第22話 廊下を渡って木かげの中へ

「明日、デートにお誘いしたいんですが」


 中間テストが終わった日の夜。

 食後に花菜さんは唐突にそう言ってきた。


「そんなかしこまった言い方しなくていいってば。僕なんかでよければ付き合うよ」

「ありがとうございます」

「それでどこに行くの?」

「それは行ってからのお楽しみです」

「へぇ。じゃあ楽しみにしておくよ」



 そんなやり取りをした翌日。

 連れてこられたのはパンダがいることで有名な動物園の最寄り駅だった。

 改札を出ると花菜さんはまっすぐに動物園の方へと向かっていく。

 周りは家族連れで賑わっている。


「動物園かぁ。久し振りだな」

「いえ。違います」

「え? そうなの?」

「ここです」


 動物園の手前で立ち止まった花菜さんが指差したのは美術館だった。

 西洋の絵画や彫刻などを所蔵する有名な美術館だ。


「ここに来たかったんだ」

「美術館なんて退屈ですか?」

「そんなことないよ。行こう」


 今は近代アートの特別展を行っていたが、花菜さんの目当ては常設展の方だった。


 有名な『考える人』を含むロダンの彫刻群を見ながら館内へと入る。


 ここの展示は歴史が古いものからはじまり、進むに連れて年代が新しくなる構成のようだ。

 館内は当然静かなので無駄なおしゃべりなどはせず、花菜さんと二人で黙って作品を観賞する。


 わざわざ来るぐらいだから絵画が好きなのだろう。

 作品を見る花菜さんの目は真剣だ。

 時おり気になる作品の前に来ると立ち止まってじっくりと眺める。

 近付いたり、逆に遠ざかったり、角度を変えたりしながら鑑賞していた。


 真剣に芸術鑑賞している花菜さんに失礼だけれど、その表情や立ち姿に見惚れてしまう。

 薄明かりに照らされて凹凸が際立った顔、宝石のように曇りのない眼球、細くしなかやなのに力強さを感じる身体。

 花菜さん自身が芸術品であるかのような美しさだった。


 渡り廊下を経て新館に行くと十九世紀の印象派たちの絵画が見えてくる。

 遠くから見ると写真よりも生命力のリアリティを感じさせるのに、近付くと作者の筆遣いまで感じさせるくらいに絵画だ。

 絵画を見て出る感想としてはとても陳腐だけれど、まるで騙し絵のようだった。


「この絵です」


 館内に入り、はじめて花菜さんが呟いた。


 彼女の視線の先には木漏れ日が落ちる林道を描いた絵画が架けられていた。

 作者は──


「ピエール=オーギュスト・ルノワール……印象派で有名なルノワールのことだよね?」

「はい。タイトルは『木かげ』。私が一番好きな絵なんです」


 離れて見ていると草や土の香りまで感じそうなくらい写実的に見えるのに、近くで見ると絵の具を点々と置いたようにしか見えない。


「こういう絵ってたしか点描画って言うんだっけ?」

「さすが蒼馬さんはなんでも詳しいんですね」

「たまたまなにかで見て、LEDの電光掲示板みたいだなって思って覚えていただけだよ」

「蒼馬さんらしい意見ですね」


 花菜さんはクスッと笑う。


「LEDも半導体なんですよね。本当に蒼馬さんは半導体が好きなんですね」

「LEDが半導体って知ってるんだ」

「はい。蒼馬さんが半導体の研究をしたいとお聞きしたので、少しだけ調べました」

「そうなんだ。ありがとう」


 僕のために調べてくれたと聞いて、ドキッとしてしまった。

 すぐに心の中で花菜さんの『勘違いしないでください』という声が聞こえた。


「でも勘違いしないでください」


 案の定の台詞を聞いて笑ってしまう。

 けれどそれこそ勘違いだった。


「ルノワールの『木かげ』は厳密にいうといわゆる点描画の作品ではありません」

「え、あ、そっち?」

「そっちとは?」

「い、いやなんでもない。それよりこれが点描画じゃないってどういうこと? 点をいくつ打つと点描画とか決まりがあるの?」

「いいえ。そうではなくてルノワールがこの作品を書いた時代には点描画という概念や言葉がなかったんです。点描画という手法はこの後の時代に生まれたんです」

「へぇ。じゃあ時代を先取りしたんだね」

「そうですね。もしくはお手本にしたのかもしれません。セザンヌとキュビズムと似てるかもです」

「セザンヌってあのちょっと変わった絵を描く人だよね」


 花菜さんは静かに頷く。


「私、こういうことを話すと止まらなくなるので、それはまた今度」


 花菜さんはおしゃべりをやめ、じっと静かに絵を見入っていた。

 ルノワールの描いた木立の世界に入り込んでいきそうなくらい、真剣に長い時間をかけて鑑賞していた。


 そこから先はやや早足で見て回った。

 時間を遣いすぎたからはしょったのか、そもそもそれ以降の美術に興味がないのかはわからないけど、昼過ぎには美術館をあとにした。

 暗い館内から外に出ると陽射しが眩しい。


「ごめんなさい」

「え、なにいきなり?」

「デートで美術館に来るような女の子より、動物園を選ぶ女の子の方が可愛いですよね?」


 あまりに真剣に謝られるので思わず笑ってしまった。


「そんなことないよ。美術館は楽しかったし、それに花菜さんのお気に入りの絵が見られて嬉しかった」

「本当ですか? よかった。引かれちゃったかと思いました」


 心底ほっとした顔をする花菜さんは陽射しを三割増しくらいに眩しくさせるので、僕はそっと視線を遠くへと移していた。





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 作中に登場するルノワールの『木かげ』は実在する作品で、西洋美術館に収蔵されてます。

 もし興味がありましたら検索してくださいね。

 私の大好きな絵画で、別の作品でも登場してます。


 好きな人の好きなものというのは色々調べたくなるものですよね。

 音楽にせよ、食べ物にせよ、趣味にせよ、その人のことが更に理解できるような気がします。



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