第六章 ミッドサマー(2)
アリ教。
この世界で一度も聞いたことがなかった宗教名である。もちろん、もといた世界でも。
というか、アリスの信仰している宗教よりも先に、別の宗教の名前がでてきてしまった。
「アリス、お前が信仰してる宗教の名前ってなんだ?」
「ロメロ教です」
「ストレートだなぁ……」
ぴちょん。と水が落ちる音。洞窟の壁で反響して、遠くまで響いている。荷物を渡し終えたクリスタとリリィロックはそのまま、またどこかへと旅立っていった。本当に、依頼されていた荷物の運搬だけだったらしい。
「なあ、クリスタ」
去り際に、僕はクリスタに気になっていたことを尋ねた。
「リリィロックはここを『家族を大事にしているコミュニティ』だと言っていたが、それは信じていいのか?」
「リリィロックが嘘をついているとでも?」
銃口を向けられた。僕はぶんぶんと頭を振る。
「あいつはちゃんとしているとはいえ、八歳だろう? だから、良いところだけを見ているだけの可能性もある。もしも危険なコミュニティなんなら、僕らも一緒に出たい」
「そ、それなら安心してください。危害は加えないとお、思います」
「なら良いんだけど……」
「ただ」クリスタは小さな声で言う。「江渡木さんの言うとおり、リリィロックは良いところだけみ、見ています。というより、み、見せています。あれは、し、刺激が強いので……」
「刺激?」
「なにを二人でこそこそ話してるんですかぁ?」
振り向く。アリスが唇を尖らせて、不機嫌そうな表情で立っていた。
「やはり恋敵……」
「なに言ってんだお前?」
僕は首を傾げる。クリスタは「あ、あはは……」と愛想笑いを浮かべていた。
「そ、それではまたいずれどこかで」
「次はちゃんと金を払えよ!」
そんな言葉を残して二人は去っていった。なんというか、また出番のありそうな二人である。
「江渡木さん」
二人のことを思い出していると、隣を歩いていたアリスが、僕の耳に手をかざし、口を近づけて囁いてきた。
「ここの方々は、ゾンビが嫌いなのでしょうか?」
「アリス」
「はい」
「その距離は撮影がしづらい」
アリスは距離の近さに気がついたのか、顔を赤くして少し距離を取る。僕は答える。
「そもそも好きな人がいるのか?」
アリスは僕の顔を指さす。否定はできない。
僕はカメラを回す。洞窟の壁にはぽつぽつとランプがついているものの、映像を撮るための光量にはまるで足りず、カメラを覗いてみると、人の輪郭がぼんやりと分かるぐらいの映像になっていて、アリスなんかは、黒い衣装を着込んでいるものだから、輪郭すら分からず、青い目だけがシミみたいに浮かんでいるだけだ。ホラー的演出を除けば、暗い画面というのは良くない。なにをしているのか分からないのは、映像で人を魅せる映画として、マイナスになるからだ。
「えっと……名前はなんて言うんだ?」
「マジャです」
ローブの女性――マジャは言う。
「マジャ。このコミュニティはずっとこんな洞窟なのか?」
僕は周りの岩壁をなぞるように指さす。マジャは「いえ」と頭を振る。
「確かにこの『ドールヴ』は岩山をくり抜いたコミュニティです。ほとんどの場所は暗がりにあるのですが、この先は、光に満ちているのです」
「そこらで撮影ができたらいいんだけど」
「撮影とは」
「映画だ」
「エイガ」
「物語だよ。あるいは作品。旅の記録を撮影しているんだ。このカメラで」
「それは」
マジャは足を止め、首だけをぐりんと動かして、僕を睨む。じっと、僕の持っているカメラを睨む。
「あれも映っているのですか?」
「もちろん」
「では、ゆめゆめコミュニティの住人には見せないよう、お願いしたいのです」
「もしも見られたら?」
「仮定などありません」マジャは静かに言う。「見られたら、終わりなのです」
マジャは僕の返事を待つことなく、再び歩きだす。アリスと僕は顔を見合わせてから、彼女のあとを追いかける。暫く歩いていると、不意に光が見えてきた。すわ、洞窟の出口かと思ったが、そうではなく、洞穴の途中で、天井がくり抜かれて、吹き抜けみたいに、空が見えているだけだった。
光が降り注ぐエリアは円形で、岩壁が高く高く続いている。十数メートルぐらいあるだろうか。煙突を一番下から見たら、こんな感じだろうか。煙突にしては、幅があるけれども。子供が充分に走り回れる、小さな公園ぐらいの幅がある。
「この大穴の先は、岩山のてっぺんまで続いているのです。そうですね、火山から溶岩を全部取りだしたような場所だと考えていただければ」
「なる、ほど」
僕は大穴の側面を眺める。そこには、切り立った崖があった。飛び降りたら、タダでは済まなさそうな崖。洞穴の中で、地面が岩なので、普通の地面に飛び降りるよりも、悲惨な目に遭うだろう。
「では、さらに奥にどうぞ。長老があなた方にお会いしたいと言っておられるので」
***
第一印象はカイマクルみたいな場所だな。であった。
カイマクルとは、カッパドキアにある地下都市跡のある街である。
八層ほどあるらしいその地下都市には、居住区域や学校に教会。果てにはワイナリーまであったという。数千人が住んでいたとされるその地下都市のように、『ドールヴ』というらしいこのコミュニティも、アリの巣のごとく掘り進められている。さては、アリ教というのも、そこから来たのではなかろうか。
となるとここは、宗教施設なのだろうか? そう考えると、すれ違う人々の服装が、だいたいマジャと同じく、白いローブであることにも納得がいく。制服なのだ。白いローブは。
宗教施設。どこかで最近、話した覚えがあるような。アリスとだったか?
マジャが足を止める。マジャの目の前には御簾がかけられていた。ぼんやりと、オレンジ色のランプの灯りが見える。
「中で長老がお待ちです」
マジャは御簾を持ち上げると、中に入るように促す。アリスは僕の方を見る。入るべきでしょうか? という目線。
僕は頷き、先に入れという目線を向ける。アリスは「なぜ私が⁉」と言いたそうな目線を向けてきて、僕はカメラを指さした。入るところを撮影したいのだ。
アリスは、しばらく梅干しを食べたときみたいに窄めてから、恐る恐る、御簾の向こうに入っていく。
「お、お邪魔しまぁす」
「おや」しゃがれた、老婆の声。「そんな黒い服を着てる子は、うちにはいないね」
僕もアジャと共に御簾の内側に入る。まん丸とした曲線の壁の部屋だ。その真ん中で、白髪の老婆は、椅子に座り、シワの多い頬をゆるめて微笑んでいた。アジャは言う。
「外の方です。呼んでくださいと頼まれたので」
「ああ、そうでしたそうでした。ありがとうね。アジャ」
老婆はゆっくりと頭を倒す。そのまま椅子から転げ落ちそうで、どうもヒヤヒヤする。
アジャは僕らに頭を一度下げてから、御簾の外へと出て行った。連れて行く役割は果たしたということか。長老を一人にしていいのだろうか。
アリスは老婆にも聞こえやすいように、ゆっくりと、大きな声で言う。
「初めまして。私はアリスと言います」
「アリスちゃん。私は、イルヴァ。よろしくね」
イルヴァは僕の方に顔をゆっくりと動かす。
「そちらの、カメラを持っている方は?」
「江渡木です。お邪魔してます」
僕が頭をさげると、アリスが僕の顔を信じられないものを見るような目で見てきた。
「なんだよ」
「江渡木さんが横柄な態度を取らないなんて新鮮だなと」
「老人相手に横柄な態度は誰も取らないだろう」
「江渡木さんが、常識的なことを言ってます」
「僕をなんだと思ってるんだよ」
「まあまあ横柄な人です」
「よろしくね。江渡木くん」イルヴァは柔和な笑みを浮かべる。
「それで、二人はどうしてここに?」
「それは」僕は食料をもらう代わりに働くことになった経緯をイルヴァに説明する。
「ああ。目立つでしょう、あの扉」
「昔からあるんですか?」アリスが尋ねる。
「はい。昔から、それこそ『死体』が歩きだすより昔から」
アリスと僕は、ギクリと体を震わせた。イルヴァは不思議そうに、首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いえ。このコミュニティで『それ』は禁句だと聞いてたので……」
「アジャがそう言ったのですね。確かに、ドールヴでは『死体』の話は禁句です。ただし、それは『死体』を知らない子供たちの前だけです」
「『死体』を、知らない?」
「はい」イルヴァは頷く。「まずは、このコミュニティの成り立ちについて、話すべきでしょう」
イルヴァはとくとくと、まるでお伽噺を聞かせるように、語り始めた。
「このドールヴは元々、アリ教のコミューンとしてつくられたのだと『母』から伝え聞いています」
「お母さま」
アリスは小さな声で返す。もしかしたら、ゾンビになってしまったという母親のことを思いだしているのかもしれない。
「ええ。とはいっても、血縁関係のある母ではなくてね先代の長老のことを、『母』と呼んでいるだけなの。母親のような人。でもいいかもしれませんね」
「長老というのは、このコミュニティで一番偉い人のことですか?」
「さあ、どうでしょう。最も長く生きている老人であるのは確かですが」
イルヴァはごまかすように笑う。
「我々アリ教は、輪廻転生の教えを主として信仰しています。意味はご存じ?」
「詳しくは知らないけど、死んだあと、別の生き物として生まれ変わる思想ですよね?」
「そう。生き物は何度も生死を繰り返し、新しい生命へと生まれ変わり続けています。私たちは今の人生を修行と捉え、修行を終え、今の体を捨てたとき、今よりもっと、健やかで幸せな人生を送れると信じています」
それはなんとも。ありがちな新興宗教の教えだなと思った。
生きるということはそれだけで苦しみで、その苦しみはあなたの魂がより一層高みへとあがるための試練なのだと。そういうやつ。
「私たちは現世での修行をするために、このドールヴで共同生活を行うようになったと言われています。現世の娯楽から逃れるために、外部との連絡は上層部――選ばれた者以外は禁止され、私たちの上の世代たちは、閉ざされたドールヴの中で暮らしていきました」
ある日のこと。とイルヴァは続ける。
「選ばれた者が情報を得るために、外に出たときのことでした。外の世界は一変していました。なにせ、『死体』が動いていたのですから」
つまり、彼らの上の世代たちが、ドールヴの中に引きこもっている間に、外はゾンビパニックが起きていたらしい。彼らは意図せずに、ゾンビパニックの第一波を躱し、安全地帯を手に入れたということだ。
「私たちが閉じこもっている間に、世界が豹変していた。それを知った上の世代は、再び、閉じこもることにしました」
「危険だから?」
「その通りです」
イルヴァは頷く。
「外の様子が知られてしまえば、我らの思想は間違っていることになってしまうのですから」
考えていた危険とは違う危険に、アリスは「え?」と素っ頓狂な声をあげる。
「アリ教の思想は、輪廻転生です。今の体を捨て、新たな生命へと生まれ変わる。つまり、死んだ後の体は空っぽになりますね。捨てているのですから」
しかし、外の『死体』は「死んだあとに、動いている」のである。
捨てたはずの体が、空っぽのはずの体が、動いているのである。
「そんなものを信者に見られてしまえば、死んだあとも体を捨てることはできないと思われかねません。それは、輪廻転生の否定になります」
「危険は危険でも、思想存続の危険ってことか」
僕が独りごちると、イルヴァは僕の方を見て、微笑んだ。
「上の世代は、外で見たものを全て禁句としました。ただし、全員が知らないままだと統率を取ることができません。なので、選ばれた者のみ、外の世界の事実を知ることができます」
「その、選ばれた者というのは、いま何人いますか?」
「『母』より伝え聞いた私と、私より聞いたアジャ。今は二人だけです。上の世代の方々は皆、新たな生命へと生まれ変わり、今の子供たちは世界が豹変したあとに産まれたので、外の世界がどうなったか、まったく知りません。生前の記憶は、失うものなので」
ゾンビの世界にいる、ゾンビを知らない子供たち。
御簾の向こうから、子供たちの賑やかな声が聞こえてきた。
イルヴァは小さく、穏やかな声で言う。
「よければ、今日はこちらにお泊まりください。ただし、子供たちには外のことは内密に」
***
アリスと僕には、ドールヴの奥にある小さな部屋が宛がわれた。
二人だけが入れるぐらいの小さな部屋。個室なのは、客人に対する優遇というよりは、ゾンビのことを知っている外の人と、他の住人との接触を避けた。という方が正しいだろう。
岩山を削ってつくられた丸い部屋の中に、木製の小さな机と、二段ベッドが設置されている。暮らすための部屋。というよりは、寝るための部屋。という印象だ。
部屋の全景を撮り終えた僕は、アリスの方を見やる。アリスは二段ベッドを見上げて、ぽかんと口を開けていたかと思うと、キラキラと子供みたいに目を輝かせながら、僕の方を向いた。
「江渡木さん」
「なんだ」
「私、上の段がいいです」
「え。僕が上だよ。僕の方が偉いんだから」
「上下は権力で決まるんですか?」
頷く。二段ベッドの上争奪闘争は、だいたい勝つのはお兄ちゃんかお姉ちゃんなのである。
「いいじゃあないですか! 私、二段ベッドなんて眠ったことがなかったんですから。ずっと床でぺっちゃんこの布団で雑魚寝だったんです! 憧れだったんですよ!」
「お前、むしろ今までなにをやってきたんだ? ってぐらい、初体験が多いな」
「しょうがないじゃあないですか。コミュニティの外に出たのは今回の旅が初めてで、それまではずっとずっと、閉じこもっていたのですから」
むむむ。とアリスは唸る。
「江渡木さんって、いま何歳ですか?」
「
「私は二十一歳です。私の方が歳上ですね。歳上を敬って、ベッドの上段を譲るべきです」
「こんな理由でお前の年齢を知りたくなかったよ」
というか、歳上だったのか。お前……。
名案だろうと言わんばかりに、ふふん。と鼻を鳴らすアリス(二十一歳・歳上)。
あんまりにも哀れだったので、譲ってやることにした。
アリス(二十一歳・歳上)はウキウキした表情で、二段ベッドの上に昇る。アリス(二十一歳・歳上)は、ベッドに敷いてあった薄い布みたいな敷布団を被って、満足そうにむふーと鼻を鳴らした(二十一歳・歳上)。
「なにをしてるのですか?」
木製の薄い扉が開き、アジャが顔をだした。さっそく二段ベッドの上を占拠して、満足そうにしているアリスを見て、怪訝な顔をしている。
「二段ベッドの上を取れて満足してるんだよ」
「はぁ……?」
「なにか用か?」
「夕餉の時間になりましたので、お二人もどうですか? と思ったのです」
「ご飯! いただきます!」
アリスは顔をがばりとあげた。
二段ベッドの上段で、顔を勢いよくあげたものだから、ゴツゴツとした岩壁に頭をぶつけた。ガッツ。と痛い音がして、アリスはぴええ。と甲高い悲鳴をあげる。
「頭が割れました!」
「割れてない割れてない。二段ベッドでそんな起き上がり方をするからだろう」
「江渡木さん、やっぱり私は下段がいいです」
「そんなことを言うな。上段は歳上に譲るのが、鉄則だからな。気にせず使ってくれ」
「彼女の方が、歳上だったのですか?」
「二十一歳らしい」
「……未成年ではなく?」
アジャが大きく目を見開きながら、驚いたように言う。
今日半日話した程度の相手にも歳下だと思われていたらしいアリスは、赤くなった額をおさえながら、「歳上ですよ!」と大声をあげた。
「うう、頭が痛いです。割れるように痛いです……」
「まったく……」
涙目のまま額をおさえているアリスのケガを確認するべく、立てかけている梯子を昇る。顔を突きだしてくるアリスの、両頬を挟み込むようにして掴む
「ほら、見せてみろ」
「か、顔が近いのは恥ずかしいのですが……!」
「いつも恥ずかしいぐらい顔を寄せてくるのはお前だろ。ほら、動くな。見えづらい。監督命令だ。動くな」
「う、ぬぬぬぅー」
「あーあ、血もちょっとでてるじゃねえか。どんな勢いで跳ね上がったんだ? まあ傷は小さそうだから問題はないか。ったく、シーンが切り替わったらヒロインの額に傷跡があるなんて、伏線とかじゃあない限り、ただの放送事故だからな」
「ごめんなさい……」
「このシーンは映画に入れるからな」
「ええー!」
「入れないと、不自然だろう」
僕はアリスの額を軽く叩いて振り返る。アジャが僕のことを、変な目で見ていた。口を開く。
「江渡木さん、あなたは彼女のことを、作品のように見ているのですね」
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