第三章 コープスブライド(2)
「ああ、助かった。まさかこんなところを車が走っているなんて。幸運にもほどがあるわね」
「神さまのご加護ですよ」
後部座席のガソリンタンクの横に座っている花嫁が、胸をなで下ろした。アリスは助手席のヘッドレストの上にあごをのせるようにして振り返りながら、花嫁に笑いかける。
「ええ、そうね。神さま。本当にいらっしゃるんでしょうね。こんな幸運があるんだから」
花嫁は野花を大事そうに握りながら言う。
年齢は二十四、五歳ぐらいだろう。肩甲骨あたりまで伸びた、毛先がくるくるとしたくせ毛の青髪。口元には紅。長い睫毛の黒い目で、花嫁は困ったように笑いながら、僕を見た。
「シスターさん。どうして彼はちょっと不機嫌そうなの?」
「ああ」アリスは僕の方を見てから苦々しく笑う。「あなたが『死体』に追われているところを撮り損ねて嫌気が差しているだけなので、気にしないでください」
「不覚だ。花嫁がゾンビに追われているなんて面白いシーンを撮り損ねるなんて。僕はなんてマヌケなんだ。カメラを回さないなんて監督失格だろう。運転しながらだってカメラを持てるだろう。怠けてるんじゃあねえぞ。だからダメなんだよ畜生……っ!」
「ええと」花嫁は頬を指でかく。「私、もう一度『死体』に追われた方がよかったりする?」
「是非に!」
「ダメです!」
振り返りながら僕は大声で答える。アリスが僕の頭を掴んで、前を向かせた。
花嫁がおかしそうに笑う。
「私はエミリィ。助けてくれてありがとう。シスターさんと……あなたは?」
「江渡木。映画を撮ってる」
花嫁――エミリは「エイガ?」と首を傾げる。恒例行事になりそうだ。
「あなたたちは、どうしてここに?」
「”世界を救う旅”をしているんです」
「へえ、大きな夢ね」
バックミラー越しに、エミリが「大変そうね」って目を向けてきた。僕は「もう慣れた」という目で返した。
「エミリィさん。『オアシス』という名前に聞き覚えありませんか?」
「砂漠にある泉とか、そういう意味じゃあないのよね?」
「はい。江渡木さんが言うには、ワクチンの研究所か安全地帯の名前だと」
「ワクチン?」
「はい。『死体』になるのを防ぐワクチンです」
アリスは左手の手袋を外して、手の甲を見せる。ゾンビに噛まれた痕のある手の甲。
「私は『死体』に噛まれても平気なんです」
「え」
「アリス!」僕は彼女の手をおさえる。「人に見せるな」
「いいじゃないですか。減るものではありませんし。江渡木さんは心配性ですね」
アリスはべえ、と舌をだす。エミリィはアリスの手をじっと見つめながら言う。
「つまり、世界を救うって、あなたの抗体でワクチンをつくるってこと?」
「江渡木さんはそう考えているようです」
「……それは、すごいわね」
エミリィは少しためこんでから、小さく呟く。
「この車で二人は旅してたの?」
「最近手に入れたんだ。デッド・レコニング号って言うんだ」
『ランド・オブ・ザ・デッド』に出てくる装甲車の名前だ。
この車もいつかは、花火を打ち上げて走るように改造してみたい。
「レコちゃんって言うんですよ」
「その略し方はイヤだって言ったのに」
「
「救い。そうね。救いは与えられるべき」
エミリィの表情が曇る。アリスと僕は、顔を見合わせる。
「ああ、ごめんなさい。なんでもないの。気にしないで」
エミリィは顔の前で、両手を振る。
「それで」僕は言う。「そっちはどうして、あんなところに?」
「ブーケのための花を探していたのよ」
エミリィは野花の束を持ち上げる。
「私、結婚式を挙げるつもりなの」
「結婚式!」
アリスの目が、途端にキラキラと輝いた。
「こんななにもないところに、結婚式場があるのか?」
「ええ。もう少し行ったところに」
エミリィはレースの手袋をつけた手を伸ばし、フロントガラスの向こうを指さした。
「彼もそこで待っているわ。はやく戻って安心させてあげないと」
「花婿さんが待っているのですか?」
エミリィが頷くと、アリスは僕の肩を大きく揺すってくる。
「江渡木さん、はやく彼女をチャペルに連れて行ってあげましょう。花婿さんも心配しているはずです! 歩いていくより、レコちゃんで向かった方が早いですから。ね!」
「まあ、別に。急いでいるわけでもないし」
構わないけど。とバックミラーを見ながら言おうとして。
トランクの上に、黒い猫が座っていることに気づいた。
猫は僕の視線に気がつくと、人間のように笑って、「にゃあ」と鳴いて姿を消した。
「神さまも、喜んでくれそうだし」
「そうですよ。きっとここで出会えたのも神さまの思し召しです。神さまがあなたを助けるために、私たちをここに誘ったのです」
きょとんとした表情のエミリィは、そして、ニコリと笑った。
「ええ、そうね。神さまに感謝しなくっちゃ」
***
しばらく道なりを進めば、チャペルは見えてくるとエミリィが言うので、まっすぐ走り続けていると、なにもなかった荒野に、白い建物が姿を現した。
とんがり屋根の塔が目印の、大きなチャペル。
塔のてっぺんには光を取り込むための大きなガラス窓があったのだろうが、今はガラスが割れ、桟に残った鋭い破片に腹を貫かれたゾンビが、布団みたいに引っかかっている。
チャペルの入り口は、人の背丈よりも高い両開きの扉で、右側だけが外れて、斜めになっている。
「見てください江渡木さん、チャペルです。ウエディングチャペルですよ!」
助手席に座るアリスは興奮しながら、僕の体をぶんぶんと揺らす。
「シスターなんだから、教会ぐらい珍しくないだろう」
「江渡木さん、教会とチャペルは違いますよ」
「え、そうなの?」
「はい。そもそも教会は『Church』です。『Chapel』ではありません。ウエディングチャペルは、結婚式を挙げるための施設で、宗教施設ではないんですよ」
「知らなかった」
アリスに教わってしまった。
「なので、私にとっても憧れの場所なんですよ。ウエディングチャペル。ウエディングドレス。結婚式。ああ、憧れちゃいますね」
アリスは、ほぅ。と息を吐いて、ウエディングチャペルを惚けた表情で眺める。
僕はバックミラーを覗いて、後部座席に座っているエミリィを見やる。
「あそこで合ってる?」
「ええ。きっと彼も待ちかねてるわ」
「そうです。花婿さんが待っているのでした! レコちゃん、迅速に停車です!」
「デッド・レコニング号だ」
僕はため息をつきながら、チャペルの入り口にレコニング号を止めた。
アリスが、いの一番にチャペルの方へと走っていき、僕はその後ろ姿をカメラで撮る。
ウエディングチャペルは宗教施設ではなく、雰囲気作りの映画セットのようなものだとは教えてもらったばかりだが、やはり、僕みたいな一般人からすると、その違いはよく分からない。
少なくとも。チャペルに近づくシスター衣装の女の子の姿は、とても映えるものだった。
「ありがとうね」
アリスの姿を撮っていた僕の隣に、エミリィが立つ。
「ここまで連れてきたことだったら、別に気にしなくてもいいよ。お礼を言うなら、アリスの方に言ってくれ」
僕はカメラに映らぬように気をつけながら、外れた扉の下を潜って、チャペルの中に入ろうとしているアリスを指さす。正直なところ、ウエディングチャペルの前に佇む花嫁の姿も撮っておきたいから、エミリィには僕の横ではなく、前に立っていてほしいばかりなのだが、しかし、彼女は頭を振るだけだった。
「あなたにお礼を言いたいの。あのシスターさんを私の元に連れてきてくれたあなたに――」
「は?」
なにを言っているんだ、彼女は。そう思ったのと、アリスの悲鳴が聞こえたのは、ほぼ同時のことだった。
「アリスっ⁉」
僕はカメラを構えたまま、悲鳴の聞こえたチャペルに向けて走る。外れた扉の下を潜り、中に侵入する。チャペルの中は薄暗い。塔のてっぺんにある大枠から入る太陽光ぐらいしか、光がない。
部屋の真ん中には穴だらけのレッドカーペットが敷かれていて、その両脇を挟むようにして、横に長い椅子が並んでいる。
アリスはレッドカーペットの真ん中で、腰を抜かしていた。僕は彼女に近づく。見たところ、ケガはしていないようだ。
「大丈夫か、アリス」
彼女の返答を待ちながら、僕はカメラのライトをつける。
ぱっ。と。
長い椅子に座っているゾンビたちの姿が照らされた。
「な――っ」
ゾンビたちは、無地の黒いスーツを着ていた。あるいは、スカート丈の長いドレスを着ていた。
長い椅子にロープで縛りつけられたゾンビは、まるで、結婚式に呼ばれたゲストのように、座っている。
「江渡木さん、あそこを」
アリスがレッドカーペットの先を指さす。牧師が立って、誓いの文句を言うであろう場所の前に、一人の男が立っていた――一体のゾンビが立たされていた。
それは、他のゾンビと違って、髪型を整え、顔色が良くなるように化粧が施されていて、黒のタキシードを着込んでいた。床に突き刺さった木材に縛りつけられ、直立しているゾンビは、格好だけを見れば――まるで、花婿のようだった。
「本当、神さまに感謝しないと」
背後から声。僕は振り返ろうとして、それよりも先に、頭を殴られる。
視界がくらくらと歪んで、回って、点滅する。意識が飛ぶ。額が床にぶつかった音が聞こえた。
「こうして、聖職者を連れてきてくれたのだから」
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