第三章 コープスブライド(1)
おんぼろのエンジンが咳しているみたいな音と振動が響き、向かいからの太陽の光が照りつけてくる車内。助手席に座るアリスは、頬を赤くしながら、なんだかもじもじとしていた。
クーラーなんて大層なものはとっくの昔に壊れているらしい車なので、最初は暑いのかなと思ったのだが、汗はかいていない。僕の方をちらちらと見て、なにか話しかけようとしては、やめるを繰り返している。暑いのではなくて、もじもじとしている。……あー。
「トイレか?」
僕はハンドルを握ったまま尋ねる。右も左も、見渡す限りなんにもない荒野の真ん中を突っ切るような道を、ひたすらまっすぐ進んでいるものだから、尿意でも催したのだろうか。
「ち、違います!」
アリスは目を大きく見開いて、僕の方に顔をぐんと寄せた。車がぐらついて、僕はハンドルを左に傾ける。眼鏡の位置を整える。
「じゃあ、どうしたんだ? 体調が悪いなら早めに教えてくれよ。演者の健康にも気遣ってこその名監督だからな」
アリスはパチパチとまばたきを繰り返してから、助手席にゆっくりと戻る。薄紅色の唇を尖らせて、くすんだ金髪の毛先を、指でいじりながら言った。
「ま、窓を開けてもいいですか?」
ババババババババ。と風が布を叩く音がする。アリスが窓から上半身を乗りだしている音だ。
ウィンプルを助手席に置き、くすんだ金髪は風にあおられて後方に飛んでいる。
「すぅっごいですねぇ江渡木さん! 風がとっても気持ちいいです!」
アリスは満面の笑みを浮かべながら言った。彼女がもじもじとしていたのは、窓をあけて体を外に出してみたいからだった。きっと気持ちがいいのだろうなとは思っていたものの、恥ずかしくて言い出せなかったらしい。
「気をつけろよ。木とかにぶつかったら痛いじゃあ済まないぞ。首がもげて、蟻がたかるぞ」
「そんなグロいことになるんですか⁉」
「パイモンの紋章が刻んであったら」
『ヘレディタリー/継承』だったら死んでいる。まあ、僕らがはしっている場所は建造物らしい建造物も見当たらない荒野である。急に地面から木が生えてきたりすることがない限り、衝突の危険はないだろう。
それでも一応、安全運転を心がけながら車をはしらせる。
「私、実は車に乗るの初めてなんです!」
上半身を乗りだしたまま、アリスは言う。
「え、ホント?」
「本当ですよ。神さまの啓示があるまでは、私はコミュニティの外に出たことがありませんし、なにより、車は貴重品ですから」
車をつくる工場なんて、とうの昔に無くなってしまったのだろうし、ガソリンだって有限だ。
ゾンビ世界は、今ある資源をちょっとずつ消費していく世界だ。
残りのガソリンタンクも大事に使っていかなくては。
「車はいいですねえ、歩かなくていいですし、風がとっても気持ちいいですし!」
アリスは目を細めながら言う。窓のさんに両手を添えながら、目を細める彼女の姿は、なんだか大型犬みたいな愛らしさがあった。運転中でなければ、この顔も撮れたんだけどなぁ。
せっかくの良い表情を撮らないのはもったいない。どうにか撮れないものか。運転席と助手席の間に置いてあるカメラを取ろうと、僕は前を見たまま手を伸ばす。指が何かにぶつかる。柔らかくて、指が少し沈み込む感触。少なくともカメラではない。僕は首を傾げて、指でつつとなぞる。
「ひゃっ……!」
アリスが小さく声をあげた。びくぅ。と体を震わせて、あわや窓の外に落っこちそうになる。僕は目だけを動かして、アリスの方を見る。
アリスは窓の外に体の上半身を乗りだしていて、下半身は助手席の上にある。助手席に膝で立つようにして、お尻をぴんと上げている。
僕はそんなアリスの左足を掴んでいた。僕の方に向けて投げだされている素足を掴んでいた。
助手席の上に膝で立つのに、わざわざ靴を脱いだらしく、つるりとした踵が見えた。
車が揺れる。振動で動いた僕の親指が、彼女の足の裏を撫でる。
「んっ」
アリスが僕の方を見ながら、顔を赤くしてわなわなと震えている。僕はしらばくそれを眺めてから、土踏まずを指で思いっきり押した。ピギーッ。という、アリスの甲高い悲鳴が木霊する。
体を引っ込めたアリスは、左足を抱えながら、涙目で僕を睨む。
「ど、どうして私が痛い目に!」
「話のオチにちょうど良かったから」
「理不尽を感じます」
アリスはアクセルを踏んでいない方の足を睨みながら言った。復讐のタイミングを狙っているようだった。靴を脱がないようにしないとな。
リスはため息をついて、窓の外を見る。はて、と首を傾げた。
「……江渡木さん」
「僕は謝らないからな」
「そんな意固地になることですか? そうじゃあなくて……花嫁さんがいます」
「……は?」
僕は素っ頓狂な声をあげて、アリスが見ている左側の窓の方を見た。
そこには、花嫁がいた。
純白のドレス。肩と胸元が大胆に露出している。バスト下から、直線的に裾が広がったフィッシュテールスカートは、踏みつけた短い草をならすように、引きずられている。
白いレースの手袋をつけた手には、そこらから引っこ抜いてきたのだろう長い野花が何本か握られていた。ブーケ――のつもりだろうか。
頭の上でたなびく薄いベールは、今にも風で飛んでいきそうで、野花を握っていない方の手でしっかりと押さえられていた。たなびくベールや引きずられているスカートを追いかけるように、その背後からふらふらとゾンビが歩いている。花嫁が、なにもない荒野で、ゾンビに追われていた。
「江渡木さん、助けに行きましょう!」
「お、おう」
僕はハンドルを左に切った。
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