最終章 アリスと世界の終わり(5)

 アリスの研究は、毎日のように続いた。

 朝に連れ去られて、夕方に憔悴しきった表情を浮かべて帰ってくる。そのまま布団に飛び込んで眠りにつくことも、最近は多くなっていた。


「疲れたのなら、休みをもらえばいいのに」

「いいえ、これぐらい平気ですよ」


 アリスは腕まくりをして、力こぶをつくるまねをした。二の腕には、力こぶの代わりに、注射のあとが目立った。一体、どんな研究をしているのだろうか。丁重に扱いますとも。死んでしまったらもったいない。とはアナの言葉ではあるが、ここ最近の憔悴具合は、目に余るものがある。

 一度、アナの研究シーンも撮影してみたいと『映画』の説明も併せて、お願いをしてみたことがある。が。


「この私の研究を撮影するというのは、盗用ではありませんか?」


 なんて言われて、断られてしまった。

 世界を救う。自己顕示欲の強い彼女にとって、研究が明るみにでて、誰かしらに盗まれる可能性は少しでも排除しておきたいらしい。

 僕が研究を盗まない運命であることを知っていてくれたら良かったんだけれども、どうやらそれは知らないようだった。


「では、行ってきますね。江渡木さん」

「行ってらっしゃい」


 固形食料をもさもさと食べながら、アナに連れ去られていくアリスを見送ってから、僕も部屋を出る。

 目的地は、どこにあるのか分からないアナの研究室。

 アナは教えてくれなかったが、アリスは教えてくれた。うちのシスターの口の軽さを甘く見てはいけないな。神さまが知りたがっていると言ったらあっさり教えてくれた。

 目的は、一体全体どんな研究をしているのか。教えてくれないというのなら、突撃取材を敢行するまでである。わはは、気分はさながらマイケルムーアだ!

 階段をのぼり、最上階、五階にたどり着く。その一番東側。廊下の突き当たりで立ち止まる。

 天井を見上げる。確かに、アリスの言うとおり、そこには通気口があった。廊下の四隅に置いてある箱を足場にして、通気口に手を伸ばす。いとも簡単に格子は外れ、中から縄梯子がでてきた。これを使って、アナとアリスは通気口までのぼっているらしい。


「『ゾンビ』の隠れ家だな。まるで」


 苦笑しつつ、のぼる。映画好きとして、エアダクトの中を一度で良いから這ってみたいという気持ちはあったが、まさかこんなところで達成できるなんて。

 次の通気口で、飛び降りる。突き当たりの壁の向こうにたどり着いた。ハリボテの壁をひとつつくることで、その向こうに秘密の隠れ家をつくっていたらしい。


「分からない……」


 声がした。アナの声だ。光の漏れている部屋を覗き込む。

 アナが真っ赤な液体が入った試験管を片手にうなっていた。アリスの姿はない。もう帰ってしまったのだろうか。それとも、別の場所で検査を受けているのだろうか。


「彼女――アリスは素晴らしい検体です。あんなにも『死体』に噛まれ、『死体』の体液を流し込んだり、食べていただいたりしているのに、死ぬどころか、健康体のまま」


 そんなことをしていたのか……。

 健康体かどうかチェックしているというより、不健康になる方法を探しているようだ。


「彼女の体にはなにかがある。それに間違いはありません。なのに、


 アナは試験管を手放す。ぱりんと割れて、机の上に血が滲む。

「何度調べても、彼女の体は『ただの健康体』で、抗体であったり、なにかしらの正体不明を持っているわけではない」

 割れた試験管の破片で、アナは指の腹を切る。ぷく。と血が浮く。


「なんでもない、なんともない。なにかがないといけないのに。なにもない」


 どうやらアリスの体質を利用してのワクチンづくりは難航しているようだった。アリスはアリスで毎日大変そうだが、アナもアナで大変そうだ。なんて、考えていたときだった。アナが、「そうです」と立ち上がったのは。


「試しに、孕ませてみましょうか」


 ぞ、おっ。と。

 背筋に悪寒が、はしった。


「時間はかかりますが、交配によって彼女の子供ができあがれば、彼女の運命が『個人』のものなのか、『遺伝』のものなのか分かるでしょう。『遺伝』であれば、彼女を起点として、新人類を形成することになりますね。ふふ」


 交配。交配。交配だって?


「男の方はどうしますかね。掛け合わせ的には頑丈なものの方がいい。付き添いのメガネの彼は細くて不健康そうなので、別を当たりたいところですが。子供は、元気な方が良いですからね」


 アナはあごをさすりながら言う。まるでアリスを実験動物かなにかと思っているかのように。

 本気で言っているのだ。彼女は。

 『世界を救うなにか』を求めていた彼女にとって、アリスは、たまたま人間だったぐらいの感覚だったのかもしれない。

 世界を救うための研究材料。

 その程度の、認識。

 ――ずっと求めていたその場所は、自分が思っていたような場所ではなかったのが、世の常、映画の常だ。

 つまりは、そういうことだった。早急に『オアシス』からの脱出を考えないといけない。

 このままここに居続けたら、アリスはきっと、粉粒になるまで酷使されて、人間としての尊厳を失ってしまう。


「それにしても、驚きました」


 隠し部屋から出ようと縄梯子に足をかけたとき、アナは独りごちる。僕の存在に気づいたのかと思ったが、そうではなかった。アナは独り言で、頭の中を整理する癖があるようだった。


「彼女の今までの旅について教えてもらったのですが、『クカリヨ』にも行っていたなんて。あそこが滅んだことを伝えたら、血相を変えて出ていきましたが……知り合いでも居たのですかね」


 僕は隠し部屋から飛びだす。アリスはどこにいるのだろうか。ひたすら探す。

 四階。いない。三階。いない。二階。いない。一階。いた。

 研究スペースの手前、ゾンビたちを解体している場所に、アリスが立っていた。防護服を着ていないから、すぐに分かった。


「アリス!」


 息を切らしながら、僕はアリスに声をかける。アリスは振り返る。悲しそうな目をしていた。


「知っていましたか、江渡木さん。『クカリヨ』は滅んでしまったそうです」

「…………ああ、僕もさっき聞いた。残念だよ」

「『オアシス』の方々はゾンビの回収をして戻ってきて無事だったらしいです。これも運命だとか」

「…………そうかもな」


 言葉を選んでから口を開く。アリスは手を僕に向けて伸ばしてくる。


「お願いがあります。江渡木さん、カメラを見せてください」

「どうして」

「観たいと思ったからです。江渡木さんの映画を」


 アリスは首だけ動かして、ゾンビの解体場所を見た。僕もカメラを回す。

 そこでは、一体のゾンビが解体されていた。

 小さなゾンビだ。アリスよりも小さいかもしれない。多分、十代前半。

 半分に裂かれた頭皮には、右に一個、左に一個ずつ、赤茶髪の三つ編みがひっついている。

 幼い顔は胴体から切り離され、胴は魚の干物みたいにかっさかれていて、熊の敷物みたいに中をくり抜かれている。

 頭はまだ砕かれていないから――カレンちゃんは、僕らのことをじっと見ていた。

 『クカリヨ』――死体火力発電所のある街で出会ったゾンビ。

 娘が死んでしまったことを信じれないでいた両親が地下室で匿っていたゾンビ。

 その両親を噛んで殺したゾンビ。

 『オアシス』に引き渡される予定だったゾンビ。

 アリスには――無事だと伝えていた、ゾンビ。

 彼女が、解体されていた。


「……………………あ」

「最後に回収したゾンビだそうです。そちらの研究員の方に、教えて貰いました」


 アリスは僕の方を向く。悲しそうな声。


「映画を、観せてください」


 僕は観念して、アリスにカメラを渡した。映像を観るアリスに、僕はなにも言えなかった。

 再生が終わる。

 彼女は。涙を目尻にためていた。


「……嘘つき」

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