第六章 ミッドサマー(5)

「明日、私はあの崖から飛び降りることになっています。それでも、この風習をやめるつもりはありませんよ」


 アジャやドールヴの住人に見つからないように、アリスと僕は、暗い洞窟の中をこそこそと移動し、ドールヴに来たときに最初に通された御簾のかかった部屋にたどり着いた。

 御簾をくぐり、部屋の中に入る。初めて会ったときと変わらず、長老――イルヴァは部屋の真ん中にちょこんと置かれた椅子に座っていた。

 勝手に入ってきたアリスと僕を諫めることもなく、イルヴァはシワだらけの頬を緩める。


「おや、お二人さん。いらっしゃい」


 その笑みは、飛び降りの風習があるコミュニティの長老だとはとても思えないほどの、柔和な笑みだった。アリスは挨拶をしっかりと返してから「飛び降りをやめようと、考えたことはありますか?」と単刀直入に尋ねた。

 対し、イルヴァはこう返してきた。「明日、私はあの崖から飛び降りる」。

アリスは口をぽかんと開けて、二言目を発せられないでいた。


「じゃあ、明日には七十歳になるってことですか?」


 僕は尋ねる。イルヴァは頷く。


「この歳になると数字が数えるのも難しくなりましたが、はい、私は七十歳になるはずです。だから、飛び降ります」

「だ、ダメですよ!」


 アリスは慌てて、イルヴァの両手を掴む。


「死ぬのはダメです! 死ぬのは、悪いことですよ!」

「そうかしら」


 イルヴァは慌てるアリス手から片手を抜き取り、逆に、アリスの両手をハンバーガーのバンズみたいに、挟み込んだ。


「上の世代は、私の『母』は、きちんと死を迎えることで、私たちがいま暮らしている平穏をつくってくれたの。だから、私もきちんと死を迎えないとね」


 イルヴァの表情は穏やかだ。明日飛び降り自殺をするなんて思えないほどに。

 納得ができないアリスは、眉を八の字にさげる。


「恐くないのですか?」

「恐いですよ」

「じゃあ」

「でも私は、明日死ぬよりも、明後日も生きている方が、恐いの」


 イルヴァはアリスの両手を挟んでいた手を、ゆっくりと持ち上げる。手をあげるだけなのに、ふるふると震えている。枯れ枝みたいな、か細い腕だ。


「私はもう、お皿を持つことも、ナイフやフォークを持つことも、『重い』と思うようになりました」


 イルヴァは椅子から腰をあげる。小さな体だった。アリスよりも小さい。腰は曲がっていて、頭の重さに背骨が参っているみたいだった。ふぅ。とイルヴァは息を吐く。


「毎日私はここに座っている。それは決して権威づけのためではありませんよ。ちょっと歩くだけで、もう疲れてしまうからなの」


 七十歳。僕がいた世界ならば、まだまだ現役を名乗る人もいる年齢だ。けれども、栄養をきちんと取ることすら叶わないこの世界では、なにもかもが、か細くなる年齢なのかもしれない。


「お皿やナイフは、きっと、数年もしないうちに『重い』は『持てない』に変わることでしょう。ちょっと歩くだけで疲れるはきっと、歩くことすらままならなくなるに変わるでしょう。今のように、流暢に話せるのは、一体いつまででしょうね。座っていいかしら?」

「え、あ。はい。どうぞ」


 言葉を詰まらせながらも答えたアリスに、イルヴァは「ありがとうね」と呟いてから、椅子に座り直す。ふぅ。とため息。肩から力が抜けている。イルヴァの座り姿からは、気力すら感じられなかった。『椅子に座っている』よりも『椅子にもたれかかっている』といった方が正しいのかもしれない。


「私もね、分かるのよ」「この先はきっと、弱まっていくだけなんだとね」「風に揺られてふらふらとしている火が、しゅっと消えてしまう瞬間を、ただ待っているだけ」「でもそれは、迷惑でしょう?」「もうすぐ死ぬけど、いつ死ぬのか分からないのは、迷惑でしょう」

「それは」


 アリスの言葉がつまる。

「私は、外を知ってるの」「子供たちは外のことを知らないけど、私は外のことを知ってる。だから、私たちが信じていたことが誤りであることも、しっかり理解していますとも。私たちは死んだあと、新たな命に生まれ変わったりしない。私たちは死ねば『死体』になるの」「分かっているのに、それでも宗教を、教えを守ろうとしているのはね、単に、自分たちが間違っていることを認めたくないだけかもしれないし、こんな状況だからこそ、救いと、団結を欲しているからかもしれないわね」「私たちは、教えにより纏まり、教えにより安全なコミュニティを構築して、教えにより、誰の迷惑にもならないで死ぬことができるの」

「でも」アリスはイルヴァの言葉に挟み込む。「このコミュニティの安全を考えるのなら、飛び降りなんてしなくても、私たちと一緒に旅に出ても良いんじゃあないですか?」

「連れて行ってくれるの? 外に」

「はい!」


 アリスはぐっと拳を握って、僕の方を向いた。「いいですよね?」という視線。ここに来て新しい旅のメンバー。七十歳のお婆ちゃん。メンツとしては、悪くないと思う。キャラ被りもしていないし。でも。


「優しいのね、あなたは」


 イルヴァは頬を緩めながらも、首をゆっくりと横に振った。


「でもそれは、迷惑をかける相手が、ドールヴではなく、あなた達になるだけ」

「迷惑なんて思いません」

「そうかしら?」


 イルヴァは僕の方を見てきた。アリスがじっと僕を睨む。「まさか迷惑だと思ってるんですか?」という視線。僕は呆れたように笑う。

「アリスが良いというのなら、僕もいいと思うよ。迷惑なんて思わない」

「っ! ですよ――」

「僕は、な」僕はイルヴァの顔を見る。「イルヴァ自身は、そう思ってないから、ダメなんだよ」


 イルヴァは微笑む。


「あなたは、老人側の考えが分かるのね。心が老いてるのかしら」

「褒められているとは思えないセリフだ」

「私は明日死ぬよりも、明後日死ぬ方が恐いって言ったでしょう?」「例えば、皆で眠っているとき、私が眠りながら『死体』となり、寝ているあなた達を襲ってしまったら、どう?」「例えば、私が歩いている最中に転けてしまって『死体』となり、大丈夫? と伸ばされたあなた達の手に私が噛みついてしまったら、どう?」「例えば『死体』に追われているときに、脚が弱い私は逃げ遅れてしまうでしょう。そんな時にアリスちゃん、あなたはきっと私のことを見捨てないでしょう?」「私に巻き込まれて、あなたも死んでしまうかもしれない。私のせいで、あなた達も死んでしまうかもしれない」「あなた達を襲わないで済んだとして」「あなた達は私の頭をちゃんと砕いてくれますか?」「砕いてくれるのなら、それは、ここで死ぬのとなにが違うのでしょう」


 イルヴァは首の重さに耐えきれないように、首を傾げる。


「だから私は明日、飛び降りるのです。ちゃんと、予定通りに。今まで飛び降りてきた方々のように。誰の迷惑にもならぬように。教えで皆が一致団結して、皆が生き延びるために」「そう。死んで別の生命に生まれ変わることはありませんが、私は皆を守る教えの柱になれる」

「でも、でも……」


 アリスはいやいやと言わんばかりにかぶりを何度も振った。目からはぽろぽろと涙がこぼれている。


「でも、死ぬのはダメですよ……」

「あなたは、優しい子ね」


 イルヴァはゆっくりと立ち上がった。ふらふらと、弱い足取りでアリスに近寄ると、涙が流れる頬をゆっくりと撫でる。


「この世界で生きるには、つらすぎるぐらい」


 イルヴァは僕の方を見る。僕は頷く。


「苦しんでいる人を見かけたら、あなたはきっと見捨てることができない。手を差し伸べてしまう。でも、それは危ないことなのよ。手を伸ばしたら、噛まれてしまう」

「私は、噛まれても平気なんです。だから、神さまに言われたのです。人を救いなさいって」

「それはそれは」

「本当です!」


 意地になってるアリスに、イルヴァはふふ。と笑う。


「あなたは神さまに言われたから、人を助けようと思ったの?」

「……はい」


 アリスは少し迷ったように黙りこくってから、頷いた。


「優しい子。あなたはこれからも、つらい目にあうでしょう。人を救うというのは、そういうことだから」「優しい子。あなたはこれからも、悲しいものを見ることになるでしょう。人を救うというのは、そういうことだから」「だから、あなたは私を救わなくていいの。私は、悲しくなんてないし――私は、誰かの『重り』には、なりたくないの」

「重りなんて、思いませんよ」


 ぽろぽろと涙を流し続けるアリスに、イルヴァはふふ、と微笑みながら、彼女の頭を自分の胸に引き寄せた。


「泣いてしまいなさい。それであなたの体が、軽くなるのなら」


 アリスはイルヴァの胸に顔を埋めるようにしながら、延々と泣きだした。延々と。延々と。

 僕は、カメラを構えたまま、頭をかく。反省すべきだろう。なにが「深入りするべきは、この映画の主人公ヒロインである、アリスであるべき」だ。

 アリスがコミュニティの崩壊を見るたびに、誰かの死を目撃するたびに、泣いて、苦しんでいるところをずっと見てきたじゃあないか。確かに彼女は主人公ヒロインだけれども、その前に――一人の女の子であることを、どうして忘れていたか。

 僕は泣き続けるアリスを置いて、御簾の外に出た。

 ちょうど、御簾の前に立って聞き耳をたてていたアジャと鉢合わせた。

アジャは御簾に半ば寄りかかるように斜めになっていた体をすすすと元に戻すと、すんとした表情を浮かべる。


「『母』と話してたみたいですね」

「それを盗み聞きしてたらしいね」

「洞窟の中ですから。泣き声はよく響くのですよ。だから、様子を確認しにきただけなのです」


 アジャは僕の顔を覗きみるような仕草をする。すん、とした表情のまま、「訂正します」と、言った。

「なにを?」

「あなたはてっきり、彼女のことを作品としか見ていないとばかり思っていたのですが」

「その、作品として見ているって、どういう意味?」

「そのままですよ。あなたは言っていたではないですか。自分は物語、あるいは作品として、旅の記録を撮影していると。なんとも奇妙なことをしているものですね」


 アジャは僕のカメラを見つめながら、眉をひそめる。


「あなたは、彼女のことを撮影している物語の一部としか見ていない。そういう風に思ったのです」

「まあ、あながち間違いでも、ないかな」


 神さまがつくった『映画を撮るための世界』なのだから、今まで会ってきた人も、目の前にいるアジャも、物語の一部に過ぎない。映画のキャラクターに過ぎない。そう、考えている自分もいる。


「ただ、いまのあなたの表情を見ると、それは誤りだったと分かります」

「表情?」

「あなた、今。すごく辛そうな顔をしています。誰かを傷つけてしまったという自責の顔。だから、あなたは彼女を作品としてではなく、人として見ていたのだと、訂正します」

「……いや。間違いじゃあないよ。実際、さっきまではそうとも思っていたし。だから、反省しただけだ」

「反省」

「そう。彼女をちゃんと見れてなかったっていう反省」

「それは良いことですね」


 アジャは口元を小さく緩めた。


「あともう一つ、伝えたいことがあるのですが」

「なに?」

「ありがとうございます」

「……なにか、お礼を言われるようなことはしてないけど」

「『母』も用意ができたと思います」

「用意って、死ぬ用意か?」


 アジャは頷く。


「人はいつか死ぬのです。遅かれ早かれ。特に私たちは、いつ死ぬのかも分かっています。いずれ訪れる死ではなく、明日訪れる死なのです」


 だから、私たちは誰よりも死を受け入れないとならないのです。死ぬ側も、死を看取る側も。突然なんてないのだから。アジャは俯きながら言う。


「本当は、『娘』である私が向き合うべきなのでしょう。でも、分からなくて、恐くて、できませんでした」


 アジャは寂しそうに言う。


「だから、お礼を言いたいのです。私の代わりに、『母』と向き合ってくださり、ありがとうございます」

「お礼なら、僕じゃあなくて、アリスに言ってくれ」

「私でもなく、お母さんに直接伝えてください」


 僕は声のした方を向く。目を真っ赤に充血させたアリスが御簾をまくって、立っていた。


「あら、アジャ。いたの?」


 御簾の奥からイルヴァの声が聞こえる。


「……はい」


 アジャはアリスの顔をじっと見つめてから、ゆっくりと頷いて、御簾の中へと入っていった。二人の会話が、ぽつぽつと御簾の中から聞こえてきた。僕は撮影をせずに、部屋に戻ることにした。自分たちの宛がわれた部屋へと戻りながら、アリスに尋ねる。


「もう泣かなくていいのか?」

「はい」アリスは目を擦りながら言う。「お母さんのことを、思いだしました」

「アリスのお母さんは、優しい人だった?」

「とっても、優しい人でした」


***


 次の日。

 太陽の光が煙突みたいな大穴から、洞窟の中に降り注いでいる。絶好の飛び降り日和だ。

 イルヴァはあの崖の上に立っていた。崖の麓には白いローブを着た子供や若者が、列を成し、知らない言葉の歌を、歌っている。列の一番前には、アジャがその身丈よりも大きな木槌を構えていて、真剣な眼差しで、崖の上に立っているイルヴァを見上げていた。

 アリスと僕は、列から少し外れた場所にいる。列と崖の上。どちらも撮影しやすい位置に立っている。客人とはいえ、儀式でもあるのだろう飛び降りの列に、混ざることはできなかった。

 僕はカメラをイルヴァに向けたまま、アリスの方をちらりと見た。昨日ずっと泣き続けた目は腫れぼったくなっていて、表情は渋い。泣いて、気持ちは軽くなったが、それでもまだ、心のどこかで、イルヴァを助ける方法を考えているのかもしれない。

 僕はアリスの頭を撫でる。昨日のイルヴァではないが、少しでも彼女の気持ちが楽になればと思ったからだ。


「アリス。昨日イルヴァとなにを話したんだ?」

「あの崖の上に立っているとき、皆が彼女を見上げる一瞬、自分はきっと、誰よりも世界で一番偉くなれる。きっと神さまよりも。その時を、見守ってくれますか? とか」

「どう答えたの?」

「神さまが一番偉いんですって。そしたら、イルヴァさんは笑っていました」


 アリスらしい。僕は笑う。アリスは眉をひそめた。その間も、アリスはイルヴァから目を離さない。


 ――優しい子。

 ――あなたはこれからも、悲しいものを見ることになるでしょう。


 僕は昨日のイルヴァのセリフを反芻していた。

 優しい子。だからきっと、今も「どうして助けられないのか」なんて考えているのだろう。自分の非力さに嘆いているのかもしれない。


「アリス、お前は――」


 なにも悪くないよ。そう言おうとして、僕は言い直す。


「――誰も悪くないし、間違ってない。だから、泣いちゃあダメだ」

「泣きません」


 知らない言葉の歌が止まる。イルヴァが一歩前に進む。飛び降りるつもりだ。脚を止める。アジャを見つめている。再び歩きだす。一瞬――こちらを――見たような―― 。

 落ちた。

 ぐちゃ。と、酷い音がした。

 僕は地面にカメラを向ける。

 イルヴァの体は見るからにぐちゃぐちゃに砕けていて――それでもまだ、生きていた。

 首が動いている。打ちどころが良かったのか、まだ生きていた。カメラをズームさせる。イルヴァの目が、困惑したようにぐるぐると動いていて、口の中に血が溜まって、溢れた。大きな木槌を構えていたアジャが、意を決したように前に出た。彼女の口が動く。「用意を」確かにそう言っていた。振り下ろす。こーん。と、音。イルヴァの頭が砕けた。アジャは振り向く。彼女の目は、じつと列の人を見回していた。


「『母』の魂は、解放されました。めぐり巡って、また私たちの前に、子として現れるでしょう。それまで私はこのドールヴの新たな長老――『母』として、貴方たちを導きます」


 アジャは皆の前で、頭を軽く下げた。子から揃った返事が返ってきた。

 僕はカメラの映像を見る。録画を巻き戻す。

 木槌で頭を砕かれる前、地面に落ちて、それでもまだ生きていたイルヴァの表情は、苦痛に歪んでいて、木槌を振り上げたアジャを見上げたとき、イルヴァは確かに――恐怖していた。死ぬ用意が出来ていたはずのイルヴァが、死ぬほど痛い苦痛で、用意が吹き飛んだ表情をしていた。彼女の表情は死ぬことに怯えていて、彼女の口は確かに「やめて」と言っていた。


「…………」


 僕はカメラを閉じる。この映像はアジャにも、アリスにも見せられない。

 ドールヴがゾンビを秘匿しているように。都合の悪いものを、覆い隠すことにした。


「このよでいちばんえらいのは、わたしだ。おまえはみおろされてしぬのだ」


 神さまの声が、どこかから聞こえたような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る