第二章 ゾンビ(3)
「いや、済まなかった。まさかあの『死体』どもの中に、生きた人間がいるなんて」
ショッピングモールの三階。
ゴミが散らばっていて、しかし、人が通れる程度には片付けられている廊下に面した家具コーナーに、アリスと僕は案内された。綿が飛びだしている古びたソファに、青い目の男が腰掛けている。
「ケガはないか?」
「いえ。大丈夫です。江渡木さんが庇ってくれましたので」
「あんたは?」
僕は
青い目の男は柔和な笑みを浮かべて、白い髪を撫でる。
「ああ、良かった。何事もなくて良かった。危うく人殺しになるところだったよ」
男は僕らに向かいのソファに座るように促してきた。アリスと僕は、顔を見合わせてから、ソファに座る。
「サヴィーニ、二人に食事と飲み物を」
「分かってるよ」
青い目の男の後ろから、ぬっと髭面の男が現れた。
髭面の男――サヴィーニは、テーブルにクッキーと紅茶を置くと、アリスを一瞥して、髭を櫛で梳いた。
「食べてくれ。俺たちからお詫びだ」
アリスの方にカメラを向ける。彼女はまばたきを繰り返して、わぁ。と小さく声をあげた。
「い、いいのですか?」
「安心してくれ。これぐらいなら、まだ貯蔵があるし、さっきの事故の詫びだと思って」
アリスのお腹がくぅ。と鳴いた。恥ずかしそうに顔を朱に染める。
「ありがとうございます。お腹が空いていたんです」
彼女はクッキーを手に取り、頬張る。頬に手を添えて、幸せそうに、口元を綻ばせた。
「美味しいです!」
「そりゃあよかった」
アリスが二つ目のクッキーに手をかけるのを撮ってから、僕も紅茶を取る。温かい。どうやらここにはお湯をつくれるだけの設備があるらしい。
「俺はルディ。そっちは?」
「あ、ふぁた……」
口をおさえるように、アリスは手を添えて、こくりと呑みこんだ。
「私はアリスです。こちらは、江渡木さん」
僕は頭をさげる。ルディは僕が持っているカメラに視線を向ける。
「江渡木はどうしてカメラを持ってるんだ?」
「映画を撮ってるんですよ」
「エイガ?」
ルディは全く知らない異国語を聞いたみたいに首を傾げて、後ろに並んでいる仲間の方を向く。他の仲間も首を傾げている。
アリスだけが映画を知らない、世間知らずの田舎娘である可能性も僅かながらに考えてはいたけれども、この反応をみるに、本当に、この世界には映画が存在しないらしい。
なんて考えていると、アリスが僕の裾を引っ張ってきた。
「江渡木さん、ウィンプルを返してもらってもいいですか? 頭の上が軽くて違和感が……」
アリスは、くすんだ金髪を撫でながら言った。
「ああ、そうか。ごめん、忘れてた」
僕は彼女に借りたままだったウィンプルを返す。受け取ったアリスは、頭の上にウィンプルをのせた。
脱いでくれる? と頼んだあとの話である。
無論、脱いでくれる? とは彼女に全裸になってほしい。ということではない。映画にはサービスシーンというものが必要で、ホラー映画とエロスは相性が良いけれども、丘の影で全裸になってもサービスシーンとは言えない。あるとすれば、『死霊の盆踊り』めいたシュールさだろう。
脱いでもらったのは、彼女が被っていたウィンプルである。彼女が被っている布が垂れ下がっている頭巾みたいなもの。それを広げて、大きく、屋上にいる相手にも見えるように振ったのだ。
きっとルディは驚いたことだろう。さきにゾンビがいると思って撃ったところから、白旗を振りながら、人が現れたのだから。そして、彼は僕らをモールの中に招き入れてくれた。
もちろん、武器を所持していないかのチェックはされた。
しかし、『死体』に噛まれていないかのチェックはなかった。
ボディチェックなんてされれば、アリスの手にある噛み痕が見つかってしまうと危惧していたが、杞憂に終わったようだ。助かりはしたけど、しかし、どうも不用心だな……。
「アリス、こういうときって噛まれているかどうか調べたりしないのか?」
「いえ。ゾンビに噛まれてしまったら半日も経たずに衰弱して死んでしまうので、見たら分かるんですよ」
そういうわけらしい。ともあれ、アリスと僕はモールの中に、屋上から垂れ下げられた縄梯子を伝って入れてもらうことができた。全三階のモール。その最上階である三階に侵入する。どうして一階から入らないか。それは、落下防止用の手すりに手を置き、覗きこむことで分かった。
一階と二階は、そぞろとゾンビが歩いていた。
細い太ももを手にしていて、断面から踝の方へと、噛みつき、引き千切っているゾンビ。大事そうにでらでらと血に光る胸部を抱えるゾンビ。千切った腕を引きずりながら歩いて床に線を書くゾンビ。その線の上を、腕を追いかけて歩くゾンビ。
盛況だった頃のショッピングモールを彷彿とさせるぐらいの数が、どこに行くかも、どこを歩いているのかも定かではないかのように、ふらふらと歩き回っている。
すう、と鼻で息を吸うと、分別されていないゴミ袋の中みたいな臭いがした。ぬめりとした感覚に気づき、手すりから手を離すと、べっとりと血がついていた。
正直、見ていて気分の良いものではないが、僕はカメラを回す。一階の地獄絵図は、虚像めいた滑稽な映画のワンシーンとして完成していた。
「昨日、『死体』の襲撃があったんだ」
アリスが出されたクッキーを全部食べ終えたあたりで、ルディはそう切りだした。
家具コーナーは商品を並べているというよりは、生活空間を整えるように家具が並んでいて、彼らがここを中心として生活しているらしい。ということが伺えた。
「元は百人単位のコミュニティだったんだが、今じゃあ俺たち五人だけだ」
「五人?」
ルディの後ろにはサヴィーニと呼ばれていた髭面の男と、カールかかった栗毛の女しかいない。
「ああ、残り二人は下の食料保存庫に向かってるよ」
「あのゾンビの中をか?」
「ぞんび?」
「『死体』のことだよ。僕らはそう呼んでる」
「ああ、なるほど」ルディは頷く。「そうだよ。『死体』の中を隠れながら漁りに行ってる。『死体』どもに襲われたとき、全部持ちだすことができなかったからな」
「あ、あの。他に生存者は?」
「いないだろうな。三階にあがれたのは俺たちだけだ。俺たちしかいない」
「それは……残念です」
アリスは本当に悲しそうに眉をさげ、絡めるように指を組む。
「俺たちは運が良かった。三階まで逃げることができたからさ」
「三階までは『死体』が来なかったんですか?」
「ああ」
ルディは階段のある方を向く。
「階段の防火戸を閉じたんだ。おかげで、ゾンビはやってこなかった」
「なるほど」
「そっちはどうして二人だけで外に? 見たところ、武器もなにも持ってないようだが」
「それはですね」
「コミュニティで交際が認められずに愛の逃避行とか?」
「あ、愛っ⁉」
アリスは顔を一気に紅潮させて、わたわたと両手を振る。
「そ、そんなのじゃあないです!」
「じゃあどうして?」
「世界を救うためです!」
アリスは大きく胸を張った。残念ながら彼女の胸は張ったところで主張ができるほど大きくはない。ルディは僕の方に視線を向ける。この子マジで言ってる? みたいな面をしていたので、僕は頷いておいた。彼は苦笑いを浮かべてから、白い髪を撫でた。
「世界を救うか、そりゃあ大層な話で」
「私たちは神さまの思し召しでここに来ました」
アリスは首にかけている、祈る手をモチーフにした銀のペンダントを持ち上げる。
「神さまはここに、困っている信者がいるから助けてあげなさい。とおっしゃりました。このペンダントをしていると思うのですが、誰かご存じですか?」
「いや、知らないな。もしかしたら死んじまった連中の中にいたかもしれないが、宗教関係はてんで詳しくないんだ」
「そうですか……」
アリスは映像で見て分かるぐらい露骨に、がっくりと肩を落とした。
「まあ。もしかしたら下の階に生き残りがいるのかもしれない。そこを探してみるのもいいんじゃあないか? オススメはしないが」
ルディは半ば冗談のように言った。顔を少し下げているから、本人は隠しているつもりなのだろうが、カメラにはしっかりと、薄ら笑っている表情が映っていた。
からかっているのである。
神さまの思し召しとか変なことを言っている女の子を。
まあ。
僕としては、恐らく神さまが用意したのだろう舞台にいた、同じく神さまが用意したのだろう登場人物であるルディの性格がよく表現されているシーンが撮れて満足なので、全然構わない限りというか、どうせならば奥の仲間たちにも、あからさまなまでに声に出してゲラゲラと笑ってほしいばかりだったのだが、それよりも早く、大きな声をあげたのはルディの仲間ではなく、僕の隣――アリスであった。
「本当ですか⁉」
僕らとルディの間にある机に手をついて、アリスは体を乗り出させながら、そう叫んだ。
思っていたことと違う反応だったからか、ルディは目をまん丸にしている。そんなことを気にもとめず、アリスは僕の方を向く。
「聞きましたか、江渡木さん。困っている方はこの下にいるんですよ。ゾンビに囲まれて困っている方が! 神さまはきっと、その方を助けるために私たちをここに呼んだのです! さあ、行きましょう。すぐ行きましょう! 私たちの助けを待っている人がすぐ下にいるのです!」
「ダメだ」
「どうしてですか!」
「さっきも言ったけど、まだ状況が分からないのに勝手な行動はダメだ」
僕はアリスを睨めつける。
「僕の言うことを聞くんだろう? 監督命令だ。今は待て」
「……はい」
アリスはショボンと眉をさげると、乗り上げていた体を引っ込めるようにして、ソファに腰をおろした。
「ま、まあ。なんだ」
呆気にとられていたルディが、咳払いを一度してから切りだす。
「その、神さまの思し召しかなにかでここにいたい。と言うのなら、泊まっていっても構わない」
「本当ですか?」
「ああ、これも撃った詫びだと思ってくれ。幸運にも――いや、不幸にも口の数が減ったから、食事にも余裕があるしな」
アリスが僕の方を向く。
「状況を理解してないからダメなんですよね、江渡木さん」
「そうだな」
「でしたら今日はここに泊まって、状況を確認しましょう。それからなら、いいですよね?」
してやったりの表情を浮かべるアリスに、僕は一体全体、なにがしてやったりなのやら。なんて思いながら、ルディの方を見る。
「じゃあ、お言葉に甘えて。泊めさせてもらうよ」
そんな話をし終えたタイミングだった。近くの階段の防火戸にある、小さな扉が勢いよく開いた。力任せなまでの音に、僕らの視線は全員、扉の方を向く。
扉の向こうから、二人の男女が姿を現した。痩けた女が、金髪の男の肩を抱えるようにしている。金髪の男は息も絶え絶えで、顔が青い。左腕は痩けた女の肩に乗せられ、垂れ下がった右腕からはだらだらと血があふれていた。
右手首。
なにかに引き千切られたように――噛み千切られたように、肉がささくれみたく逆立っている。今にも死にそうな風体で、なるほどこれが『ゾンビに噛まれた人』の姿かと得心がいった。確かにこれならば、ボディチェックの必要なんてないだろう。
痩けた女は防火戸の前で男を床に下ろす。ルディは立ち上がり、二人の元へと向かう。
「どうしたんだ?」
「……噛まれた」
痩けた女は、びくりと体を震わせながら言った。
「レジカウンターの後ろに、煙草が落ちてるのに気づいて。彼が手を伸ばしたら、死角に『死体』が隠れてて……」
なるほど。彼はどうやら、カメラ外に手を伸ばしてしまったらしい。
カメラの死角――この場合は彼の視野の外、見えない位置――に手を伸ばせば、画面外から忽然と姿を現したゾンビがその腕に噛みつく。ゾンビ映画の様式美。彼はそれにやられたのだ。
床に寝転がっている男の横に、ルディはしゃがみ込む。
「しくじったな、ラリー」
男――ラリーは胸を激しく上下させながら、ぶつぶつと喋る。
「だ、大丈夫だって。これぐらい。俺はまだやれるよ……」
「どうせすぐ死体になるだろう」
破裂音。
ディが拳銃でラリーの額を撃ち抜いた音だった。
額のちょうど真ん中を撃ち抜かれたラリーの目はかっと見開き、口は開いたままで固まっている。ぱたた、と、隣にいた痩けた女の頬に血がはねた。
「な、なんてことを!」
大きな音に驚き、耳を塞いでいたアリスが大声をあげる。
「なんてことって、ただの介錯だ」
「まだ生きてました!」
「どうせ死ぬだろう」
ルディはアリスに拳銃の銃口を向けた。アリスの体がびくりと震える。
「俺に楯突くつもりか?」
僕は彼の顔に、カメラをズームさせる。
「このグループのリーダーは俺だ。俺がモールの王だ。俺の言うことが絶対だ。あんたらは客人だが、それでも、俺の領土にいることを忘れないでほしいね」
アリスが今にも泣きだしそうな表情で、僕の方を見た。僕はルディをじっと見ながら頷いた。
彼の後ろでは、ラリーがむくりと起き上がっていた。ロメロのゾンビ映画には、頭を撃ち抜いて死んでも、ゾンビとして起き上がるパターンがある。撃ちどころが悪いとか、あるのかもしれない。
ラリー《ゾンビ》はルディの肩に手を伸ばす。指先が肩に触れたのと、ルディが振り向かずにラリーのゾンビに拳銃を向けたのは、ほぼ同時のことだった。
「それに」
銃声。
ラリーのゾンビは、衝撃で落ちた左眼を、残った右眼でぼうっと眺めてから、崩れ落ちた。頭には新しい穴が一つ増えていた。
「この場で殺しておいた方が、起き上がったときに駆除しやすいだろう?」
***
ゾンビに噛まれたらゾンビになる。
実のところ、これは正しいようで、完全正解とは言い難い。八十点ぐらいだ。
正しくは死んだらゾンビになるだ。
ゾンビに噛まれると人は死んで。
死んだからゾンビになる。
その二段階をまとめて『噛まれたらゾンビになる』と言っているのだ。
人として死んで。
ゾンビとして死ぬ。
ラリーという知らない彼は、かのようにして二回死んだ。
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