第二章 ゾンビ(7)

 とかく逃げなくてはならない。怒っている暴君、ルディから逃げなくてはならない。

 一体どこに逃げればいいのだろうか。

 外に向かおうにも、だいたいの入り口は封鎖されていて、唯一バリケードが壊されている入り口は、ゾンビが今も行き来していて、あんなところ、通れたものではない。

 となると、やはり上に行くしかない。二階はまだゾンビがいる。さらに上。防火戸を閉じて安全地帯になった三階。ふかふかの布団がある場所。あそこまで戻って――。


「止まれ」


 背後から声がしたアリスは、体をビクリと震わせて、振り返る。

 二階と三階を繋ぐ階段の踊り場に、ルディが立っていた。息が切れている。さっきまで走り続けていたのだろう。目が血走っている。興奮している。左手で拳銃を握っている。利き手ではないからか、少し違和感があるらしく、グリップをせわしなく握り直している。

 右腕はだらんと垂らしている。肘と手首のちょうど真ん中に穴が空いていて、そこから血がだらだらと溢れている。鉄パイプで刺された場所だ。


「なに閉めようとしてんだよ、俺がまだ上がってないだろうが」


 アリスは自分が開いた防火戸に手を添えて立っていることに気がついた。


「し、閉めようとはしてません!」

「どうだか」


 防火戸は、火が広がらないように下ろされた壁みたいなものだが、下りたあとも通れるように扉がついている。アリスはそこに立っている。

 人がひとり通れるぐらいの幅の扉。アリスがそこから移動しない限り、ルディは三階に上がれない。彼は二階の方をちらりと見た。ゾンビの呻き声が三階まで聞こえてくる。近くまで、ゾンビが迫っているのである。舌打ち。ルディは左手に持った拳銃をアリスに向ける。


「下から『死体』が来てんだ。さっさとどいて、俺も入れろ」

「……まだ暴力で我を通そうとするのですか」

「なに?」


 アリスはぎゅっと手を握りながら、言う。目線はしっかりと、ルディの顔を見据えている。


「皆死んでしまいました。パーカーさんも、ルーダさんも、モニカさんも、サヴィーニさんも、ラリーさんも。このコミュニティに住んでいた人たちも、あなたの仲間も。あなたが、暴力で我を通そうとするから」

「だからなんだよ」

「反省しようと思わないのですか。懺悔しようと思わないのですか」

「懺悔?」


 ルディはアリスの格好を一瞥してから、鼻で笑う。


「なんだ、神さまに『ごめんなさい』って謝るのか? 謝ったら許してくれるのか、神さまってのは」

「はい、懺悔したものを赦します。それが神さまです」


 懺悔したら許される。敗北して改心した敵キャラみたいな解釈だ。


「神さまは全てを知っておられです。あなたがした暴力も、この状況をつくりだした原因も、安寧が破壊されていくさまも、たくさんの人が死んでしまったことも、神さまは全て知っています」

「へえ、神さまってやつは、随分と人間の生活に熱心なんだな」


 ルディは拳銃を構えたまま、階段をあがる。


「それでいて、自分が分かっていることを、わざわざ人間に口にさせないと気が済まないでいるようで、なかなかどうして、王さまめいてるじゃあねえか」

「王さまではありません、神さまです」

「神さまの方が偉いって?」

「偉いとか偉くないとか、そういう次元ではありません。神さまは私たちを『見て』いるのです」


 見ている。観ている。神さまは劇場の椅子に座って、二人の会話を観ている。

 ルディは階段をあがる。背後からゾンビの呻き声が聞こえる。アリスの目の前に立つ。銃口は、胸元におしつけられる。


「これで、この手でも外すことはないな」

「懺悔しようとは、思わないのですか?」


 アリスはもう一度尋ねる。


「このコミュニティの安寧を破壊したのは、あなたのその、暴力でしょう?」

「どうせ、いつかは崩れる安寧だったんだ。俺の責任にするんじゃあねえよ」

「……懺悔しないのですね」


 残念です。アリスは本当に残念そうに言った。

 神さまがここに自分を呼び寄せたのは、信者であるパーカーだけでなく、彼らだって救うためだったのだと思っているのかもしれない。パーカーは救えなかったが、せめて彼だけでも、と本気で考えているのかもしれない。

 ひゅう。と風がふく。ルディはなにか考え事でもするかのように、なにかに耳を貸すような、そんな首の傾げ方をしてから、アリスに言った。


「それ以上俺の邪魔をするなら、死ねよ」


 今。

 僕はアリスの服を引く。これが合図。アリスはすっとしゃがみ込んだ。

 突然の動きに、ルディは目を丸くする。自分が入れるように退くのではない。自分の足下に石ころにでもなったみたいにしゃがみ込んだ。

 その、

 めり。と鼻先がへしゃげた音。


「ぷらっ――」


 唐突なに反応できなかったルディは、体を大きくのけぞらせ、階段から、足を滑らせる。ごろごろと転がり、踊り場に体を打ちつける。


「いっ……づ」

「暴力によって人に迷惑をかけ続けた男が、暴力によって身を滅ぼす。シナリオとしては、そういう感じかな」


 ルディは血が流れる鼻を拭ってから、手元に銃がないことに気がつく。落ちたときに手から離れてしまったのだ。彼は踊り場を見回す。踊り場から二階へと向かう階段の手前に落ちていた。

 右手の使えないルディは、左手を伸ばす。その左手を、妙に青白い肌の腕が、掴んだ。

 ぬうっと、ゾンビが顔を出す。僕らを追いかけてきていたゾンビたちが、踊り場までたどり着いたのだ。ルディは小さく悲鳴をあげて、慌てて己の腕を掴んでいるゾンビの腕を蹴る。

 ゾンビはすぐに手を離した。立ち上がる。銃を急いで手に取る。周りを見るべく顔を上げる。


 ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。ゾンビ。


 彼の前に、何十体ものゾンビが立ち塞がっていた。

 緩慢な動きでルディの体を捕まえようとするゾンビに、ルディは銃弾を撃ち込んだり蹴飛ばしたりして抵抗を試みるが、銃弾が足りない。足が足りない。腕が足りない。ただでさえ腕が一本動かないのだから、なおさらだ。

 ゾンビたちの幾つもの腕がルディの体を捕える。一体しかない人間の体を皆で分け合うように、腕を千切った。ルディは大声をあげる。その口の裏側に指を這わせ、ゾンビは力任せに引っ張った。頬の肉がみちみちと裂け、ルディの口の中に血が溜まる。ゾンビはルディの胸に無造作に顔を押し沈めた。へそに指をいれると、血が温泉みたいに沸きだす。へそから腹に食い込んだ指はそのまま腹の皮膚を千切り、中の臓器を露出させる。ぷるぷるとした腸を、ゾンビ達は粗雑に手で千切りながら頬張った。ゾンビ映画の花形。“人間のひらき”。

 小腸を食べているゾンビが、ふと、なにかに気づいたように顔をあげた。

 パーカーだった。白く澱んだ目の彼女は、口元を血で汚しながら、ルディの小腸を頬張っていた。

 これ以上見ていても、意味はない。僕は防火戸の扉を閉める。カメラには防火戸とアリスと僕だけが映る。扉を閉めて振り返る。視線をあげる。

 カメラには映っていないが、僕の背丈より若干高いぐらいの高さの脚立の上に、カメラは置かれている。マネキンの脚を構えた状態で、カメラを回すことができないと思ったからだ。

 ここからならば、アリスの後ろ姿も、階段の下に現れるだろう、ルディの姿も映ったはずだ。

 アリスは悲しそうに、顔を下げている。

 僕は脚立をのぼり、カメラに近づく。画面の上に手が伸びる。カメラの電源ボタンを押す。画面が暗転。


***


 それからの話。

 アリスと僕は、ルディを殺した後、屋上からモールを脱出した。脱出する前に三階に残されていた保存食をバックに詰め込み、カメラのバッテリーを幾つか。それと、誰かが着ていたのだろうパーカーを手に入れた。これで暫くは持つだろう。そう思って下に下り、裏口の方にまわってみると、一台の車が止まっていた。

 後ろの窓ガラスが割れていて、手入れもされておらず、へこみだらけではあったが、まだ動きそうな車だった。中を確認すると、ガソリンタンクが後部座席に幾つか乗せられていて、車の鍵は刺さったままだった。


「江渡木さん、これって」

「多分、ルディたちのだ」


 パーカーは、ルディたちが車やバイクに乗ってやってきたと言っていた。

 恐らく、これがそうなのだろう。


「ちょうどいい、車があった方が移動もしやすいし、ゾンビからも逃げやすい」

「江渡木さん、車の運転ができるんですか?」

「オートマだったら」


 第一種運転免許(AT限定)。


「あの、江渡木さん。お願いがあります――」


 アリスは恥ずかしそうにそう切りだした。僕は笑って了承した。


「『車の後部座席結構大きいですよね、これだったらお布団も入れれるんじゃあないかなって私思うんですよ』……なんて、そんなお願いだとは思わなかったけどさ」

「で、でもふかふかだったじゃあないですか!」


 助手席に座るアリスが顔を赤くしながら言う。僕はくくく、と笑いながら後部座席を見る。後部座席にはアリスの掛け布団と枕が畳んで置かれていた。さすがに、マットは持っていけなかった。

 そんなわけで、僕らは車と布団とバッテリーを手に入れ、モールを後にした。

 あのモールはもう二度と使える日は来ないだろう。これからはずっと、ゾンビたちが暮らしていく。アリスは頬を膨らましながら、ふと、思いだしたように呟いた。


「江渡木さん、どうして彼らは三階で暮らしていたのでしょう」

「彼らって、ルディたちか?」

「はい。下にはゾンビがたくさんいるのですから。モールから逃げた方が、よっぽど安全ではないですか?」

「安全だけど、物がないだろう」

「それはそうですが」

「一度覚えた物がある暮らしは、そう簡単に捨てられないんだよ。元から住んでいたパーカーだって、後からやってきたルディたちだって、変わらない」


 ――私たちの物資が、暴徒に奪われるのが、どうしても、許せなかった。

 人は、手に入れたものを捨てられない。


「柔らかい布団で寝る心地よさを覚えてしまって、布団を持ちだしてしまったアリスみたいにね」


 僕はアクセルを踏む。

 モールの姿は見えなくなった。

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