4. 登山の世界へ

 駐車場を出発し、沢を眺めながらキャンプ場を抜け、登山口を示す看板を通過して石段を登ってきた。行動時間はおよそ20分程度。傾斜の急な階段を登ってきたせいですでに息が上がっている。

 登山口へと伸びる橋を渡る前から見えた“竜尾の滝”は、自分でもスマホで写真を撮り、滝の流れる落ちる音や流水から散り散りになっていく飛沫しぶきを眺めて楽しんでいた。

 しかし、次の滝を見る時にはそんな余裕はなくなっていた。2番目の“登竜の滝”の時点で、ただ滝の姿を眺めて、涼しそうくらいの感想になり、3つ目の“白竜の滝”では、落ちたら無事ではないだろうがそれでも飛び込んで涼みたいと、汗をにじませながら考えていた。

 そして今、5つ目となる“竜頭の滝”まで登ってきたところで、肩で息をしながら顔を俯け、右手は手すりに、左手は自分の膝に置いて立ち止まっていた。

 頭上から勝也の声が降ってくる。10分しか歩いてないのにもうばてたのか、と笑っている。

 勝也め。完全なるインドア人間をなめてもらっては困る。階段や上り坂では必ず息が上がるし、平坦な道であっても長距離を歩くのは辛い人種なのだ。具体的には2kmを超えるあたりから。それがペースをゆっくりにしていたとしても、だ。

 俺がそういう人間だとお前も知っているだろう。吸ったり吐いたりを繰り返す息の合間から、絞り出すように文句を言ってやった。


「取材した資料だけよこせ、なんて言われ続けるのもしゃくだからな。たまには復讐してやろうと思って」


 勝也は悪びれる様子もなくそう返してきた。

 この野郎。“経験は知識に勝る”だのなんだのと殊勝なことを言っていたくせに。家に来た時のこいつのニヤついた顔を見て大体想像していたが、やはり本音はそれか。


随分ずいぶん手間と金を掛けた復讐だな」

「作家先生よ。復讐とはそういうもんだ」

「腹立つ」

「なんとでも言うがいい。ここではおれの方が優位だ。山の中では、インドア派はアウトドア派に従わざるを得ないのさ」


 はっはっは、と芝居がかった笑い声を立てる。……おのれ、帰ったら覚えておけよ。具体的にどういった報復をするか、疲労のせいで頭が回らないが、帰ったらなんらかの嫌がらせを仕掛けてやる。そう心に決めて視線を険しくする。

 腰に手を当てて仁王立ちしている勝也は勝ち誇った顔をしている。報復を考えてるんだろうがそんなものは怖くない、という表情だろうか。

 おのれ、部屋の中でなら俺の方が知恵が回るんだからな、という気持ちを込めて大きく息を吐き、再び石段を登り始める。

 やっとの思いで階段を登りきる。最後の階段を上がり、顔を上げると正面にはルートを示す看板があり、そのすぐ奥は岩壁になっていた。右、左と首を振って道を確認すると、どちらにも高さの低いトンネルが伸びていた。勝也が看板よりやや左手の道端へ歩いていく。どうやら通行の邪魔にならないよう道の端に避けているらしい。

 「5分休憩な」と左手首に巻いた防水性の腕時計を見ながら呟く。

 助かった。分岐前の急坂を登ってきたおかげで、俺の体力はゼロだと叫びたい気分だった。

 道端に座り込み、ザックから水を取り出して飲む。フタをしめると、勝也がチャック付きのグミの包装を開けて差し出してきた。右手を出すと、包装を振ってグミを出してくれた。手のひらに2~3個転がり出てきたグミを口の中へ放り込む。何度か咀嚼そしゃくし、味が舌の上をしみ出てきたところで思わず眉根が寄る。なぜこんな味を発売したのかというくらい絶妙に甘みが足りない。果汁を水で薄めたような、甘さ控えめというより甘さ足りなめ、とでも形容すべき味だ。正直なところ、俺の味覚には合わない。

 眉間にしわを寄せたままく。


「これ、何の味なんだ?」

「ドラゴンフルーツ味」

「またマニアックな……」

「面白そうだから買ってみたんだよね」


 そう言って勝也も自分の手のひらにグミを取り出して口へと運ぶ。果たして勝也はこの味を気にいるのか。口直しに水を含みながら様子をうかがう。顎の上下が4~5回ほど、勝也の眉間に徐々にしわが寄っていった。


「……不味い」

「なんで買ったんだよ」

「パッケージはおいしそうだったんだよ」


 ほら、と言いながら商品のパッケージをこちらに向けてくる。そこには確かに、南国のフルーティな赤紫色の果実が、果汁があふれ出る感じで印刷されている。


「ドラゴンフルーツってたしか果肉が白だったはずだぞ。こんなパッショネイトな色合いの果汁なんか出ないんじゃないか?」

「え、そうなの!?」

「知らないうえに調べないで買ったのか」

「お菓子のパッケージの真偽なんて気にするわけないだろ」

「いやまぁそうだろうけど」


 そもそも、ドラゴンフルーツ味のグミなんていうキワモノを買ってくる時点でどうかしている。思えば、昔から勝也は自分が食べるものに関しては、頭のネジが3本くらい吹っ飛んだチョイスをしていた。

 高校生の頃、購買で売っている菓子パンをよく買っていたが、いまでも記憶に鮮明に残っているのは山わさびサンドだ。カリカリのトーストに、さめ肌おろしで擦った新鮮な山わさびだけをサンドしたサンドイッチ。トーストにわさびという時点で合わないだろう、という感が否めないのだが、そこに隙間なくぎっしりと詰められた山わさび。これがホイップや新鮮なフルーツをカットしたものだったらどれほど魅力的に見えたことだろう。わさびでさえなければ、サービス精神旺盛な内容だった。

 味がどうこう以前にまず間違いなく舌と鼻に大ダメージを食らうこと間違いなしという代物しろものであることは考えずともわかるはずだ。それにもかかわらず、勝也は凶悪な緑色のそれに勢いよくかじりついた。悶絶して机に頭を打ち付け、苦しみながら手をバタつかせていたのは、言うまでもない。

 あの時から、何も変わっていないキワモノチョイス。

 行動食を分けてもらえるのはありがたいが、さすがにこいつの選んだお菓子を食べるほど味覚はイカレていない。これ以上は遠慮しておこう。


「あ、でもコレ栄養価は結構いいな。ビタミンCにカリウム、マグネシウム、食物繊維にポリフェノールも入ってるのか」

「ほぼサプリだな」

「グミでサプリ効果が得られるなんておトクじゃないか」

「代償はそのクソ不味まずいグミだがな」

「けど、慣れれば案外いけるぞ」


 信じられない。唖然としていると、勝也はさらにグミを口に含んでいた。今後、食に関してだけはコイツの意見を鵜吞みにしないように気を付けなければ。


「お。5分経ったし、そろそろ出発しますか」


 そう言って荷物の準備を始める。サプリのようなグミを食べて雑談に興じているうちに時間が経過していたらいい。

 気は乗らないが、これ以上の文句は空しいだけだ。おとなしくザックを背負って立ち上がる。

 勝也は登ってきた道から見て右の方向へと進んでいく。

 寂地山に取材を依頼するにあたって下調べしていた情報では、この先に伸びるトンネルは“木馬きうまトンネル”と呼ばれるトンネルらしい。この先にというと語弊があり、実際は分岐の左手に伸びていたトンネルも“木馬トンネル”で、寂地山から麓に向かうにつれて、3号、2号、1号と分類されている。

 これらは、かつて寂地山から切り出した木材を運び出すために素掘りで掘ったトンネルで、馬の名を冠していながら、その運搬方法は人力だったそうだ。正確な距離は把握してないが、地図上で見ると、これから歩く3号トンネルは40m前後。トンネル内部に電灯のたぐいはないが、入り口から入る光と出口から差す光で、懐中電灯などがなくても歩くのには困らない。

 もっとも、高さが1.6mほどなので、引きこもりながらも174cmある俺は頭を引っ込めながらぶつからないように歩かなくてはならない。勝也にいたっては178cmあるからさらに窮屈だろう。

 思った通り、勝也は窮屈そうにかがみながら歩いていく。けれど、足取りはしっかりしており、ザック越しに見る背中の筋はしっかり伸びている。さすがは元山岳部。基礎ができている上に、最近は俺があちこち使い走りにしていたから身体がしっかりと出来ているのだろう。こう思うと、恨み言を言われはしたが、俺の使い走りも無駄ではなかったということだ。感慨深い。

 トンネルの表面はごつごつしているが、人が通るのには十分広い。木材を運搬するために掘削しているのだから当然ではあるが、これを素掘りでやったというのには驚きだ。実際に目にしてみて、これだけの距離、これだけの大きさで掘るのは生半可なことでは難しいだろう。昔の人たちは凄かったんだな、と思う。それと同時に、文明があふれる現代に生まれてよかったとも思う。

 手作業で穴を掘る時代に生まれていたら、インドア100%な俺は成人する前に死んでいた可能性が高い。いやはや、文明万歳。

 そんなことを考えているうちに気づけばトンネルは終わりを迎え、薄暗い道から再び明るい日の下へと出る。

 木々は生い茂っているが、その間隔は広く、これまでの景色と比べると開放的な印象を受ける。開けた視界の右側には沢が流れ、前方に伸びる道はやや下っており、目で見える範囲では穏やかな道が続いている。

 出発前にはどうなることかと思っていたが、この様子ならなんとか歩ききれそうかな、とホッとする。

 それにしても綺麗なものだ。町中を歩いているときに眺める街路樹や、図書館の近くにある公園とはまた違った雰囲気がある。何者にもけがされていないかのような純潔を帯び、不浄をどこかへ運び去るような優しさすら感じる。

 はからずも、ほうっとため息が漏れる。すると、僅かな息遣いすら聞こえたのか、勝也がこちらを振り返る。殴りたくなるにやけ面を浮かべて、勝也は言った。


「ようこそ、登山の世界へ」

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