第22話 199X年 7月 3/3

「……大丈夫? 絵未さん。何かあったの?」


「ううん……何でもない。受付変わってもらってゴメンね。後は私がやるから大丈夫だよ」



 受付でのやりとりが、厨房にいる俺の耳にも聞こえてきた。絵未は10分程戻ってこなかった。おそらくそのまま泣いて、目を腫らしてしまったのだろう。化粧直しでもしていたのかもしれない。



 最低だな、俺は。……でもまあ、あと二週間でこの店とオサラバなんだ。今更絵未との関係がバレたって……。


 自暴自棄になった俺の考えは、自分でも酷いと感じている。あまつさえ、元カレの事なんて持ち出して……。くそぅ! なんであんな事言っちまったんだ! 



 口惜しさを堪えきれずに俺は、厨房のテーブルを拳で激しく打ちつけた。


 その音に驚いたバイトの子が、厨房に顔を出す。


「ど、どうかしましたか!? 阿藤さん……」


「あ……いや、ゴキブリがいたからさ、叩いて追い払ったんだよ……ははは」


「はあ……それならいいですが、大きな音だったもので……びっくりさせないでくださいね」


 バイトの子が立ち去っていく。


 物に当たるなんて、最低だ……! 


 暗澹あんたんとする気持ちとは関係なく、厨房に備え付けられた機械から、注文レシートが音を立てて伸びていく。フードオーダーの注文が入ったのだ。仕事をしている方が、余計な事は考えずにいられるかもしれない。

 俺はそのレシートが少しでも、長く長く吐き出される事を強く願った。



  ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇



 どうにか平静を保ちながら仕事を終え、更衣室に入る。着替えをしようとシャツを脱いでハンガーに手をかけると、棚には茶色い便箋が乗っていた。


 絵未は俺とのやりとりの為に、いつもメモ帳を持ち歩いている。だけど便箋を貰うのは初めてだ。


 自分のシャツに袖を通しながら、便箋を破る。中には一枚の手紙が入っていた。


 

 ———————————————————————

 武志くん、仕事お疲れさま。


 うまく気持ちを伝えられないので、お手紙を書く事にしました。


 昨日の事だけど、友達に迎えに来てもらったって言ったでしょう。あれは本当だよ。


 でもね、あの時本当は、元カレに迎えに来てもらおうと思ったんだ。一番頼みやすいし、時間も遅かったから。それにちょっと武志くんに対する意地悪もあった。


 でも、よく考えて、やめた。それってものすごくひどい事だなって思ったから。


 武志くんに対しても、元カレに対しても……。


 腹いせみたいな感じで行動するのって、やっぱりよくないよね。


 それに後で嘘つくのも嫌だし。


 これが、えみの気持ち。どう、信じてくれた?


 お家に帰ったら電話ください。好きだよ。


 えみ

———————————————————————


 目元が緩んだ。


 腹いせをしたのは、俺の方だ。異動になった事の悔しさを、何も知らない絵未にぶつけてしまった。悪いのは全部俺なのに。


 急いで着替えを済ませると、自転車を全力で漕いで自宅へ向かう。乱暴に自転車を玄関に放り投げると、子機を持って自分の部屋へと駆け込んだ。


 絵未のポケベルの番号にかけると、プッシュボタンで番号を送る。


106464TELするよ


 間を置かず俺のポケベルが鳴り、ディスプレイに番号が表示される。


114いいよ


 その三文字を確認すると、すぐに絵未の家に電話をかけた。


「……はい、もしもし」



 電話を取ったのはもちろん絵未だ。



「今、帰ってきた」


「うん、お疲れ様」


「手紙、読んだよ。変に疑ってゴメン。本当はそんな事ちっとも思ってなかったのに、つい口に出しちゃって……それに、異動の事でイラついて、何も知らない絵未ちゃんに当たってしまって……」


「ううん。私もゴメン。一瞬でも、意地悪でもそんな事考えた私もいけないの。武志くんに責められても仕方ない。……だから、おあいこだね」


「……ふっ。そうだね、おあいこか。……確かにおあいこだね」



 その言葉が合図になり、俺たちは笑い合う。しばらく笑いが続いた後、絵未が話題を変えてきた。



「武志くん、明日中番だよね? お家、行ってもいい?」


「もちろん。また仕事終わり待たせちゃうけど、ごめんね」


「……そんな事ないよ……」



 絵未はそう言って、しばらく黙り込んだ。



「……絵未ちゃん?……どうしたの?」


「……だって、昨日と違って、必ず来てくれるって分かってるんだよ。心配する事なんてないから、待ってる時間が好きなんだ。……ああ、このあと私のところに来てくれるんだって思うと、とっても嬉しい気持ちになるの。心がポカポカするんだよ」



 鼻を啜りながら、少し震えた声でそう言った。


 ———絵未は本当に純粋で……けがれのない真っさらなシャツの様だ。



「……仕事終わったらダッシュで駆けつけるから。そしてすぐ抱きしめる」


「人前じゃ、恥ずかしいよ……でも、明日だけは嬉しいかも」


「じゃあ、そろそろ電話切るね。ゆっくり今日の事、反省したいんだ」


「分かった。私も今日は疲れちゃったから早めに寝るね。……夢に出てきてね。好きだよ」


 ガチャリと電話の切れる音がした後、「ツーツー」と発信音が聞こえてくる。


 昨日は公衆電話で無音だった発信音。それが今、聞こえている。ただそれだけで俺は絵未との繋がりを感じ、その喜びをしみじみと噛み締めた。

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