5. 出合。そして……

 何か言いたげにニヤニヤしているだけの勝也の顔は本当に腹立たしかった。尻でも蹴り上げてやろうかと思ったが、あいにくと山中で暴力をはたらき、想定外の事故に発展しては恐ろしい。暴力衝動をぐっとこらえて睨みつけると、おお怖いと笑ってから、再び歩き始めた。

 勝也のナビのもと、おとなしく後ろについて沢沿いの道を歩く。

 石段の時とは違い、今は周囲を見渡す余裕がある。トンネルを抜けた後の景色から劇的に変わるわけではないが、足元に気を付けつつ、周囲に目を向ける。そこかしこから伸びる草木は、濃淡のバリエーション豊かな緑色をたたえており、パソコンや資料、書籍とにらめっこして疲れた目に優しい。はるかの頭上からは木漏れ日が差し込み、谷あいの登山道を照らしている。こうして木々に囲まれると、春先の晴天も意外と涼しく感じられる。道の隣を流れる沢は透き通っており、底に転がる岩の色から形までつぶさに判別できる。

 トンネルから伸びていた穏やかな道なりから想像した通り、比較的歩きやすい道が続く。わずかな傾斜はあるものの、先ほどの石段とはくらぶべくもない。踏み固められた登山道は木の根や石が転がっており、時折足の裏を刺激するが、それも用意してもらった靴のおかげで痛みとして感じることはなかった。

 登山道へと迫る左右の傾斜には、太さや樹皮の様子が異なる木々が林立している。上に向かって細く伸びているものが多い気もするが、一定の高さで枝があちこちへ広がっている。木の見分けはつかないが、地理の授業で習った広葉樹はああいった形状のものを指すのだろうか。

 事前に調べた情報では、寂地山山域の植生はブナやミズナラ、サワグルミ、ウラジロガシ、といった木々らしい。

 本で読んだ時には写真も載っていたため、見れば分かるかと周りに生えている木や草などを眺めてみる。じっと見ていると、色や形が微妙に異なっているのは判別できた。しかし、どれがどの木かまでは分からない。

 小説やドラマの中では、モノローグで登場人物が、あの木はこれでこういった特性で──、といった具合に解説しているものだが……。

 正味の話、俺は図鑑がなければオオカミとシベリアンハスキーの区別も危ういし、竜胆りんどう桔梗ききょうにいたっては同じ花かと思うような人間だ。とかく、興味の薄い事柄にはとんと判断がつかない。やはり、現実は小説の中のようにはいかないな。

 名前がまったく分からないので、登山家たちや樹木に詳しい人たちのような楽しみ方はできない。俺はただ、それらの鮮やかな緑色に目を癒してもらいつつ、勝也ととりとめのないことを話しながら歩いた。

 雑談交じりに漫然と歩いていると、道の途中で急に古い石垣が現れた。事前に読んでいた本で読んだ気がするが、思い出せない。


「石垣かぁ。誰か暮らしてたのかね」


 勝也が前方で声をあげる。視線を勝也の方へ移すと、スマホを石垣に向けて写真を撮っていた。

 日常生活とか家に関するものではなかった気がする。果たして何だったか。山ならではの建物ではあった気がするのだが、どうにも出てこない。喉のあたりまでは出てきている気がするのにどうにも霧がかかったような心地だ。

 ここまできたら何とか思い出したい。冷静に考える。山ならではのものだ。山、高い、登る、歩く、川、自然、緑、木…………思い出した。


「……製材所だ」


 書いてあった内容を思い出して、思わず声が出る。はじかれた様に勝也がこちらを振り返る。


「知ってるのか?」

「ああ、本で読んだ」

「何の本だよ」

「たしか寂地山か近くの本について書いてあるやつ。登山ガイド……だった気がする」

「へぇ、そんなの読んでたんだ」

「一応な」

「山に行く気にはならなかった?」

「ならなかった」

「ちぇっ」


 なってくれてもいいのに、と呟いて、勝也は場所を変えながら石垣の写真を何枚か撮っていく。結果は分かっているが、それでも一縷の望みを抱いていたような言い草だ。

 残念だが、アウトドア派の元気な俺を見たいなら来世に期待するか、俺を記憶喪失にでもさせる方が手っ取り早いだろう。

 製材所跡だったことを思い出してからは、芋づる式にほかの情報も記憶の底から浮かんでくる。たしか、水力利用の製材所跡だったのだ。本にはノコギリ小屋跡、とも書いていたな。

 “水力利用”なら、沢の流れが強かったりするのだろうかと思い、隣を流れる沢を確認する。しかし、予想に反してそこまで勢いが豊富な感じではない。もっとも、石臼を水力利用で挽く水車小屋も、横を流れる川が勢いよく流れているイメージはないので、こんなものなのだろう。詳しいことは帰ってから調べることにして、自分でも沢と石垣の写真を撮っておく。

 スマホをしまってからはまたしばらく道なりに進む。

 短いスパンで何度もスマホで写真を撮ったりしながら歩いているため、普通の登山よりは時間がかかっているのだろう。ただ、その分何度も止まるため、さほど辛くは感じない。水も勝也があれこれと動いているすきに飲んだりしているし、勝也もザックから伸ばしたチューブで水分補給しているようだった。

 よくよく見ると、蓋の隙間から伸びて、肩紐のところでチューブが留めてある。出発前には気づかなかった。しんどすぎて、五竜の滝を登り切った後の休憩中にも気付かなかった。

 チューブのことを聞くと、“ハイドレーションシステム”という、ザックの中に水筒を入れていても歩きながら水が飲めるようにするチューブなのだと教えてくれた。

 俺の場合は水分補給の度にザックの紐を肩から外して水を取り出さなければならないため、勝也のそれはとても便利そうだった。

 お前だけずるい、と言うと、「次からも登山に付き合ってくれるのか?」と返された。付き合ってくれるなら買うけどな、と続けたので、丁重に断っておいた。

 トンネルから1時間30分ほど歩いてきた。こんなに長時間歩いたことはないし、そろそろ足が疲れてきたなと思い始めていた時、少し開けたところで勝也が止まった。腕時計を確認しながらここで休憩にするぞ、とこちらへ声をかける。

 左右に矢印を向けた標識と、背もたれのない簡易ベンチが道の脇にある。勝也はベンチに近づいてザックを下ろしたので、俺もそれにならう。ザックを下ろしながら、俺はさっさとベンチへ座った。


「ふぅ、助かった……。激しい運動じゃないとはいえ、足が棒になりかけてたとこだ」

「まぁ、登山は基本的に長丁場だからな」

「運動不足にはこたえるよ」

「普通は低い山とかで慣らしたり、ウォーキングとかジョギングして基礎体力作ってから登ったりするからな」

「おい、じゃあなんで連れてきた」

「言ったろ、復讐だって」


 行動食を口に入れながら事もなげに言い放つ勝也。復讐だとはいえ、それで俺が倒れたらどうするつもりなのか。


「それに、このルートはそこまできつくないし、水平距離で片道6kmキロ弱。老若男女問わず歩けるコースなんだからお前でも平気だって」

「俺の体力のなさをなめないでほしい」

「そんなお前でも歩けそうだと思ったから連れてきたんだよ」

「往復で約12kmなんてのは俺の3週間分の行動距離だぞ」

「1日571mしか歩かないのかお前は」

「それより少ない日があると思う」

「……連れてきて正解だったよ」


 やれやれと言わんばかりに大仰にため息をついてみせる勝也。俺としては大きなお世話だと思うが、一応は俺の運動不足と健康を気遣ってくれているのだろう。そうでなければ、身銭を切って運動服や靴を買ってくることはない筈だ。そこはまがりなりにも友人。ありがたいことではある。……教えてもいない服や靴のサイズを、目分量で当てた時は、心の底から気味が悪かったが。


「そういえば、休憩ポイントの基準ってあるのか?」


 ふと気になったので聞いてみた。


「んー、大体は分岐点とか急な登りの前後、あとは山頂とかが多いな」

「それ以外にもあるのか?」

「まぁ、景観のいいビューポイント的なところだったり、一定時間歩き続けたときにちょっと開けた場所に出たらそこで…とかもあるな。一口には説明が難しいんだけど……」

「要するに、キリのいいところで休憩をはさむって感じか」

「そんな感じ」

「意外とふつうだな」

「登山だから全部が特別ってわけじゃないさ」

「そんなものか」


 また一つ勉強になった。たしかに、一回目の休憩は五竜の滝を見ながら登った石段の後、“急な登りの前後”に当てはまる。今は“一定時間歩き続けた後の開けた場所”、それから標識があったことから察するに、“分岐点”にも該当するのだろうか。しかし、一つ気にかかることがある。勝也の発言に不穏な言い回しがあった。

 …………嫌な予感がする。


「まさかとは思うが、勝也よ」

「なんだ?」

「さっき休憩場所として、って言ったよな?」

「うん」

「ということは……」

「そこに道が伸びてるじゃん?」


 そういって勝也は、傾斜に向かって伸びる細い道を指さす。


「あの道の上に次の休憩地点があります。」

「それが?」


 認めたくないので悪あがきをしてみる。頼む、現在地よ。単なる分岐点、単なるキリのいい場所であってくれ。


「休憩地点である、ミノコシたおまでおよそ300mののぼりです」

「距離の話だよね?」

「高低差の話」

「無理。死んじゃう」


 ダメだった。予想はしていたが、現実は俺に牙をくらしい。自分の顔がゆがむのが分かる。


「その顔が見たかった」


 クックッと喉を鳴らしながら勝也は言う。人の死活問題を笑いやがって。つくづくいい性格してやがる。

 勝也の言っていた「山の世界」の意味が分かった気がする。幸いにして、山の天候は安定している。しかし、どれほど穏やかな天気で、木漏れ日と森林の緑黄色が目や体を心地よさの中に包もうとも、そこを移動するのは人の肉体。

 山は平等で、不平等だ。

 かたや余裕綽々よゆうしゃくしゃくで疲れた様子もない勝也。かたや苦痛に顔を歪め、全身から“疲労”の二文字を汗よりも多く噴出する俺。

 勝也はニコニコしながら重いザックを担ぎ上げる。


「さ、休憩は終わりだ。出発するぞ」


 地獄の時間、再来。

 果たして俺の足と肺腑はいふは、勝也の言った“ミノコシたお”までもつだろうか。

 憂鬱な心持と不安を、小さなザックと一緒に背負い上げた。

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