第30話「あとのことは知らない」


 次の日、部屋を出て行った一叶いちか。荷物は後で業者が引き取るらしい。


 モーニングセットすら食べずに、何も言わずに登校してしまった。バイトにも、もう来ないだろう。


「亮ちゃん。気付くの早すぎるのよ。もうちょっと段取りよく事が進めば、円満に解決したのに」


 落ち込んでいた俺に雪姉が優しく話しかけてくる。


一叶いちかを傷つけたことは申し訳ないと思っているよ。あいつが俺を恨むのもしかたないと思っている。だからせめて、あいつのこれからをよろしく頼むよ」


 それがせめてもの償い。


「ええ、わかってるわ。悦司さんが新しく立ち上げる書籍ブランドでイラストレーターを探しているのよ。一叶いちかちゃんはそこでプロデビューできるわよ」

「あいつは才能がある。潰さないでくれ」


 それは切実な願い。


「知ってるわ。任せて」

「……」


 心が苦しい。


 雪姉はあの子に申し訳ないと思っていないのだろうか? 俺はその質問をするのが怖かった。


 もし肯定されたら、俺は自分の想いさえ信用できなくなる。彼女は本当に俺を助けたのだろうか?


「そうそう。亮ちゃんの本、完成したんでしょ? まだ見せられないの?」

「今夜にでも渡すよ」

「そう、楽しみにしているわ」


 夕方になって一叶いちかが店にいないのが、とても違和感があった。そして、とても空虚だった。


 俺はあの幻の小悪魔に惹かれていたのかもしれない。そして、それと対となる水族館の少女にも。


 閉店してクロージング作業が終わり、帰り間際の雪姉に本を渡す。世界で一つの同人誌。最初で最後の一叶いちかとの合同作。


 本のタイトルは『親愛のシンギュラリティ』。


「家でゆっくり読ませてもらうわね。あれ? メッセージかな」


 振動したスマホを鞄の中から取り出す雪姉。


「あらあら、困ったわね」


 雪姉が頬に手をあてて、本当に困惑した表情をする。多少のことでは笑顔を崩さないので、めずらしくもあった。


「どうしたの?」

一叶いちかちゃん、せっかくのお仕事、断っちゃったみたいなの」

「は? まさか、仕事内容が話と違ってたとか?」


 新人イラストレーターだからって、買い叩かれたんじゃねえだろうな。


「まだ、そこまでいってないわ。作者名は伝えたけど、打ち合わせもしてないし」

「じゃあ、なんでだよ?」


 話ぐらい聞いてから判断しろよ。


「さあ? けど、これは私の憶測だけどね」

「何か知っているのか?」

「たぶん、一叶いちかちゃん。あなた以外と組みたくないんじゃないの?」


 雪姉がしまい込んだ『親愛のシンギュラリティ』を取りだして俺に表紙を向ける。


「なんで?」

「あなたに惚れちゃったんじゃないかしら? あなたの作品にしか絵を描きたくないって」

「まさか……」


 たしかに一叶いちかは「自分が認めた作品以外は描きたくない」と言っていた。でも、あれは演技じゃなかったのか?


 俺に近づくことが目的なのに、俺に惚れるなんてありえない……。


 そんな時にふと思い出す。


『岩神一叶を信用するな』


 謎の怪文書。……そうか、あれは彼女自身が投函したものだ。


 一叶いちかは嘘を吐くのが苦痛だった。その罪滅ぼしがあの手紙か。クソッ! もう少し早く気がつけば。


 水族館で意気投合して、その直後にあれが投函された。あの時の一叶いちかの言葉はどれも本当だったのかもしれない。


 本音で語り合えたのに、俺を騙さなければいけない自分との板挟みで苦しんでいたのか。


 一叶いちかの唯一の失敗は俺に惚れてしまったこと。『あり得ない』『自意識過剰』だと、その可能性を除外してしまったのが悔やまれる。


 わかっていたのなら、あの場で俺は一叶いちかを引き留めていた。抱き留めていた。


一叶いちか……」


 そして、もう一つ俺が理解し損ねていたことがある。


 一叶いちかがバイブルにしていたものだ。


 それこそが重要である。


 あの子は俺のデビュー作ではなく、渾身の作品である二作目を選んだ。古い自分を捨ててプロとしてやっていこうと気概を持った作品をだ。


 だからあれをバイブルのように、いつも持ち歩いて読み込んでいたのだ。本がボロボロに傷んでしまうほどに。


 俺は決断を迫られる。


 変化をよしとせず、そのままの俺を受け入れてくれる雪姉とだらだらと一緒にいるか。。


 それとも、失敗を恐れず、困難な道を歩み、一叶いちかを迎えに行くかを。



**



 月音から電話が来た。


「岩神さんがもう三日も学校に来てないの。何があったか知らない?」


 今回の雪姉の策略を知っていたのは花音だけ。月音は計画に支障が出ると知らされていなかったのだろう。


「原因は雪姉だよ。俺にも少なからず責任はある。花音も事情を知っているはずだ。家にいるんだろ? 聞いてみればいい」


 俺から話す気にはなれなかった。


 想像以上に一叶いちかの傷は、簡単には癒えないのだろう。


 自分の部屋を見回す。他の部屋と違うことは、PCがあることだけだ。他には大した物はない。この部屋に来たとき、俺はほとんど廃人に近かったし、部屋は寝るものだということは今でも変わらない。


 引っ越すのは簡単だ。


 雪姉にはとても感謝している。どん底から俺を拾い上げ、人間の生活に戻してくれた。


 だからこそ、甘えたままではいけない。


「迎えに行くか」


 俺は決意する。



**



 花音に頼み込んで、一叶いちかとの待ち合わせのセッティングを頼む。


「なんでわたしが亮にぃのために……」


 相変わらず彼女は不機嫌な態度でいる。


「俺は決意したんだよ。それは、おまえの望む未来にも繋がる」

「どういうこと?」

「アイシスを辞めるよ。あの部屋も出て行く。雪姉とはもう会わない」


 交換条件としては、これ以上にないものだ。


「そう。それなら一叶いちかに連絡をとってあげてもいいわ」

「俺と待ち合わせとなると来ない可能性が高い。だから、花音が呼び出したことにしてくれ。別に花音が同席する必要はないから」

「わかった」


 花音はスマホを取り出し、メッセージを飛ばす。


「今日の夜7時に駅前のファミレスで私と待ち合わせってことにした。あとのことは知らない」

「すまん、感謝する」

「いいわ。亮にぃがいなくなるのなら」


 花音とはそこで別れる。彼女とも、もう会うことはないだろう。


 すべてのことに俺は蹴りをつける。



◇次回、最終話「先輩、感想は?」にご期待下さい!


明日、完結します。


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