裏切られた回路技術者、一念発起したら娘が・・・




蔵部くらべ~」

「はい」


 開発設計部の課長に呼ばれた蔵部春樹はるきは、エレクトロニックサブストレート株式会社、開発設計部の回路設計技術者である。開発課の仕上げた回路図を、基板に落とし込むための設計図を作る、設計課の主任である。


「申し訳ない、特急案件です」

「またですか?」

「私からも部長からも、営業部に苦情入れておきますから」

「今月に入って私だけで三件目ですよ。勘弁してほしいものですね」

「全くですよ」


 AIによる自動配置があるからまだ助かっているが、それは汎用的な設計なら、の話である。

 実際の所、春樹クラスになると、AIにさせるよりも自分でやった方が早く美しい。AIにやらせると部品配置に無理が起こる場合もあり、部品を繋ぐ導線が引けない事もある。その確認で余計に時間を取られてしまう事もある。

 席に戻った春樹は工程表を見てげっそりする。


「おい、また残業かよ・・・」

「大丈夫ですか?」


 隣席の春樹の部下、吉田よしだれいが心配してくる。

 同期入社で設計部門では貴重な女性だ。彼女は、部品が実装される直前の基板に一目惚れした異色の設計師であり、それをデザインとも呼ぶ。

 コンタクトを付けていれば美人だが、仕事中は作業服に野暮ったい眼鏡のノーメイクで、ポニーテールよろしく髪をくくっているので、結構地味。


「ああ、俺は残業確定だが、そっちに影響が出るようなもんじゃない。だから、帰れるなら気にせず帰るんだぞ」

「ありがとうございます」


 部下に心配されげんなり、その日家に帰り着いたのは、日付も変わって一時間も立っていた。

 翌日のチーム毎の朝礼


「主任、眠そうですね」

「すまん、カフェインを補給したんだが、根本的に睡眠時間が足りねーや」

「昨日も残業だったでしょう?」

「我々に手伝えることならどんどん振ってください」


 部下に残業させないようにしていたら、特急案件が春樹に集まってしまうようになった。その為に、ひと月の残業が三六協定に引っかかりそうになった事さえあるが、集中する時に集中するので、年間通すと案外普通だったりする。


「じゃあ、そうだな、吉田、工程に余裕はあるか?」

「あります」

「全体工程の見直しを頼む、来週は残業したくない」

「分かりました」

「だからと言ってお前らが残業したら何の意味もないからな?」

「はい」


 そう指示を出して仕事始めた春樹の欠伸が止まらない。それが部長の目に止まり、休憩中も仕事する春樹の肩を叩いてきた。


「春樹君」

「あ、部長、すいません。これは」

「特急案件だろ?分かっているよ。営業部は勿論の事、社長に苦情を入れて、梃入れの約束もしてもらったから、安心してくれたまえ。これは私からのおごりだ」

「ありがとうございます」


 机に置かれたのはトドールのアイスコーヒーで、コンビニで買えるようなものではなく、店舗で買えるものだった。

 春樹はバックスターズ派ではあるが、トドールも嫌いではない。寧ろ、少しでも混んでいるようならトドールに行くぐらいだ。

 部長がトドール派で、会社の隣にトドールがあったりする。特急案件が入ったり、大きな案件が入ったりすると、関わる部下にコーヒーの差し入れをしてくれる優しい人だ。


「少しは休みたまえ、根を詰めすぎると工程に余計な後れを出してしまうからな」

「はい、後ほど別で休憩を取らせていただきます」

「うむ」


 結局この日も残業となったが、課長が付き合ってくれ、一緒に確認作業を、後の行程に三日の余裕を作って、実装技術部に渡す事ができた。

 お礼も兼ねて課長を自宅に招待、残業も二時間ほど、即ち二十時に終わって返れたので、宅のみをするのである。

 二十一時、マンションに到着した二人は、部屋に入って愕然とした。


「え、おおや、さん?」


 泣き腫らした顔をしてソファで眠る春樹の娘、三歳の仁美ひとみの傍にはマンションの管理人であり大家さんがいた。


「あの、春樹さん、落ち着いて聞いてくださいね」

「あ、ああ」


 春樹が仁美を抱き上げると、仁美の顔は心なしか落ち着いて安心したように見える。

 ソファに着座し、大家に聞かされた言葉に、心の中では愕然とするほかなかった。

 十六時過ぎ、春樹の部屋から子供なく声が聞こえ、両親を呼ぶ声が止まらない、心配したお隣さんが大家を呼んで部屋に入った。

 そこには置手紙と、判の押された離婚届が置いてあり、部屋で一人にされた仁美は寂しくて泣いていたらしい。


「そう、か」

「驚かないんですか?」

「ん?とうとうやりやがったかと思ってますよ。妻の奈津なつは一年前から浮気してるんですよ。だから、実家に帰ったのではなく、今は彼氏の所にいるんでしょう」


 冷徹に言い放つ春樹の様子に、課長と大家は引いてしまった。

 愕然としているのは子供に対する態度だ。奈津に対する愛情は浮気に気付いた時点からない。


「あーあ、家建つのになぁ、馬鹿なやつ。観葉植物、パソコン、それから、食器棚、隠しカメラがあるので負けませんよ」

「慣れてるな・・・」

「ああ、友人が探偵なんですよ。幼馴染が弁護士ですし。派手好きだったし、子供産んで落ち着いたと思ったんですけどねぇ。仁美、ごめんね。パパが守ってあげるからね」


 トントンと背中を叩いてあげながら、仁美に語り掛ける春樹の顔は穏やかだ。


「課長、とことん飲みますよ」

「おう、付き合うわ」

「大家さんもどうですか?せっかくだし、愚痴大会と行きましょう」

「付き合います」


 こうして三人の酒盛りが始まった。

 冷徹な様子から一変し、春樹は見事なやけ酒、泣きに泣く春樹をみて、二人は幾分安堵した。

 離婚調停は順調に進んだが、仁美は母親がいなくなったことを受け入れられず、春樹は当たり散らされる毎日、大家や他の住人の協力もあるが、春樹はどんどんやつれていった。


「在宅か、まぁ、確かになぁ」

「降格で構わないので」

「おいおい勘弁してくれよ。君のような優秀な技術者を降格するのは許容できんよ」

「実家から母が来てくれてますけど、実家には実家の商売があります。せめて待機児童でなければ、どうとでもなるのですが」

「まぁ、な。うむ、もうしばらく辛抱してくれないか?社長に協議してもらえないか打診するよ」


 午前中にこんな話をすると、午後には社長室に呼ばれ、話し合いが行われた。

 仁美が待機児童でさえなければ、深刻化する待機児童の問題が直撃し、その日の夜、春樹は泣きじゃくった。

 事実上の諭旨退職となったのだ。

 社長はできる限り春樹に寄り添おうとした。在宅ワーク、リモートワークに前向きだった。

 しかし、役員は許さなかった。


「なぜ春樹君一人の為にシステムを構築せねばならんのだ。そんなシステムが欲しければ、そのシステムがある会社に行ったらどうだね」

「家庭の事情など、会社には関係のない事だ。離婚にしたって君にも問題があったんじゃないのかね?娘が保育所に入れないのも君の努力不足だろう?」


 春樹は胃がキリキリと鳴った気がした。

 特急案件をこなし続けられる社員がいないことは分かっているので、翌日には退職届を出す約束をして、部屋を出て行った。


「パパ?泣いてるの?」

「え、いや、そんなこと」

「うそ、泣いてる。ひとみが、いい子じゃないから」

「そんなことないよ。仁美はいい子だよ」


 翌日から、仁美は見違えるようにいい子になった。春樹の母、祖母の手伝いを良くするようになり、春樹に当たり散らすようなことはなくなり、帰って来ると玄関まで出迎えに行き、甘えることが多くなった。

 引継ぎが終了し、退職する頃には春樹の顔色は良くなっていた。

 それから二ヶ月後、春樹は引っ越し、その手伝いには元同僚たちが集まってくれている。


「主任、やりますね」

「もう主任じゃないよ」

「そうだった」


 そんな会話を繰り広げた翌日、春樹は慰謝料を元手に回路設計事務所を立ち上げた。手が回らない分を春樹に外注する形が主でもあるが、特急案件をこなしていた春樹だからこそ、そう言う企業から直接依頼を受けるようにもなった。

 春樹が仕事を辞めてから一年、開発課から一人、設計課から一人、そして営業部から一人、そして、社長が春樹の事務所にやってきた。


「なるほど、どんどんブラック化してるのか」

「はい。もう耐えられなくなりそうなのが目に見えてて、三人で辞めて来たんです」

「役員の暴走を止めらないのはほとほと、自分の力を思い知ったよ」


 麗と社長から話を聞いて、春樹はだろうなと思った。

 役員の人間性はなじられた時点で諦めた。諭旨解雇に同意したのも、この人らの下では働けないと見切りをつけたからである。

 麗に加えて辞めてきたのは、開発課のエース、鈴木すずきじゅん、営業部の副主任、奥野おくの雅文まさふみ、全員同期だ。社長の名は柏木かしわぎ隆平りゅうへいと言う。

 なんでも、社長は昨日付けで解任されたらしい。


「方針が変わったとかで、営業部は何でも仕事取って来いと言われ、申し訳なさ過ぎていたたまれなかったです」

「特急に次ぐ特急で、始めは工程遅れもなかったんですが、限界が来るのは早くて、部署には死相が出てない社員はいませんでした」

「辛かっただろうけど、うちに来たからって、なぁ」


 春樹一人だから回っているようなもので、仕事も早いので、多くの会社に春樹は重宝されている。


「仕事は私がとってきます。春樹さん、お願いします」

「・・・わかりました。技術は確かです。せっかくだ、仕事は全部奪ってやるつもりでやりますか」

「「「はい」」」


 春樹がまずやった事は、エレクトロニックサブストレート株式会社から、徐々に名だたる技術者の引き抜きだった。

 手始めは部長、あれだけ優しい人だったので、当然のように役員との軋轢が生まれていた。その部長のもつ情報から、危ない人間から引き抜きを掛けていく。

 更に動画サイトをフル活用し、技術の高さを宣伝、回路の解説をするようなり、界隈では瞬く間に名が売れた。

 一年後には職業訓練校の外部講師を務め、自前のオフィスを構えるようになった。

 更にその一年後、仁美が小学一年生になって連れまわさなくて良くなった頃には、エレクトロニックサブストレート株式会社が倒産した。

 引き抜きが簡単なら仕事を奪うのも簡単だった。隆平の解任によって、取引企業が訝しげになり、徐々に落ちていた品質が一気に落ちたからだ。

 こうして順調に仕事を奪ったこともあるが、ブラック体質をすっぱ抜かれ、行政処分が降りた事が大きい。また、一部の社員に未払いの残業代を請求する裁判を起こされて負け、春樹によって役員の音声が流出したからである。


「雇われ社長には力がないんだな」

「そりゃそうでしょ。でも、経営手腕には期待してるんですよ?」

「ああ、任せろ」


 この頃、龍平は副社長に就任、引き抜いた社員たちも待遇は同じになっていた。

 また、回路設計事務所は名前を変え、株式会社蔵部エレクトロニクスになっている。業界王手とまではいかないが、回路設計で多くの会社と業務提携し、製品を生み出し続けている。

 そして、エレクトロニックサブストレートよりも大きな会社となり、自社ビルを建築するまでに至った。

 役員たちの再就職先はない。

 春樹によって流出した音声データが致命的で、パートならまだしも、正社員として雇うには人格の破綻が知れ渡ってしまっているからだ。

 仕事を辞めてからの怒涛の四年間、仕事が楽になって八月のある日。


「パパお帰りなさい」

「ただいま」


 エプロン姿の娘の出迎えを受けて帰宅、何時まで続くんだろうかと思いながら、一緒にリビングに顔を出すとキッチンの方に、今年結婚した妻がいた。


「お帰りなさい」

「ただいま」


 オフィスを構えるまで、仕事は自宅でやっていた。その関係で、仁美はすっかり麗に懐いてしまった。

 麗としては上司と部下の関係で済ませるつもりだった。彼女がいて、結婚して子供がいたから。それが、仕事を辞めて来てみると、子持ちだがフリーと言う状態になっており、仁美を懐柔した後、ここぞとばかりに春樹を落としに行った。


「ママのお手伝いしてたのか」

「そーだよー」

「今日のハンバーグは仁美ちゃんが捏ねたんだよねー」

「うん!」

「そりゃうまそうだ」


 幸せな顔が並ぶ夕食、片付けをする春樹の見ている先で、麗のお腹に耳を当てる仁美の姿があった。

 笑顔で何かを話す二人、春樹は片付けを終えると二人の話に混ざる。


「パパ」

「なんだ?」

「自由研究手伝ってほしいの」

「いいよ。テーマは?」

「電子工作!」


 笑顔の春樹の目に涙が浮かんだのは言うまでもない。

 株式会社蔵部エレクトロニクスを継ぐ、女性技術者が生まれるのだが、それはまた別のお話・・・。



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