9. 登頂!
「頑張れ~。これでラストだから」
上方から勝也の間の抜けた声が飛んでくる。
休憩したベンチから10分弱といったところか。体力的には、五竜の滝沿いの石段やミノコシ垰までの登りに比べれば辛くはない。呼吸は平時よりやや荒いが、それでもぜえぜえと苦しくあえぐほどではない。ただ、やはり5時間近く歩いてきた俺の足は悲鳴をあげていた。
震える足を手で押さえながら、一歩一歩を持ち上げるようにしてゆっくりと進み、やっとのことで勝也が待っている地点へたどり着いた。俺が追いついたのを見届けると、勝也はやや奥の方へ進み、手招きする。こっちに来い、と言う事だろう。
息を整えながら上身を起こし、小股でよちよちと招かれた方へ進む。
「おつかれ。ここが寂地山の山頂だよ」
「やっとか……」
長い苦労の末に到着した山頂。勝也が山はいいものだと力説するものだから、果たしてどんな感慨を得られるものかと期待してみれば、疲れの方が勝ってしまった。登り切ったという達成感はあるものの、それにひたれるほどの余裕がない。
ザックを下ろし、座り込む。
「どうだ?山口県最高峰に到達した感想は」
「やり切ったって思いはあるが、なによりも疲れた」
あたりは木々に囲まれ、山頂にもカタクリの花がまばらに見える。天気も良好。周囲を木々に囲まれているせいで、テレビで芸能人がよくレポートしているような絶景の眺望は見られなかったが、どことなく落ち着く。
春先ではあるが、人の手がさほど入らない分、枯れ葉がまだ残っている。その下は土になっているおかげで、座り心地自体は悪くない。余裕があれば、新緑の匂いに身を任せて、行きがけの車内で勝也が語ったような“爽やかな気分”に浸っていたに違いない。
しかし、いま
「県内最高峰だっていうのにリアクションが薄いな」
「疲れたって言ってるんだ。そんな大層なことを要求するなよ」
「……お前がものぐさだってことを忘れてたよ」
ものぐさではない、運動が嫌いなだけだ。お前みたいな体力オバケと一緒にしてもらいたくない。水と一緒に文句を飲み込む。口論する体力すら残ってなかった。
心中で悶々とあれこれ考えている俺の脇で、勝也がザックの中身をあたりに出し始めた。お菓子の袋に水。出発前に話していたカッパらしき包みもある。それからジップロックで防水したトイレットペーパー。カップ麺、鍋、ビニール袋に包まれた板状のもの、同じく袋に入った直方体の物体。
「何をしてるんだ?」
「カップ麺を作ろうと思ってな。その準備」
「それは見たらなんとなく分かるけど……その板と物体は?」
「IHコンロとポータブル電源」
「……は?」
「だから、IHコンロとポータブル電源」
説明しながら、袋の中から実物を取り出した。確かに、IHコンロと電源バッテリーであった。
「なんでそんなものを?」
「カップ麺作るからに決まってるだろ」
発想から説明まで色々なことがすっ飛んでいる。なぜ頂上でカップ麺を作ろうと思ったのか。そのためになぜIHコンロなのか。ポータブル電源なのか。
「なんでIHコンロ?」
「山火事が怖いから」
「まぁそれは分かるけど、調理する必要あるか?」
「昼飯を食ってないだろ。ここでしっかり食べたいじゃないか」
そう言われて思い出した。現在時刻は午後3時。途中で正午を迎えていたのは分かっていたが、あまりの苦行にそんなことはすっかり頭の中から消えていた。
「そうはいっても、パンとかおむすびでもいいんじゃないか?」
「ナンセンス!ナンセンスだよワトスン君」
「誰がワトスンだ」
「初歩的なことだよ」
「推理を外しといてよく言う」
「それは一回置いといて欲しい」
探偵の才能がない自覚はあったらしい。
「とにかく友よ。山の中で食べるカップ麺は格別においしいのさ」
セリフ調に言う勝也。顔にはどことなく
それに、カップ麺を格別と言ってのける神経もどうなのだろうか。
行列ができる名店のラーメンや、冬の寒さに凍えた中で食べる屋台のものならそれもうなずけるが、季節は初夏。その場にいるだけで汗が止まらないほどの酷暑ではないにしろ、寒さを感じる季節でもない。山道を歩いてきたおかげで、気温のわりにはそれなりに汗もかいている。
加えて、脇に置かれたカップ麺は、スーパーで200円弱で売られている安いもの。プライベートブランド品みたいに極端に安価なものでもないが、コンビニでも薬局でも見かけるくらいポピュラーな商品ではある。
自分も、何度も食べたことのある商品だから断言できる。カップ麺の中では美味しい部類に入るが、勝也が恍惚とした表情を浮かべるほど美味なものではない。
そんなことを考えているうちに準備は進み、疲れを癒している間にお湯は沸騰していた。カップ麺の包装を破り、蓋を半ばほどまで開けて二つのカップ麺へお湯が注がれる。
味はケンカにならないようにと言う配慮なのか、どちらもよく見かけるしょうゆ味。個人的にはシーフード味が好きだが、用意してもらったものにケチをつけるほど腐ってはいない。ありがたく、差し出されたしょうゆ味のカップ麺と割り箸を受け取り、スマホで時計を確認する。
麺がほぐれるまでの3分間をお互いに無言で過ごし、いざ実食の段となって蓋をはがす。
開けた瞬間に湯気が立ち上り、嗅ぎ慣れたカップ麺の薬味のにおいが鼻腔を刺激する。湯気が鼻の奥に届いた途端、唾液が口の中にあふれるのが分かる。
足の震えや酷使した筋肉の痛みに注意が向いていたおかげで意識していなかったが、昼食なしで動いていたため、体は栄養を欲していたらしい。
人と食事をする際は目の前にいる人間の視線が気になるものだが、今回ばかりは考えていられなくなった。渡された割り箸を割り、形式的な合掌を刹那に済ませ、早速麺をスープに絡ませてから一気にすする。息を吹いて冷めさせるのを忘れていたせいで、唇と舌が熱におかされる。反射的に涙がにじむが、はふはふと口から熱を逃がしながら咀嚼する。
行動食で気持ち程度の糖分と塩分を摂取していたとはいえ、雀の涙ほどだったのだろう。麺からあふれてくるスープの味に、噛みほぐした麺の感触。口の中全体が幸福感で満たされていくのが分かる。しっかり嚙んで嚥下したところで、五臓六腑に染み渡る、と言う言葉が全身を満たした。
果たして、勝也の言っていたことは本当だった。
格別。破格の美味。恍惚とした表情になうのも頷ける。これはたしかに美味しい。自宅で食べていたカップ麺と同じ商品なのかと疑いたくなるほどの味覚だ。
疲れて、汗をかいた体に塩分がこれほど美味しくしみこむとは予想だにしなかった。ガラにもなく、ため息が漏れる。最初の一口が、こんなにも幸せに感じたのは生まれて初めてかもしれない。
そんな俺の反応を見ていたのだろう。勝也は満足そうに言った。
「な? 格別に美味いだろう?」
「たしかに、これは凄いな……」
「山の中っていう非日常感も手伝ってるけど、やっぱり苦労した後の
「労せず食べられたらもっと最高なんだけどな」
「それは無理な相談だな」
そう呟いて、勝也もカップ麺を
「努力とそれに伴う疲れこそが、最高の調味料なんだよ」
言わんとすることは伝わる。たしかに、今回の一連の行動で身をもって知った。天気が良ければ、山は至高の癒し空間なのだろう。そこを歩き終わった後に味わう味覚も最上級なものへ変わる。実際、こうして連れてこられなければ味わうことができなかった感覚だ。
車の中で勝也が話していたことに、ほんの少しだけ共感する。
認めるのは業腹ではある。しかし、来てよかった。いまでは心からそう思える。
今そのことを言ってしまうと勝也を調子に乗らせる可能性があり、それは癪だった。帰って、時間を置いて、それから言おう。おそらく、“悪くなかった”程度の素直ではない感想に落ち着きそうではあるけれども。
心中で感謝の辞を述べながら、無言でカップ麺を啜った。
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