第二章 ゾンビ(1)
目を覚ますと、僕は映画館にいた。
寂れた――崩壊している映画館だ。
目の前には今にも落ちそうな具合に垂れ下がっている、千切れた銀幕。椅子のクッションからは黄色い綿がはみ出している。鼻につくホコリの臭いは、ここが数十年も放置されていたのだろうことを、物語っている。
どうしてそんな映画館にいるのかと言えば、神さまに連れてこられたからである。
僕は神さまに依頼されて、映画を撮るべく『死体が動き回る世界』に連れてこられた。つまるところ、『ゾンビ映画の世界』である。
ボロボロの椅子から腰をあげようとして、左肩に重みがあることに気づいた。
左肩を見てみると、くすんだ金色が目に入った。
「んっ……」
くすんだ金色は、すぅ。すぅ。と寝息をたてていて、なんというか、甘ったるい匂いがした。女の子の匂いだった。僕が体を動かすと、小さく声を漏らした。
というか、アリスだった。
隣の席に座るアリスが僕の肩によりかかっていた。
「わっ」
僕は思わずのけぞろうとして、彼女がまだ眠っていることに気がついた。体の動きを止め、首だけぐんと伸ばして、アリスの顔から距離をとる。
なんで隣に座っているんだ。
なんで隣で寝ているんだ。
なんでよりかかってるんだ!?
映画館で席を取るとき、隣を誰も予約していない席を選ぶ程度にはパーソナルエリアが広い僕である。顔立ちの良い女子が肩によりかかっているなんて、慌てないはずがない。
『おきたか』
声がした。カメラを手に取り、声のした方を見ると、黒い猫がいた。前の席の背もたれに座って、金色の目で、アリスと僕をじっと見ている。
「神さま」
『やくわりを、りかいしたか?』
「まあ、なんとなくは……」
ゾンビ映画の世界で、僕は映画を撮る。ヒロイン――主人公は、僕の隣で眠っているアリスだ。神さまはにゃあ。と猫らしく鳴く。
僕は神さまを撮影するべく、カメラを向ける。しかし、神さまの姿はカメラに映らなかった。あんまりにも黒い毛並みだから、背景と同化してしまったのだろうか。
神さまは前の席の背もたれから、アリスが眠っている席の背もたれまで跳んで移動して、アリスの肩にのった。
神さまはアリスの耳元に顔を寄せて、囁く。僕はアリスにカメラを向ける。神さまの姿はやはり映らなく、僕はアリスの寝顔をなにげなく撮っている人になってしまった。
神さまは僕の方を向くと、人間のように不自然に笑い、その姿は背景に溶け込むように消えた。それと同時に、アリスがぱちり。と目を覚ました。
勢いよく僕の肩から頭を持ち上げた彼女は、まばたきを繰り返してから、僕の方を向く。
「おはよう、アリス」
「聞いてください、江渡木さん!」
アリスは挨拶もなしに、そう言うと、鼻をふんと鳴らした。
「神さまの声が、聞こえました!」
「それって、そんなに興奮すること?」
「なにを言うんですか、江渡木さん!」
ずずい。とアリスは肘置きを乗り越え、僕のテリトリ内に侵入する。僕はのけぞる。
「神さまの声が天上から私に降り注いできたのです。それを奇跡と言わずに、喜ばずになんとするのですか!」
アリスは両手を天高く掲げながら、さながらスポットライトでも浴びているかのように天井を見上げた。彼女の頭の中ではファンファーレが流れてそうだ。本当は、天上から降り注ぐどころか、目の前でこそこそと耳打ちをしていたんだけれども。
「それで」
僕は顔の前に手を添え、これ以上近づかないで。と意思表示しながら尋ねる。
「神さまはなんて?」
「東に向かえと」
「東?」
「東に困っている信者がいるから助けてあげなさいと」
「雨にも負けずみたいな啓示だな」
西には困っている母親がいるのだろうか。
「さあ、こうしてはいられません。神さまが東に向かえとおっしゃるのですから、東に向かわなければならないのです。一刻も早く、東へ向かいましょう!」
さあさあさあ。と我先に立ち上がり、アリスは劇場の出口へと向かう。僕もその後を、荷物をまとめてから慌てて追いかける。パソコン、カメラ、予備バッテリー、太陽光充電器、映画DVDが幾つか。覚えのないゴミも幾つか。それらを詰め込んだバッグ。僕が持っている全てだ。
「そういえば」
ふと思いだしたようにアリスは言う。
「神さまから江渡木さんに言付けがあるのでした」
「なんて?」
アリスは少し困ったように、まるで外来語を聞いたまま、意味も分からぬまま、発音だけをマネているかのように喋る。
「神は映画に映らない。なぜなら神々しさや威厳を損なうからだ。だそうです?」
「…………」
威厳を気にする神さま。
その時点でもう、威厳がない。
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