第10話「なんかドキドキします」


 一叶いちかは飲み込みも早くて、接客の仕事をうまくこなしていった。


「もうちょっとドジッ子だったら面白かったんだけどね」

「わたしをナメないでください。手先は器用な方ですし、対人スキルは鍛えられていますから」


 まあ、あれだけの男子を従えているんだ。そういう意味じゃ、相手を立てるのも巧いんだろう。


 一叶いちかの話では、サークルの中でストーリーメーカーを見つける気もないようだし、自己防衛のための集団だから、ご機嫌取りの方がメインなのかもしれない。


 しばらく仕事をしていると、雪姉が近寄ってきた。


「亮ちゃん。事務所に太郎さんがいらっしゃったみたい。対処よろしくね」」


 ぼそりと俺に耳打ちする。


「わかりました」


 そう言って俺は奥の事務所に入ると、武器を手に部屋をじっくりと見回した。


「先輩、どうしたんですか?」


 一叶いちかが入り口から入ってきた。俺の前に立ち、不思議そうな顔をする。


「しっ!」


 口に指を当てて沈黙を促す。


「わたし、休憩で……きゃ」


 入ってきた一叶いちかの口を押さえる。彼女は見てしまったのだ。事務所内でかさかさと動き回るゴキブリの存在を。


 飲食店では、客にその存在を知られないように「太郎」または「花子」と隠語が使われる。どんなに綺麗に保ったところで、あいつの繁殖は避けられないのだからな。


 ゴキブリは扉のところまでかさかさと動き回り、そこでピタリと止まってしまった。


一叶いちか。大声を出すと、客に悟られる。あいつの対処は俺がするから、とりあえず静かにしててくれ」


 口から手を離し、ゆっくりと一叶いちかを解放する。ここで彼女に騒がれたらここまでの努力が水の泡だ。


「……はい。でも、入り口を塞がれて絶対絶命じゃないですか、わたしたち」


 震えた手で俺の腕にしがみついてくる一叶いちか


「そうでもないさ。俺には最終兵器がある」


 そう言って、手に持っていたゴキブリ用の瞬間冷凍殺虫剤を見せる。飲食店だから、人間にも害のある殺虫成分が含まれていないものを選んでいた。


「はは……なんかドキドキします。先輩が、なんだか頼もしく感じます」

「あほ……ただの吊り橋効果だ。この状況を後になって冷静に思い返すと、めちゃくちゃ恥ずかしくなるぞ」

「そうですけど……わたし、Gはダメなんですよ」

「安心しろ。俺もダメだけど、雪姉もダメだからな。俺は雪姉の為なら、なんだってやる!」


 俺は勇気を奮い立たせる。好きな雪姉オンナのためなんだと言い聞かせるように。


「あのー、わたしのためにやってくれないんですか?」

「は? おまえはただのモブだろ。俺は雪姉に頼まれたからやるだけだ」

「こういう時でも先輩は雪姉さまが一番なんですね」

「当たり前だろ」

「まあ、いいですけどね。わたしはただのバイトですし」

「そういうこと。とりあえず、腕を放してくれないか? 太郎さんへの攻撃がしにくい」

「あ。すみません」


 一叶いちかは顔を赤くして俺から離れる。今の態度は、小悪魔的な誘惑ではなく、素で怖がって俺にしがみついていたみたいだな。


「太郎さん成仏して!」


 俺は殺虫剤をスプレーする。と、太郎さんは一瞬逃げようともがくが、すぐに白くなって凍っていく。


 さすが-85度の威力。ちなみに-85度の冷気が噴射されるのではなく-40度の冷気である。-85度というのは室温35度を想定したものだそうだ。


「先輩、早く処理してくださいよ。これ解凍されたら生き返らないですよね?」

「瞬間冷凍で細胞が破壊されてるから大丈夫なはず。ただあいつらの生命力を考えると絶対死んでるとはいえないからな」

「恐ろしいこと言わないでくださいよ」


 一叶いちかは俺の背中で震えている。


「それよりも、休憩しなくていいのか? そこのソファーで寝てていいぞ」

「Gがいたと思われるところで休めるわけないじゃないですか。どうするんですか、このわたしの貴重な休憩時間」

「そんなの太郎さんに言ってくれよ」



**



 夜中に呼び鈴が鳴る。


 時計を見ると1時だった。


「誰だよ。こんな時間に……」


 俺は扉ののぞき穴から外を確認すると、そこには一叶いちかの姿があった。


 まあ、想定内の人物である。これが見ず知らずの相手だったらホラーだ。


「どうした? こんな夜中に」

「あはは、昼間のことを考えてたら眠れなくなりまして」

「たかがGだろ?」

「そうですけど、わたしがこれまで見たGの中でも、とびきり大きな部類でして」

「まあ、飲食店あるあるだ。餌が豊富だしな。いちおう、定期的に処置はしているんだが、根絶させるのはさすがにできない」

「ちょっとお邪魔していいですか。落ち着くまででいいんで」


 彼女は控えめにそう告げる。これまでの一叶いちかだったら、ぐいぐいと俺の部屋に上がり込んでもおかしくないというのに。


「まあ、いいか。泊めるわけじゃないから、問題ないだろう」


 そう言って、部屋に上げる。


「ありがとうございます」

「コーヒーくらいは入れてやるよ。ただし、俺の部屋だから、下のアイシスのコーヒーみたいな美味しいのは出せないぞ」

「おかまいなく」


 一叶いちからしくない言葉だ。


 俺はインスタントで手早くミルクコーヒーを作る。


 作り方は簡単だ。少量のお湯でインスタントコーヒーと砂糖を溶かし、氷を三つほど入れて手早くかき回す。こうすると温度が急激に下がって、冷たいポーションコーヒーのようなものができる。


 あとは、これを冷たい牛乳で割るだけだ。カフェオレと違うのは、1:1ではないこと。ミルクにほんのりコーヒー風味がついたものだ。


「おまたせ」


 俺はローテーブルにカップを置く。


「ありがとうございます」

「なんか意気消沈してるな。そんなにGのダメージがデカかったのか?」

「もう! 思い出しちゃいますから、その話題禁止です」

「わかったわかった」


 俺は両掌を一叶いちかに向け、おちゃらけた感じで降参する。


「これ、いただきますね。ん? 美味しい」

「インスタントだぞ」

「カフェオレ……じゃないですよね?」

「ミルクコーヒーだ。夜中にカフェイン取りすぎはよくないからな」

「優しい味ですね。わたし好きです」


 と飲み物を褒められたのに、なぜか照れてしまう……が、顔に出すのは癪なので、平静を装おう。


「落ち着いたら帰れよ。寝不足はよくないぞ」

「わたしショートスリーパーですから大丈夫なんですけど」

「10代でそれをやると、あとで苦労するぞ。身体のいろんなところにガタが出てくる」


 実体験だ。前の会社では泊まり込みで仕事をしたこともある。ブラック過ぎて身体どころか精神まで壊したのだから。


「年寄りみたいですね」

「30近いから、俺もおっさんだよ。今は若くて無理できるから、思わずやり過ぎるんだよ。長生きできなくなるぞ」

「まあ、肝に銘じておきます。でも、わたしは自分の野望が達成できるなら長生きなんて興味ないですけどね」


 こういうのは実際に、自分の身体に不具合が出ないとわからないものだ。だから他人から忠告されても、大した事がないと思ってしまう。


 まあ、俺も同じだったから仕方ないか。


「ちょっとトイレ行ってくる。あんまり俺の物を弄るなよ」


 ベッド脇の机には、PCが立ち上げたままだ。まあ、スマホ世代の女子高生に中身を弄られることもないだろうけど。


 俺はトイレで用を足すと、部屋に戻る……が。


一叶いちか! なにやってるんだ」


 彼女は机に座ってPCを操作していた。


「いやぁー、エロ画像が保存されてるかな? と思ったんですけど」

「俺に収集癖はないよ。残念だったな」


 エロいのは動画サイトのサブスクで十分だろ。ただし、検索履歴を見られたらアウトだった。


「あ、エロゲみっけ」

「それはエロゲじゃねえ、全年齢版のギャルゲだ」


 PCなんて操作できないと侮っていた俺が甘かった。彼女はフォルダをどんどん遡って見ていく。


「隠しフォルダとか作ってませんか?」

「作ってねえよ! とりあえずやめてくれませんか?」


 手荒な真似はできないので、事を荒立てないように丁寧語で懇願する。


「なんでです? 見られてはマズイものでもあるんですか?」

「……」


 一瞬言葉に詰まる。


「あ、なんかアヤシイなぁ」

「それくらいにしないと強制的に排除するぞ」

「いいじゃないですか……あ」


 彼女は見つけてしまった。それはバックアップフォルダにあるテキストファイル。


 それを容赦なく開く一叶いちか


「……」

「……」


 画面に映し出された文字列に俺は観念する。いや、まだこいつがどうにか勘違いしてくれれば……。


「これ、タイムスタンプが10年前でしたね。この作品が発売されたのはその一年後。どういうことですかね?」


 いやー、どうやって誤魔化すかまでは考えてなかったな。


「実は俺、超能力者なんだ。発売前のラノベを透視することが――」

「そんな見え見えの嘘ついてどうするんですか?!! これ、『ペトリコールはあなたの匂い』の原稿じゃないですか」

「……」

「ということは、どう見ても先輩が『カシマリョウ』じゃないですか。こんなに近くに作者がいたなんて、わたし心の準備ができてませんよ。このドキドキをどうしてくれるんですか?!!」


 そういや彼女は、カシマリョウの作品を好きとか言ってたな。


「勝手にドキドキされても困るし」

「わたしカシマ先生の大ファンなんですよ。なんで言ってくれなかったんですか?」

「言えるかよ。俺はもう小説家じゃないんだから」

「なんでですか?」

「……もう書けないんだよ」


 振り絞るように俺は答えた。


「何があったんですか?」



次回「KISS」にご期待ください!

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