3. いざ入山

 車で走ること約2時間。延々と走ってきた中国自動車道を六日市ICインターチェンジでおり、そこからさらに30分、田んぼや林を眺めながら車に揺られていると、国道から細い道へ入り込む。フロントガラスから見える前方の道は、本当に車を通してくれるのかというくらい狭い。

 あまりに狭いので心配になり、「道を間違えているんじゃないか?通れないだろう」と勝也に言ったが、心配性だなと笑われて車はそのまま進んでいった。どこかで車が道路脇の民家や畑の柵にぶつかるんじゃないかとハラハラしていたが、心配ご無用とばかりに颯爽と走っていった。

 心臓に悪い細道を抜けると、十字路に出た。その左前方には、大きく“寂地峡”と書かれた青い看板が立っていた。

 ああ、とうとう来てしまった。母を味方につけた勝也の術中に落ちた時点でもとより逃れるすべはないのだが、万に一つ、このアウトドア野郎が道を忘れて今日はやめておこう、なんてことにならないかと心の隅で願っていた。しかし、そんな俺の願いは儚く散ってしまった。

 憂鬱な俺をよそに、車は看板が指す方向へ進んでいく。道なりに進むと、息をのむほど見事な木のトンネルに入った。子供の頃に見たアニメ映画のワンシーンと見まごうほどの綺麗なアーチだ。左手には、木々の隙間から涼しげな小川が流れているのが見える。小川沿いにトンネルを進んでゆくと、数分も経たない内に木々の覆いがひらけ、日差しの照り付ける眩しい駐車場へと出た。今回の苦行のスタート地点だ。

 平日ではあるが、思っていたよりも車がとまっている。視線をざっと流して確認すると、おおむね6~7台くらいであろうか。

 いま運転席で車を駐車スペースに収めようとハンドルをきる友人も含め、山好きの人間が一定数いることは知っているが、体力的につらい思いをしてまで山に登りたいものなのかと疑問を抱く。

 とりとめもないことを考えていると車が止まった。どうやら無事に駐車できたらしい。着いたぞ、と一言呟いた勝也は手際よくエンジンを切り、シートベルトを外す。

 こちらの返事はないものと思っているのだろう。さぁ支度だと言うやいなや、さっさと車の外に出ていった。素早くバックドアを開け、運動用のアウターや帽子を身に着け、ザックや登山靴を下ろしていく。慣れた手つきでどんどん準備が進んでいく。一方俺は、手伝いに出たところで手持ち無沙汰になるだろうと、ルームミラー越しに勝也の様子を見ながら呆然と座っていた。

 勝也が顔をあげた拍子に、ルームミラー越しに目が合った。すると、なにやらビニール袋をガサガサとあさりはじめ、取り出した何かをこちらに投げつけてきた。その何かはまっすぐこちらへ来たと思うと、ヘッドレストに端が当たって減速しながらもふわりと宙返りし、見事に俺の顔に覆いかぶさってきた。


「汗をかいてもいい服に着替えさせたとはいえ、半袖だとダニや日焼けが怖いからな。上に着ろ」


 顔からはがして広げてみると淡い青色をしたチェック柄の長袖のシャツ。カジュアルな服に見えるが、胸にはしっかり登山用品メーカーのロゴが入っている。


「これも着たら暑くないか?」

「汗をかくのと日焼けで数日苦しむの、どっちがいい?」


 そう言われては選択肢などないに等しい。大きくため息を吐き、黙って長袖シャツを上から着る。外に出ると、思っていた以上に日差しがまぶしい。空気は涼しいのだが、快晴のせいか日差しは暑い。この環境下で生きて帰れるのか、さっそく不安になった。

 車の後方へ回り、勝也と合流する。勝也は登山用の靴に履き替えている最中で、靴に付けられた金具に靴ひもを掛けていっているところだった。


「重そうな靴だな」

「実際、普通の靴より重いしな」

「それ、おれもくのか?」

「そうしてもらうのがベストだが、頻繁に登らないやつに買うには高いんだよ」


 買ってくれと言った覚えはない。


「だから史優しゅうにはハイキングシューズを用意した」


 ん、とあごで示された先には真新しいハイキングシューズがそろえて置いてあった。外見はスニーカーみたいだが、色合いや靴底の形が勝也の履いている登山靴と似ている。


「いま履いてるのだと、ケガするぞ」

「そんなに危ない道なのか?」

「今回のルートはそこまででもないけど、山道を長時間歩くわけだし、疲れにくくて丈夫な方がいいんだよ」

「俺、生きて帰れるかな……」

「そこはおれが全力でサポートするさ」


 靴ひもを結び終わって立ち上がった勝也は、「荷物はほとんど俺が持ってるし」と言いながら自分のザックをポンポンと叩いて見せた。普段持ち歩いているザックは70Lリットルだと以前聞いたことがあるが、思っていたよりも小さい。とはいえ、それでも上半身を覆えるくらいの大きさはある。パンパンに膨れたザックはとても重そうだった。


「70Lってそんなもんなのか?」

「いや。これは45L。テントとかがないから今回は少し小さめ」

「小さめって、それでもでかく見えるぞ。何が入ってるんだ?」

「水やら食糧やらまぁ色々」

「色々って……。ちなみに何kgあるんだ?」

「10」

「は?」

「10kgキロ

「重すぎないか?」

「いざという時のために、な」

「……本当に何を入れてるんだ」

「まぁいろいろだよ。いろいろ」


 試しに持ってみるかと聞かれたので、軽い気持ちでうなずいた。が、肩紐部分を持って両手で持ち上げてみたが、10cmも上げられたかすら怪しい。とにかく重い。

 バカじゃないのか?なんでこんなに重いものを持って歩くんだ。そもそもこれだけ重いものを担いで山道を歩けるものなのか。こんなものを持って他人のサポートまでできるのか。

 そんなことを矢継ぎ早にまくしたてると、勝也は「慣れだよ」と笑っていた。登山をする人間が化け物に見えた瞬間だった。

 自分の荷物はこんなに重くないよな、と念のため確認すると、当然だと小さめのザックを渡された。勝也のもの半分くらいの大きさのザックだった。容量は15Lだそうだ。

 ほい、と渡されたザックを片手で受け取ると、少し重量は感じたが、勝也のものよりははるかに軽い。中身を確認すると、水とお菓子や塩飴を入れたジップロック、それから口を絞った円柱形の袋が入っていた。

 トレーニング用品を入れるような袋に見えるが、着替えか何かだろうか。


「これはなんだ?」

「カッパ」

「カッパ?」

「そう。たぶん今日は大丈夫だと思うけど、山の天気に絶対はないし、いざという時のための雨合羽あまがっぱ

「意外と小さいな。コートみたいなやつ?」

「ジャケットとズボン、上下セットになってるやつ」

「は?このサイズで?」

「畳んで丸めてそのサイズの袋に収まるようにしてあるんだよ。泊りがけだと荷物が多くなるし、とにかくコンパクトにコンパクトにって感じで」


 ちなみに、テントや寝袋なんかも畳んで丸めて広げた時からは想像できないくらいコンパクトになるらしい。フリースなんかの寒冷地用の上着なんかも、手で押して空気を抜くタイプの圧縮袋に入れて持ち歩くのだとか。

 ……知らなかった。山の中は何度か行ってもらったことがあるが、どちらかというと山中にある小屋だったり遺跡だったりを見てもらうことが多かったし、登山に関するそういった知識はほとんど聞いたことがなかった。

 これを機に登山に関する小説を書くのもアリだな、と思った。今度、島とか山岳地帯とかにでも行ってもらおうか。できれば現地の民宿やガイドの人と触れ合えるような感じの場所に。

 ちらと勝也の方を見る。ザックの中から取り出したソフトボトルから水を飲んでいるところだった。こちらに気づき、ボトルから口をはなす。


「なんか変なこと考えてるだろ」

「別に何も」

「ふーん。ならいいんだけどさ。登山物もアリだなーとか考えてそうな顔してたから」


 変なところで鋭いやつだ。しばらくは山に関するものは無しにしておこう。今回みたいに連れ出されちゃたまらない。

 まぁ別にいいけどさ、と呟いてもう一口水を飲む。そしてボトルのキャップを閉めながらこちらに向き直る。


「お前も出発前に軽く水飲んどけよ」


 そう言ってザックの中にボトルをしまいこみ、紐を引いてザックの口をしばる。

 勝也のザックは俺のザックに比べて複雑なつくりをしている。

 俺のザックはチャックで開け閉めするだけの簡単なもの。一方、勝也のザックは二か所のバックルを外してザック上部の勝也がヘッドと呼んでいる場所を持ち上げて開き、ヘッドが覆っていた場所から顔を出した紐と留め具を外して口を開く。そこから中の物を出し入れする形状であった。

 毎回そこを開け閉めするのは面倒じゃないかと思ったが、すぐに取り出したいものはヘッドの中にしまい、小銭入れや地図、スマートホンといった頻繁に取り出すであろうものはウエストポーチに入れたりするのだそうだ。

 日帰りで入る予定になっている今回の山行でも、勝也はウエストポーチを巻いていた。

 勝也がザックを担ぎ上げる様子を見ながら、小さい自分のザックから水を出して何口か飲む。俺の方は勝也が持っているようなボトルではなく、市販の水を買ったまま状態で突っ込んであった。

 飲み終えてザックの口をふさぐ。

 山の中にはトイレがないから、とキャンプ場のトイレに移動し、二人してザックを背負ったままで用を足した。


「さ、準備完了だな」

「帰りたい」

「何言ってんだよ。これからが楽しい楽しい山登りの時間なんだぞ」

「俺にとっては憂鬱ゆううつな運動のお時間だよ」

「はっはっは。まぁ登れば価値観変わるから」

「前よりもっと山を嫌いになりそうです」

「登り切った後でも同じセリフが吐けるかな?」

「吐いてやる。いくつかの意味で絶対に吐いてやる」


 ぶうたら文句を言い続けたが、勝也は笑って流すだけだった。

 俺にとって人生で一番つらい、地獄の時間の幕開けだった。

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