10. 最初に言って欲しかった
山頂でカップ麺を食べ終えた俺たちは、登った時とは違う道から下りてきた。
結論から先に言えば、あの苦労は何だったのかと言いたくなるほどあっさり下りてこられた。疲労がたまった足は、一歩踏み出すたびにガクガクと震えていたが、それでも登りの時の地獄がかすむくらいあっけなかった。
そして今、
東屋からは舗装した道路が見え、ここまで車で来られるらしい。勝也が言うには、寂地山へ登る人の中にはここまで車で上がってきてから山へ入る人もいるとのことだ。
そんな楽な道があるならなぜこちらにしなかったのか。そう文句を言っては見たものの、本日何度目か分からない
面白くないとは何事か、こちらは鬼籍に名を連ねるところだったんだぞ、と言い返すより先に、勝也の背中は遠のいていた。一応、初心者である俺に気遣ってペース自体は遅めにしていたんだなと実感したが、それで不満が解消されるわけでもない。
行き場のない感情は、ため息となって宙を漂い、大元のモヤモヤだけが俺の身の内にくすぶっていた。
歩くのが速いとはいえ、勝也が戻ってくるのは短く見積もっても20~30分ほどはかかるだろう。その間ずっとイライラしているのも不毛だ。
時間をつぶそうとスマートホンを取り出す。山中では電波供給圏外であることを示すマークが常に表示されていたが、いまは電波マークが2つ表示されていた。電波のいい場所ならMAXで4つ表示されるのだが、その半分とは、やはり山の中では通じにくいという事か。
そういえば、高校時代にメーカーによってすぐ圏外になる携帯電話とかなり奥地でも通じている携帯電話があると言っていたな。俺の持っているものは圏外になりやすいものなのだろうか。
ふと気になって、高校生だった当時の携帯電話メーカーの比較サイトや、現在の各社のホームページを検索した。各種サイトを見て、それぞれのメーカーや機種によって得意な分野や性能が異なることを初めて知った。いままで、親や夕凪に頼り切って選んでいたことを痛感する。
全く興味のない分野ではあったが、こうして調べてみると案外面白いものだ。
新ジャンルへの興味を開拓しているところへ、車のエンジン音が聞こえてきた。それほど長い時間がたった気はしておらず、果たして勝也の車なのかという疑いはある。しかし、時刻はもう夕方である。この時間から新たに山へ入ろうという登山客ではないはずだ。音がする方へ視線を向けると、現れた車体はやはり勝也が乗っているものだった。
東屋の前まで来て車が止まり、運転席から勝也が出てくる。汗をかいたからであろう。ズボンはそのままだったが、来ていたシャツは登山メーカーのロゴが入ったものから、市役所でよく見るご当地マスコットが描かれたTシャツに変わっていた。
マスコット自体は可愛くデザインされているが、その周囲にプリントされた文字は、フォントから配置まですべてにおいて壊滅的なセンスをしている。ありていに言えば、ダサい。とてもダサい。
とはいえ、あとは車に乗って帰るだけではある。途中でコンビニや飲食店に寄らなければ恥ずかしい思いはせずに済むだろう。
「ほい、制汗シート」
勝也が赤い色のパッケージを投げてよこす。表面には「男の汗を残らず拭う!!」の力強い文字がおどっている。きつめの汗の臭いでも緩和できるようなタイプらしい。
ありがたく使わせてもらうことにして、一枚取り出す。汗まみれの服を脱ぎ捨てて上半身裸になって……というほど豪快には慣れないので、おとなしく服は着たままに、布の下へシートを持った手を這わせて汗を拭っていく。一通り拭ったあと、勝也がタイミングよく来る前に来ていた服を渡してくれたため、車の陰に隠れながら着替える。周囲に人がいないことは分かっているのだが、外で着替えるというのはなんとなく落ち着かない。
手早くシャツを着替え、用意されていたビニール袋へ汗で汚れた衣類を投げ込み、口を縛る。家に帰ってから再び湿ったこれらの衣類を相手にしなければならないのは少々気が重いが、さすがにこれを親に任せるのもそれはそれで忍びない。浴室にある手桶か洗面器に水を溜めて手もみ洗いしてから洗濯機に入れるとしよう。
靴を履き替え、荷物をトランクスペースに置き、助手席へ乗り込む。数秒して、バックドアを閉めた勝也が運転席へ乗り込んだ。
勝也はシートベルトを締め、助手席に座っている俺の方を見て同じくシートベルトが絞められていることを確認すると、トランスミッションをドライブモードに切り替えて出発した。
これでようやく、待ちに待った家に帰れる。山道を走る車は左右に揺れるが、道路自体は整備されているおかげで不快な縦揺れは少ない。人工的な芳香剤の香りが、異世界であった山から俺を日常へと急激に引き戻し安心感を与える。
慣れない運動で蓄積した疲労は、睡魔へと変わって全身を包み込む。運転してくれている勝也に申し訳ない気持ちが僅かにあるものの、そもそも俺がこんなにも疲れたのはコイツのせいなのだからと言い訳をし、重いまぶたを睡魔に任せて閉じる。
今日のスタート地点であるキャンプ場の駐車場を視界の脇におさめたところまでは覚えているが、そこから先は車に揺られるがままに意識を沈めた。
「着いたぞ」
沈んだ意識を一気に持ち上げたのは、勝也の声と小突かれた肩にはしる刺激。
急に覚醒を促されたため、視界がはっきりとしない。まぶたも思うようにはすんなりと開いてくれない。ぼやけた視界の代わりに耳がしっかりと仕事をしてくれているおかげで、隣で勝也がシートベルトを外して車のエンジンを切っているのが分かった。どうやら到着したらしい。
ならば起きなければならないだろうと、無理に身体を起こし、両の掌底で目を擦ってからその両手を頭の後ろに持ち上げ、肩と背中を伸ばす。
シートベルトを外しながら前を向くと、フロントガラスの先には俺の知らない気色が広がっていた。
またしても駐車場。今度は、キャンプ場のものと違って、やや台数が多い。近くには川が流れ、オレンジ色の屋根をした大きな建物が鎮座している。城とも砦ともとれる風貌だが、それにしてはやや民家に似た壁と屋根をしている。おそらく旅館の類であると推測はできるが、なぜ旅館に来るのかという理由は一向思い浮かばない。とにかく、目的地である自宅がはるか彼方にあることだけはたしかだ。
「……ここはどこだ?」
「温泉」
「は……?」
「下山してからもご褒美を用意してるって言ったろ」
そういえばそんなことを言っていたような気もする。あの時はテキトーなことを言って誤魔化そうとしている、くらいにしかとらえていなかった。しかし、予想に反して、山頂でのご褒美はなかなかのものだった。まさか下山してからのものも本当に用意しているとは思わなかった。もらえるのであればありがたいことである。
「だから、今日はここに一泊するから」
「聞いてないぞ」
「そうだっけ?
「そうだよ」
「あ、そっか。
「母さんに言ってたってことか」
「あとヒナちゃん」
「なんで当事者である俺だけが知らなんだよ」
「サプライズにした方が楽しいじゃん」
「下山してからとか、車の中でも言えただろ」
「話そうと思ってたら一瞬で寝てるんだもん。だったらもう現地に来た方が早いなって」
「それはいいが、泊まりの着替えとか持ってきてないぞ」
「大丈夫だよ。それならおばさんに用意してもらってるから」
ほら、と言いながら顎で後部座席を示す勝也。見れば、学生の頃に通学バッグとして使用していたスポーツ用のエナメルバッグがお行儀よく座っていた。まったく気付かなかった。思えば、来るときはずっと窓の外の景色を見ていたし、到着してからはすぐに車外へ出た。荷物の確認はトランクスペースであるバックドアを開いてすぐの場所だけ。バックミラー越しに見たのは作業中の勝也だけで、後部座席へ注意を払ったことはなかった。
“灯台下暗し”とはよく言ったものだ。隠されてもいない、むしろ堂々とした存在に気付かないとは思わなかった。
しかし、ここまで用意周到になっているということは、今回のことを母親と夕凪の2人が以前から認知していたことになる。そのことを勝也に尋ねてみた。
「まぁ一人息子を外に連れ出して外泊させるわけだし、ヒナちゃんに関しては腐ってても付き合いたての彼氏なわけじゃん?」
「おい、腐っててもってなんだ。平常時から腐ってるみたいに」
「ほぼ外出しないうえに室内でも運動しないじゃないか」
「外出はしてるさ、コンビニとバイト先」
「行動範囲が狭すぎるんだよ。そのうち根っこが生えてくるぞ」
「そうしたら動かなくて済むな。栄養も自動補給できるし」
「誰が水をやると思ってるんだよ……」
大きなため息を吐く勝也。少なくとも勝也に頼むことはないと思うが、場合によってはそうなる可能性もあるのか。そう考えると、今後は少し機嫌を取っておいた方がいいのだろうか。
「おれはごめんだからな」
「毎度思っていたんだが、お前のその先読みしたようなレスポンスは何なんだ」
「気付いてないのか?全部顔に出てるぞ」
「まじか」
「まじだよ」
「ならなおさらお前に頼むのが適任かもしれないな」
「……テントはあるから
「すまん。頑張って自立はするから野宿は勘弁」
「野宿じゃねぇよ、テント泊だ」
「インドアからすればどっちも同じだよ」
「雨風しのげるだけマシだと思えよ」
「でも寒いだろ」
「この時期の朝晩はそうだな」
「俺はどれだけ身体にムチを打てばいいんだ」
「大人しく温泉に連れてきてありがとうございますって言っとけばよかったんだよ」
「温泉にニ連レテ来テ
「すごい棒読みだが、まぁ許してやろう」
「ははぁ、勝也さまぁ」
「そこまでされるとムカつくからやめろ」
山中で勝也がよくやっていた芝居がかった言い回しなのだが、真似をされるのは嫌という事か。まぁこれ以上機嫌を損ねて本当にキャンプ場でテントに泊まる羽目になるのは
勝也が外に出るのに合わせて助手席から降りる。泊まりの用具一式は後部座席のエナメルバッグだと聞いているので、ことわりなしにドアを開けてバッグを取る。
勝也は自分のお泊りセットをトランクの方に置いているらしく、バックドアを開けてカバンを取り出している。勝也の方もお泊りセットはスポーツバッグに入れているようだ。お互い荷物を取ってほぼ同時にドアを閉める。両方のドアが閉まったことを確認して、勝也はフロント側へ歩きながら施錠する。
そういえば、一つ気になったことがある。
「なぁ勝也」
「なんだ?」
「汗をかいた服はどうするんだ?」
「明日洗えばいいじゃん」
「それだと臭いが染みつかないか?」
「洗剤に着けおきしたり、もしそれでだめなら何度か洗い直せばいい」
「コインランドリーとかねないの?」
「民宿とかコテージがある場所ならあったりするけど、純然たる温泉旅館だからな。ないな」
「手洗いでもいいから汗くらいは流しておきたいんだが」
「まぁ、登山って何日がかりかでやることもあるし、一日くらいなら何とかなるよ」
「ベテランクライマーの感覚と下界の民の感覚を一緒にしないでほしいんだが」
こちらがそこまで言うと、勝也はカラカラと笑って旅館の方へ歩いて行った。どうやら取り合うつもりはないらしい。郷に入っては郷に従え、とでも言うつもりだろうか。
一晩おいてしまえば、汗が染みこんだ使用済みシャツは発酵してしまわないだろうか。気に掛かって温泉を楽しめる気がしないのだが、それを見越したかのように、勝也は「まぁなんとかなるって」と笑っていた。
これ以上何をどう抗議しても勝也は同じリアクションしか返してこないだろう。
仕方がないので、勝也が用意してくれたご褒美を楽しむことにする。とはいえ、やはり気に掛かるものはどうしようもない。一度車の方を振り返り、どうかひどいことになってくれるなよ、と祈りを込めた視線を送り、庄屋に続いて旅館へと足を踏み入れた。
そういえば、勝也のやつ、ご当地マスコットの入ったクソダサTシャツを着ていたのではないか。思い出しても時すでに遅し。受付のお姉さんに「可愛いTシャツですね」と言われてまんざらでもない顔をしている勝也とは対照的に、
おのれ勝也め。たった一日で俺に何度苦難を与えれば気が済むのだろうか。
ご褒美はありがたいことではある。しかし、それでは
顔に出る、という言葉を思い返し、極めて無表情を装いながら勝也の背中を見つめた。
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