6. はじめまして、エフェメラル

 高低差およそ300メートル。その地獄の道のりを登り切った分岐点で、俺はベンチに向かって座り込んでいた。下ろしたザックをベンチに置き、その上に額を乗せて正座の姿勢。ベンチの向こう側に聖地でもあるのかと言わんばかりの半五体投地。汗が入り込んだ視界はぼやけたまま茶色い地面を眺めていた。言うまでもなく、息はえの体である。


史優しゅうさ」

「なん……だ…?」


 喘ぐ息の中でかろうじて返事を返す。


「その姿勢、逆にきつくないか?」

「今、立てない……」

「それはいいけど、正座だと血行が悪くなるから伸ばしてた方がいいぞ」


 “血行が悪くなる”。そう言われて怖くなり、僅かに上体を浮かせてから足をくずす。膝から下をわずかに横にずらした座り方。正式名称は分からないが、子供の時は“お母さん座り”と呼んでいたたおやかな姿勢をとる。

 そのとたん、勝也が吹き出した。


「伸ばした方がいいって言ってくずす奴があるかね」

「これが、限界、なんだよ……」

「その姿勢だと十中八九じゅっちゅうはっく足がしびれるぞ」

「短時間で、しびれる訳が、ないだろう」

「まぁ、ウケを狙うのはいいけどほどほどにな」


 狙ってない。しかし、反論をする余力はない。文面に起こせば、読点とうてんの度に、“ゼェ”とか“ハァ”といった荒い呼吸が混ざっているのだ。頭をザックに乗せ、おとなしく息を整えることに注力する。

 ぼんやりと地面を眺めながら口で息をしていると、背後からいきなりシャッター音が聞こえた。まさかと思って重い頭をあげて勝也を振り返る。予想していた通り、振り返った先には、肩を震わせながらスマートホンを構える勝也がいた。


「何撮ってんだよ……」

「いや、だってあまりに面白いからさ」


 後で見せてやるよ、お前も絶対にに笑うから、と楽しそうにスマホを眺めている。自分の情けない姿で笑える奴なんているのだろうか。少なくとも俺はそのタイプではない。情けないという自覚がある分、そんな姿を客観的に見ることなどしたくない。

 結構だ、と言って体を持ち上げる。少し休んだおかげでやっと立てるくらいには回復した。立ち上がり、ザックを横へずらしてベンチに座る。そこでようやく先ほど勝也の言っていたことが実感としてあらわれた。

 足がしびれ、ジンジンする。運動した直後にすぐ止まってはいけない、とは学生時代の体育教師の言葉だったか。体に負荷がかかるという漠然とした知識はあっても、実際に激しい運動をした後では、すぐにでも休みたいという欲求の方が勝る。そうしてうずくまった結果がこれなら、疲弊したから身体にムチ打ってでも、言われた通りの姿勢をとれば良かった。

 しびれた足をどうにかしようと、伸ばしたりふくらはぎをもんだりする。1~2分ほどでおさまってきたので、ザックから水を出して飲む。

 普段はありがたみを感じないが、水分補給は偉大だと痛感する。なんの味付けもされていないのに、これほどの重労働の後では格別の旨味を感じられる。ビバ、ウォーター。ありがとう、コンビニで買った2リットル150円の水。


「死んじゃう、とか言ってた割には意外と平気じゃんか」

「何言ってんだ。どこからどう見ても満身創痍まんしんそういだろ」

「いま、引き返して帰っていいぞって言ったら?」

「とんで帰るね」

「よし、頂上まで行こう」

「この鬼め」

「とんで帰れるほど体力ありあまってるならいけるって」

「言葉のあやだ。察しろ文系」

「表現は分かりやすくやろうぜ作家先生」


 ああ言えばこう言う。文章表現が苦手だと言ってた割に、口頭でのやり取りではペラペラと屁理屈へりくつが出てくる。頭の回転自体は悪くなく、これまでの取材の時もツーカーで指示が通って助かることも多かったが、こういう時にはタチが悪い方面で能力を発揮してくる。

 冗談だとはわかっているが、どうにも余裕がないと苛立っていけない。冗談の範囲で収まるうちに切り上げる。気分を変えるため、ザックの中に用意してあったサラミを口に放り込んだ。

 それからしばらくぼーっと周りの景色を眺めて過ごしていると、腕時計を確認した勝也がザックを持ち上げる。そろそろ出発という事だろう。本音を言えば、もう少し休んでいたい。人間疲労が溜まると、劣悪な環境にも適応するらしい。今の俺には、この硬いベンチが高級なソファのように居心地がよくなっている。このままでは一生下山できなくなるほどここにいそうなので、重い体にムチを打って立ち上がり、ザックを背負う。

 勝也の後について歩くと、右手に標識が立っていた。何気なく見ると、ベンチのある方に向かって「右谷山 30分」。進行方向に向かって「寂地山 80分」とそれぞれ書かれている。登ってきた道へは、「駐車場 100分」と書かれた矢印型の木板が伸びていた。

 写真を撮ったりしながらゆっくり歩いているため、標準時間よりかかることは承知している。実際に歩いてきた時間としては3時間弱だ。俺の中では、学生時代の宿泊学習の強制歩行イベントを除けば、今までにないくらい歩いている。それにもかかわらず、さらに追加で1時間20分も歩かなくてはならないのか。


「なぁ勝也」

「ん?」


 振り返りることなく、返事だけが返ってくる。当然、歩き続けたままだ。


「さっきそこの標識を見たんだが」

「うん」

「右谷山っていう山の方が近いみたいだな」

「そうだね」

「今回はそっちでもいいんじゃないのか」

「サボりたいんだろ」

「当然」

「行ってもいいけど、そこからUターンして帰るってことにはならないからな」

「なんで」

「取材は、カタクリの花と寂地山が目的だろ」

「依頼した分はな」

「おれだってそう何度も来たくはないのよ」

「山が好きなのにか」

「好きなものでも、作業になれば嫌になる瞬間があるんだよ」


 しまったと思った。勝也は気に障った様子もなくあっさりと言ってくれたが、これは完全に俺が悪い。疲れていたとはいえ、これはあまりにも配慮に欠ける発言だ。考えるまでもなく、謝罪の言葉が出た。


「すまん、あまりにも不躾ぶしつけだった……」

「別にいいよ。デリカシーがないのは昔から知ってるし」

「そういわれるとしゃくだけど、配慮に欠けていたのは認める」

「まったく。くだらないショートカットを考える前に、周りを見てみたらどうだ」


 呆れたと言わんばかりに、ため息をつかれた。そこで初めて勝也が立ち止まる。


「嫌いな運動に慣れない登山。イラつくのは分かるけど、もう少し初めての場所を楽しむことを覚えてもいいんじゃないか」


 そう言って勝也はこちらに向き直り、視線でやや下の方を示す。俺から見ると左側の下部。あたり一面草木が茂るばかりで、見慣れてしまえば目新しいものはないはずだが、とりあえず勝也の視線を追ってみる。

 目を向けると、そこには小さな紫色の花が点々と咲いている。花は下向きに咲いていて、その姿はまるで人間が俯いた姿勢のようだ。植物の名前には詳しくない。しかし、この花に関しては事前に調べたからわかる。


「カタクリの花……」

「な?俺が言わなきゃ、見逃して歩いてたぞ」


 言い終わらない内に、勝也は既に手に準備していたスマートホンでカタクリの花を写真におさめていく。


「開花期間はたったの2週間程度。見逃したら勿体ないだろ」

「その短さから、“春の妖精スプリング・エフェメラル”とも呼ばれてるんだっけか」

「そうだよ。こんな可愛い妖精を、花言葉の通りにさせるつもりか」

「“寂しさに耐える”ってやつか。意外とロマンチストだな」

「処女作がラブレターじみた内容だった奴に言われたくない」

「ばか、その話はやめろ」

「もしかして、次回作の題材は“初恋”とかですかぁ?せんせぇ?」


 ニヤニヤとゴシップ話を期待する顔ではやし立てる勝也。恥ずかしさを紛らわせるため、思い切り脇腹に手刀を食らわせる。うおっ、という悲鳴とともに、横に倒れる勝也。道の両端に敷かれた境界線のテープを超えないようにして尻餅をつき、越えそうになった足は瞬時に折り曲げられている。変な大勢だなと思っていると、“カタクリの自生地のため、立ち入り禁止”といった旨の看板が立てられているのが見えた。なるほど、体勢を崩そうとも、そこへは倒れこまないよう気を遣ったのであろう。さすが元山岳部。山への気遣いは一流だ。

 重いザックに引っ張られ、なかなか起き上がれない勝也が視界の端に見える。人の醜態を笑った仕返しだ。片手でスマートホンを構えて手早く写真を撮り、あとの様子は無視する。

 右に向けたスマートホンのカメラをそのまま正面のカタクリの花へと移動させ、近くで撮ろうとしゃがみこむ。願わくば、顔に何の感情も浮かんでいませんように、と願いながら一心に花を写真へおさめていく。

 後で何を言われるか分からない。バレているかもしれない。それでも、図星であったことは絶対に言うまい、と固く誓った。

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