11. 至福の時間

 チェックインを済ませた俺と勝也は、部屋に荷物を置いて備え付けの浴衣を小脇に挟むやいなや、まっすぐに大浴場へと来ていた。一日かけて全身にまとわりついた汗を早く流したくて仕方がなかったのだ。

 洗い場で一通りの汗を流し、早足に湯船へ向かう。本能のままに行動するなら、洗い場からビーチフラッグよろしくダッシュをして、そのまま湯船へ飛び込んでいただろう。残念ながら、そういった行動をおこせるほど非常識ではない。はやる気持ちを抑えながら、たった数歩のを歩いて湯船の前へとたどり着いた。

 おもむろにタイルから足を離し、温かいお湯の中へ片足を突っ込んだ時には、覚えず身震いをした。つま先を入れた瞬間に、えも言われぬほどの快楽が押し寄せようとは想像していなかった。湯の中の石段を下りて、浴槽の中ほどまで進む。窓際のスペースへまで来たところで足を止め、徐々に体を沈めていく。まずは折り曲げた膝、そこから連鎖的にもも裏、腰が沈んでいき、胴を上って胸が湯に浸かる。ここまでくればいっそのこと最後までと思い、普段は浸かれない肩まで湯の中へ沈めた。

 心地よい温度が全身を包み込む。身をかがめるときには無意識に止めていた息が、湯船の中に体が落ち着いたのを待って、一気に外へと出ていく。


「はあ~……」


 出すつもりはなかった声が、つい出てしまった。我ながら年を食ったかのような所作しょさである。


「おじさんっぽいな」


 こちらが自覚していたことをわざわざ口に出した無礼者がいる。もちろん、すぐ近くで先に湯に浸かっていた勝也だ。


「仕方がないだろう。これは……しみる……」

「まぁな。気持ちは分かる」


 絞り出すようにつぶやき、目をつむって湯船に身をゆだねる。

 筋肉にたまった乳酸が溶け出ていくかのような感覚が心地いい。酷使し、疲労を蓄えた身体がほぐれていくのがわかる。

 自宅の風呂は極端に狭くはない。それでも174㎝の人間が肩まで沈んで、さらに足を伸ばせるほど大きいかと聞かれればそうではない。温泉なんて、高校生の時の修学旅行以来利用したことはなかった。しかし、こうして久しぶりに味わってみるとなかなかいいものである。折を見て、近所の銭湯を見繕ってみるのもいいかもしれない。

 これまで味わったことのない感覚を知れた、というのはいい経験だった。特にこの湯舟の快感はたまらない。

 勝也がしきりに伝えたがっていた山の魅力は、自分が現地で苦労することを除けば、ある程度理解できた気もする。そういう意味では、今回の勝也の強行突破に感謝するところもある。面と向かって謝意を述べれば調子に乗ることは必至なので、絶対にするつもりはないけれども。


「いやぁ~。この気持ちよさも、登山をした後だからこそだよなぁ」


 強調するように勝也が言う。俺のおかげだろうと言わんばかりのわざとらしさである。はっきり言って鬱陶しい。


「この気持ちよさは、ただ湯船に浸かるだけじゃ味わえないだろうなぁ」


 より分かりやすくなった。もはや、俺にありがとうと言ってもいいんだぜ、という下心まで見えるようだ。

 感謝の念はあれど、ここで言うのは業腹ごうはらなのであえて黙っておく。放置しておけば、そのうち空しくなって黙るだろう。


「山で汗をかいた後の温泉は気持ちいいなぁ」


 こちらを凝視しながら言うな。感想や謝辞を期待するなら、そう云ういやらしい態度はとるべきではない。しかしこのまま放置していると一人でずっと言っているだろう。仕方がないので不愛想に同意する旨を述べると、腹立たしい顔でにやけ始めた。こういうところはどこまでも俺の想像の通りになるのがまた腹立たしさを加速させる。湯船に沈めた右手を振り上げ、むかつく顔面めがけてお湯をかけてやった。

 下からかけたせいか、湯が鼻に入ったらしく、勝也はしばらく苦い顔を浮かべていた。その様子を見て、はじめて山中で俺の苦しそうなさまを勝也が楽しげに眺めていた気持ちがわかった。

 人の不幸を甘く味わえる人間ではないが、それでも気の置けない仲の人間のこういう無様なさまを見るというのは、意地の悪いのは承知の上で愉快さを覚えてしまう。

 今日一日の苦労が、もっとも報われた瞬間かもしれない。


  *   *   *   *   *


 ひとしきり湯船を楽しんだ後、部屋に戻ると夕食の準備がされていた。どうやら素泊まりではなく、しっかりとコースを予約していてくれたらしい。

 グッジョブ勝也。今だけは褒めてつかわそう。そう伝えると苦い顔をされた。どうせなら山頂とさっきの温泉の中でそれを言って欲しかったとのこと。

 そういうならもっと押しつけがましくない態度をとってほしいものであるが。

 そんなやり取りをお互いに軽く流してそそくさと座布団へ座り、食卓に向かう。湯上り直後は意識していなかったが、こうして豪勢な夕食を見ていれば自然と唾があふれ、それに反比例して腹の中は俄然その空白感を主張してくる。

 春先だからか、山菜の天ぷらに菜の花のおひたし。地元野菜を使ったサラダと川魚の塩焼き。そして使い切り燃料に灯された火の上には、こちらも地元野菜や地鶏を使った汁物の鍋がのっかっている。

 特に塩焼きは香りが高く、口の中を満たす唾液は止まることを知らない。準備を終えた従業員さんが退室すると、待ってましたとばかりに二人同時に合掌して箸を手に取った。

 趣味嗜好は正反対な友人同士なのに、こういったところはどうにも息が合うようだ。食欲には逆らえない、といったところで意気投合したと言っても過言ではないくらいに、勢いきって次々と彩り種類ともに豊かなメニューへ手を伸ばしていく。

 山菜の天ぷらは火がしっかり通っており、野草によくある生臭さのようなものがあまり感じられない。油のしみたころもと山菜の香りが絶妙にマッチしており、油もの独特のしつこさがないさっぱりした味わいになっている。こういう味わいは、チェーン店やスーパーの総菜ではまず味わえない。

 次に川魚の塩焼き。こちらはやや臭みが残っていたが、脂がしっかりのっている上等なものだった。はらわたは苦くて食べられなかったが、身は残すことなくしっかりと食べきった。

 サラダもなかなかに美味しい。かけられているドレッシングは、やや柑橘系の風味がするが、こちらも初夏に似合うすっきりとした風味がまた絶妙である。川魚の脂がしっかりしているぶん、こちらはスカッとする味だ。実によくできたメニューだ。さすがは旅館の夕食。

 固形燃料があらかた燃え尽き、地鶏と野菜が入った鍋から香ばしいかおりと湯気が立つ。早速フタをとり、器へよそっていく。いい具合に煮えているのは当然だが、彩りがまた良い。単なる鍋かと思っていたが、こちらもさすがというべき風采である。

野菜は程よく甘みがあり、地鶏もまろやかな風味がする。スープにはそれぞれの味が出ているほかに、オリジナルの出汁も加えているのだろう。くさい物言いをすれば、食材同士のハーモニーと言った具合だ。

 これまでの道中、よくもまぁ飽きもせずといった具合に会話を交わしていた俺と勝也だったが、「美味い」とお互い言い合ったり、食事が終わるまでは一言もしゃべらなかった。

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