。


「我が君、伝令鳥より報告が届きました」

「聞こう」


部屋の主は書類から目を上げることなくキースに応えを返す。

上司のずば抜けた情報処理力にここ数年ですっかり慣れたキースは、そのまま手の中の報告書を読み上げた。


「例の件ですが、証言通り王都の道具屋で紅玉の欠片が見つかりました。

十年以上ろくに人の出入りが無く扉もツタで覆われているような物置の、存在すら忘れられてびっしり埃が積もった地下室の、言われた通りの場所に置かれた錆びつき切った箱の中で、です。

そういった工作に詳しい者を派遣しましたが、数十年は放置されているとみて間違いないとのことでした」

「そうか」

「……遺跡の調査は本当に後回しでよろしかったのですか?」

「構わん。この非常時に何の関係もない場所へ武官を複数人派遣していては目立つ」

「は、差し出がましいことを申しました」


それはその通りではある。道具屋への確認とて、信頼できる部下に個人的な買い付けを装わせて行ったのだ。

連日キースの頭を悩ませていた国内の環境問題に、唐突な解決策が飛び込んできたのは、ほんの数時間前のことだ。

驚くほどに鋭い目つきをした、年若い人間の女。

魔王が連れてきた彼女の口から語られる言葉は、一国の中枢で働くキースをしても動揺が隠せないほどに、驚きに溢れていた。

話の内容自体もだが、もう一つ驚いたのは、己の主君の常にはない様子にだ。


セオドア・ハートフィールドという男は、キースの知る中で最も感情を揺るがせることのない男だ。

起伏が乏しいわけではない。むしろ本来は激情家なのではないかとキースは思っている。

しかしそれを理性でねじ伏せ、波立たせず、常に国民に対する愛情と責任感に満ち溢れている。

キースの良く知るセオドアという男は、そういう男だ。

それが今日は珍しく、どこか穏やかというか、楽しげというか、そんな感情をみせていた。

残っていた十数枚の書類にサインをした後、セオドアはペンスタンドに羽ペンを置き、傍に控えていた側近の顔を見上げた。


「今日の執務は終了した。お前も少しは楽にするといい」

「では失礼して。我が君、客人をお通しする場所は本当に白百合宮でよろしかったのですか」

「あそこならば周囲から隔離され、かつ不便なく過ごせるだろう」

「それはそうですが……、後宮ですよ」

「そうだな」

「未婚の女性を泊めるには不適切でしょう」

「緊急事態だ。俺がめずらしく女に入れ込み囲っているとでも思われたほうが、目眩ましにはなるだろう」

「お言葉ですが、我が君。貴方がそのような噂の流れる男であったなら、私はこれほど后探しに難儀しておりません」


渋面でそう言うキースに、魔王はくつくつと喉を鳴らして微かに笑った。

現在魔王は28歳になるが、これまでに后は一人も迎えていない。

これはなにも魔王の后探しの注文が細かすぎるだとか、相応しい血筋でよい年頃の相手が居ないだとかいうわけではない。

むしろ魔王はこれまでに、后の選定基準についてキースに口出しをすることは一度も無かった。

魔王は若く、聡明で、美しく、その上誰も比肩しうることのないほどに強く、公明正大で愛情深い理想的な王だ。

しかしながら、あまりにも理想的すぎた。


今までに声をかけた貴族の娘は多かれ少なかれ皆魔王を慕っていたが、揃って、とてもわたくしなどにそのような大役は、と自ら后の座を退いた。

魔人の国における王座は、血縁によらない。

つまり魔王が必ずしも后を娶り、子を成さなければいけないというわけではない。

これが義務であれば娘たちとて怖気づいても嫁いできただろうが、あくまで居た方が望ましい、という程度の后の位であるのだから、断っても角は立たない。

完璧な容姿と完璧な能力、その上並大抵の兵は人睨みしただけで震え上がらせるような強い覇気。

こんな威圧感溢れる男に嫁ぎたいという女性もいるにはいたが、総じて野心家で後々面倒が起こりそうな気配が強く、これはキースの判断で選択肢から外した。

そんなわけで、この国で最もモテる男は、この国で最も結婚にも恋愛にも縁のない男になったのだった。


「その噂に無理があるのならば、見込みのある戦士を見つけて稽古をつけている、とでも言っておけばいいだろう」

「はあ、もう、そのようにいたします。……しかし、よろしいのですか、我が君。あの者は控え目に言っても、狂人の部類ですよ」

「だろうな」


そこには魔王も当然のこととして頷きを返す。

リーナ本人には自覚がないが、魔王と正面切って睨み合える女というのは、それだけでとてつもなく珍しい。

魔王は少し考え、信頼する側近に意見を求めた。


「お前の目から見て、リーナはどのような人間だ」

「そうですね……。まず嘘はついていません。あの能力は本物でしょう。それにこちらへ向ける感情は、根本的に好意です。

例えるなら、貴方に憧れて兵士になる新兵にも似ています。が、それよりはずっと冷静で客観的な感情にも見えました。

しかし最も特筆すべき点は、……なんと表現すればいいか、あの一切の不都合を真正面から殴って壊しそうな我の強さというか、感情の巨大さというか、意志の強さは相当なものですね」

「確かにあれは相当な頑固者だろうな。

俺はあの者と岩山のドラゴンを討伐したが、その時も実に見物だった。追い詰めたドラゴンを左右から挟撃し、リーナはドラゴンのブレスを撃たれたのだ。あれがその時どんな動きをしたかわかるか?」


これまためずらしく楽しげに問いかけを口にする上司に、キースは目を丸くした。

少しの時間考え、自信はないが返答をする。


「見事に避けた、のでは?」

「いや、避け損ねて頭の右上に食らい、肌が焼けて耳が消し飛び片目も潰れた。が、攻撃を受けている最中にすら瞬きひとつせず、怪我を意に介さずにドラゴンを殴りつけていた。俺はその隙にドラゴンの首を半ばまで落としたが、あれは楽をさせてもらったな」

「……それは、なんとも、豪快ですね」

「実に見事だった。それで俺はてっきり名のある戦士かと思ったのだが、まさかパン屋とはな」


それはさぞかし意外だったろう。キースとてあれはなにかの冗談かと一瞬思ったが、リーナの顔に浮かんだ心底心外だという感情が真実を物語っていた。


「それで、まさかその傷を薬か何かで癒して、そのまま王城へ?」

「ああ。あの者は実に勤勉だな」


魔法薬は確かに即効性が高く、ある程度は欠損すら治してしまえるが、だからといって、大怪我を負ったという心理的衝撃が癒えるわけではない。

キースが最初に見たリーナは、多少の緊張こそあれど、恐怖も忌避感も、何一つ持っていなかった。

その異常性を勤勉の一言で表す魔王も魔王だ。

しかし彼もおそらく、そんな場面で恐怖など微塵も感じず行動するのだろう。

席を立ち、姿勢の良い真っ直ぐな歩みで部屋を出た主君の後を追い、キースも報告書片手に廊下を歩く。

前を行く魔王はいつも通り沈着冷静を絵に描いたような、大海のごとき落ち着いた感情をしているが、今日はその上にうっすらと愉快そうな色が見える。


「キース、俺は白百合宮へ寄ってから帰る」

「この時間にですか?」

「ああ。急な逗留だ。足りないものがあるか聞いておこう」

「そのような事でしたら、私が」

「いや、後宮からお前の宿舎まではそれなりに距離もあるだろう。俺が聞いて王付きの女官に手配を頼んだほうが早いし人手も使わなくて済む。

お前は明日に備えて早く休め。あの赤毛の学者の論文はしっかり休めた頭で読まなくては苦労するぞ」

「……勿体ないお気遣いを頂き、恐縮です。では、我が君。失礼させていただきます」

「ああ」


去って行く主君の背中が廊下の角を過ぎるまで頭を下げ、キースは己の胸中のなんとも言い難い違和感に、しっくりくる言葉を見つけた。

このマイペースさ、頑固さ。

突如現れた奇妙な女は、どうやら己の主君と似た者同士らしい。



レニー・エイマーズは急遽泊まることになった王の後宮の一室で、ふかふかのクッションに座って、目の前の気の抜けた寝顔を眺めていた。

ほんの一週間ほど前に出会った不思議な生き物。

驚くほどにまっすぐで、妙なところで不器用なリーナのことを、レニーはとても気に入っている。


彼女は奇妙と言うよりほかにない。

ほとんど世捨て人のように生きていたレニーに土下座して助力を乞い、びっくりするほど脈絡のない方法で成果を上げる、嵐のような人間。

レニーが彼女を面白いと思っている理由は、不世出の天才たるレニーをしても予測の難しい行動にもあるが、多くはその感情面にある。

突然現れた彼女に対してレニーが試すような態度をとっていたことに、リーナは言われるまで全く気付いていなかった。

それどころか、なぜかこちらを初対面の時点で心の底からあてにし、当たり前のように全幅の信頼をおいて、不用心なほどに距離感が近くひとつの警戒もしていない。


はっきり言って彼女は狂人のたぐいである。

他の人間には理解できない独特の理論で行動を決定し、大切にしている一点については、絶対に意見を曲げることがない。

その狂人から一切裏のない、愛情と呼んでも差し支えのない感情を向けられて、レニーはこう思ってしまった。

なんだこいつ、おもしろいな。と。


そうなってしまうともういけない。

魔人の国の状態に興味があり、助けられるものなら助けたいという気持ちも嘘ではないが、旅の動機の大半はリーナに対する好奇心だ。

面白さにつられて行動を共にしてみれば、なにかと豪快な彼女にも、思いのほか繊細な感情の機微が存在していることに気付く。

それどころか、非常に遠回しで複雑な感情を向けている思い人まで存在した。

しかもそれは、よりにもよって、この世で一番偉い存在二人のうちの一人、魔王だったのである。

こんなに愉快なことがあるか。


レニーは有体に言って趣味人だ。人生のほとんどの選択を楽しいか楽しくないかで決定しているし、面白いことだけして生きていたい。

そんな自分の前に降ってわいた、この愚かしくて面白くてぐりぐり撫でつつ可愛がりたい存在を、だからレニーはそりゃもう毎日うきうきと観察している。

勿論きちんと友情だってある。ただ面白がっているだけではなく、彼女の目的と、それから恋路だって応援するつもりがある。

ただ、どういう手段をとるか。それが問題だ。


レニーがリーナの意外にもちもちなほっぺをつつきながら悩んでいると、不意に部屋のドアをこつこつとノックする音が聞こえた。

さてはタオルやらなにやらを届けてくれた女中が、他にもなにか持ってきてくれたのだろうか。

そう思って扉を開けてみれば、そこに居たのは意外なことに魔王だった。


「えっ、何かあったっすか?」

「いや。ただ何か足りていないものがないか聞きに来ただけだ」

「魔王様直々にする用事じゃないと思うっすけど……」


しかも時刻は夜である。

己とリーナの事を淑女などと呼称する気はないが、それでも適齢期の女ではある。

何でこの人一人で来たんだ。と思いもするが、なにせ今は極秘作戦中なのだ。自分達に接触する人間を最小限にとどめたいという考えからだとすれば、理解できなくもない。

それに何より、目の前のこの男には、下心というものが一切見えなかった。

それはもう死ぬほどモテるだろうという外見と地位と能力と財産を持ちながら、魔王には人間らしい生臭さとでもいうようなものが、まるでない。

それでいて人間臭さは多少なりとあるのだ。

こいつもこいつで面白いよなと思いつつ、レニーは一計を案じた。


「あー、じゃあ小麦粉とパン種……、いや、女中さんにパン焼きに必要な材料と調理器具一式持ってきてくれるようにお願いして欲しいっす。

リーナが疲れ切ってダウンしちゃったんで、気分転換になるかなと。あの子この頃働きづめなんすよ」

「そうか、手配しよう」

「それとー、こんな事を魔王様に頼むのは悪いと心底思うんすけど、リーナがソファで寝落ちちゃって。できればベッドまで運んであげて欲しいんす」

「……なに?」

「いや、無理言ってるとは分かってるんすよ。でもうちのテディ、ああ、あのクマのぬいぐるみみたいな子なんすけど、あの子は今お風呂入ってて、乾かすのにもちょっと時間掛かっちゃうんすよね。だからまだ運ぶの頼めなくて。

その間リーナを寝心地悪いところに転がしておくのも可哀想じゃないですか。わたしはこの通りちっちゃいから、自分で運べないんすよ」


勿論こんな頼みを王にしたなら、普通は気分を害されるか、何か企みごとがあるのかと不審がられるだろう。

しかしレニーはそうはならない確信があった。

この魔王、国内ではときに崇拝と言って差し支えない程の感情すら向けられる、生きていながらに伝説と化しつつある完璧超人だが、お人好しなのだ。

なにせレニーの砕けた口調に今まで文句のひとつも言ってこない。

おそらく大抵の相手には好きなように振舞わせるし、誰の不利益にもならない願い事であれば、立場的な観点から見て多少無礼でも、叶えてしまう度量の広さがある。

なのでこうして申し訳なさそうに頼めば、十分勝算はある。


「……いや、しかし、寝ている間に男に触れられたとあっては、さすがに気にするのではないか」

「大丈夫すよ。リーナは介抱されただけで男だ女だ言い出す繊細な神経してないっすから」


これは半分嘘である。たしかに普段は気にしないだろうが、相手が魔王だった場合のみ、リーナは心底気にすることだろう。

そこは隠してあっけらかんと言ってみせるレニーに、魔王はため息をついてから部屋へ入った。

ソファにぐでりと座り、首をぐんにゃり曲げて苦しげな姿勢で眠るリーナの膝の裏と背中に腕を回し、魔王はその体を難なく持ち上げた。

羽毛入りの枕でも持っているかのような気軽さで人一人持ち上げる身体能力は、さすがの一言につきる。と言ってもおそらくリーナもその気になれば、魔王を苦も無く姫抱きできる腕力はあるのだろうけれど。


魔王は全く起きる気配のないリーナを、寝室の扉を開いて先導するレニーの後について運び、ベッドの上にそっと横たえた。

その上から毛布をかけ、頭をぽんぽんと撫でてやる仕草は、リーナに対する好意的な感情からくるものだろう。

しかし、何と言ったらいいのか。

レニーは内心不満でいっぱいだ。

魔王の仕草は年の離れた妹か、あるいは娘にでもするような、非常に穏やかな愛情表現としか言いようがなかったからだ。


普段の行動は奇矯で、初対面の相手を怯ませるほどに眼光の鋭いリーナではあるが、彼女は客観的に見て凛として美しいと言って差し支えない容姿をしている。

そんな美少女が無防備に眠る姿に触れて、全く一切これっぽっちも鼻の下を伸ばさないあたり、まともな大人だと言ってしまえばそれまでだが脈が無さ過ぎた。

あるいは人前で感情を表に出すような迂闊さが無いのかもしれないが、レニーは天才ではあれども人の感情の機微に非常に鋭いというわけではないため、そのあたりは判断がつかない。

まあ、今は人並みの好意を持っていると分かっただけでいい。

レニーは気を取り直し、長居せず部屋を出た魔王に礼を述べた。


「やー、ありがとうございます! これでゆっくり寝てもらえるっすよー」

「ああ」

「あ、そう言えば明日の訓練って、何時からなんすか?」

「午前中は公務がある。そうだな……、夕方とまでは言わないが、午後の遅い時間になるだろう。明日の昼までに時間を伝えるので、それまでこの宮の中でなら自由に過ごしていて構わない。

頼まれた物については朝に届けさせよう。外へ出る用事があればその際手紙で連絡してくれ。当たり障りのない事なら口頭で伝えても構わない」

「了解っす。リーナにも伝えておくっすよ」

「頼む。では俺は帰る。よい夜を」

「はい、魔王様もよい夜を」


定型文の挨拶をかわし、扉を閉めた魔王は足音も無く去って行った。

用事が済んだことを察して脱衣所に繋がる扉から顔を出したテディを、ふわふわのタオルで拭いてやりながら、レニーはううんと唸り声をあげた。


「あー、あの人何考えてるんだか分かりづらいっす。これでちょっとでもリーナのこと意識してくれれば面白いんすけどねえ」


享楽主義の気がある稀代の天才は、さらに愉快な事態が訪れますようにと、窓の向こうの美しい星空に願いを託すのだった。

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