第一章 ゾンビーランドへようこそ(3)
その日のことを、私は今でも、覚えています。
いつものように、神さまにお祈りを捧げているときのことでした。
お母さんが、ふらふらと私の元にやってきたと思うと、私の手に、噛みついてきたのです。
お母さんは、『死体』になっていたのです。私の悲鳴に駆けつけたお父さんは、お母さんを殺してしまいました。私は悲しくて泣きじゃくったのを覚えています。
お母さんが死んでしまったのもそうですし、このままだと私も、死んでしまうからです。
しかし、私は一向に死ぬことがありませんでした。一週間が過ぎても、一ヶ月が経っても、一年が経過しても。七年の月日が通り過ぎても。
私は『死体』にならなかったのです。
不思議に思っていると、どこからか声が聞こえてきました。
神さまの声でした。
「神さまはこうおっしゃりました。お前には、世界を救う力がある。と」
アリスを劇場の椅子に座らせ、ゾンビに噛まれた腕の手当をしている最中、彼女はそんな風に切りだした。包帯なんてものはなかったので、僕の服を千切って傷跡に巻いた。
劇場の中はボロボロだった。ふかふかだったクッションは穴が空き、中から黄色の綿が飛びだし、腐っている。椅子のほとんどは外れていて、銀幕は誰かが強く引っ張ったかのように引き裂かれていた。足下はうっすらと積もったホコリが敷かれていて、扉の持っ手には、蜘蛛の巣が張っていた。
「神さまはこうもおっしゃりました。『世界を救うために旅に出よ』と。神さまが旅に出よ。と言うのですから、旅に出ないわけにはいきません。神さまがおっしゃることは、正しいのです」
現に。とアリスは僕の方を向く。
「この森に、私を助けてくれる人がいるという神さまの言葉は、正しかったわけですし」
ありがとうございました。とアリスは笑った。
僕は気恥ずかしくて、目をそらした。助けたといっても、本来は間に合っていなかったのだから。
「江渡木さんも、神さまに呼ばれてこちらに?」
「呼ばれて、というか……」
僕は神さまと出会い、この世界に転移させられた経緯を彼女に説明した。
僕は別の世界の住人であること。神さまに映画を撮れと言われたこと。主人公とともに、世界を修復しろと言われたこと。聞き終えたアリスは、おずおずと手をあげた。
「すみません。江渡木さん……『エイガ』とはなんですか?」
「え?」
彼女はキョロキョロと辺りを見回す。
「それに、ここは一体どこなのでしょう。神さまは『しあたぁ』と言っていましたが……神さまのお家ですか? だとすると、神さまは掃除が苦手なのでしょうか?」
「違うよ。ここは映画館」
「エイガ、カン?」
驚いたことに、彼女は映画館を知らなかった。映画館どころか、映画すら知らなかった。
映画を一度も観ずに育つというのは、徹底した情報統制の元ならば可能かもしれない。しかし、映画という存在自体を知らないで育つというのは、難しいものではないだろうか。
僕は千切れている銀幕を前に、アリスに映画とは一体なんであり、いかに素晴らしいものであるかを説明する。彼女は僕の一言一言に感嘆の声をあげて、なにも知らぬ赤子のように目をキラキラと輝かせる。
「なぜポップコーンなのでしょう!」
「どうして部屋を真っ暗にするのですか?」
「その、映画に私も映ったらどうしましょう。少し恥ずかしいですね」
「二時間三時間ずっと座ったままなんですね……あの、その間に、おトイレにいきたくなったら」「我慢だ」「苦行なのですか!?」
彼女の質問に答えることによって、この世界にはポップコーンはあって、時間の感覚は一緒で、トイレもあって、それでも、映画はないらしい。ということが分かった。
映画が存在しない、映画の世界。どうして神さまは、わざわざ映画を世界から消したのだろう。
まさか、この話は『イエスタデイ』みたいな話なのだろうか。
『イエスタデイ』は、ビートルズが存在しない世界に飛んだ主人公が、ビートルズの曲を弾いて人気者になっていく映画だ。映画が存在しない世界で、映画を撮っている僕。この世界の欠陥とは、映画がないことなのだろうか。考えて、否定する。
そもそも、『ゾンビ』なんていう、もっと分かりやすい世界の欠陥があるではないか。
――それに。
神さま曰く、主人公は僕ではなく、彼女だ。
僕は撮影者。小説で言うなら、語り部に過ぎない。
「なるほど、映画というのはかくも素晴らしいものなのですね」
アリスは目をキラキラと輝かせながら、千切れた銀幕を見上げる。
「そう。映画は素晴らしいんだ。そして、僕はその映画を撮れと神さまに言われて、この世界に来た。アリスは、『世界を救う旅に出ろ』だっけ?」
「はい!」
アリスはニコニコと笑いながら頷く。
「私の旅を手助けしてくれる人がいるからここに向かい、そして、『オアシス』に向かえと」
「『オアシス』?」
「はい。江渡木さん、なにか分かりますか?」
「『オアシス』っていうのがなんなのかは分からないけれども」
僕は腕を組む。
「旅にでるタイプのゾンビ映画の最終目的地は、大体『抗体を使ってワクチン開発ができる研究所』、あるいは『ゾンビがいない安全地帯』だな」
この世界はゾンビ映画の世界なのだから、そのどちらかである可能性は、非常に高い。
「ワクチンか安全地帯……」
「神さまは『欠陥のある世界を修復する物語』だと言っていたから、多分前者なんじゃあないかな」
抗体持ちの人間を、ワクチンのつくれる研究所まで連れていく道中の話。ドラマだが、まるで『Zネーション』だ。こちらは、マーフィみたいなおっさんではなく、可愛い女の子であるが。
「すごいですね、江渡木さん。そんなことまで分かるなんて! 神さまが助けてくれるとおっしゃるだけあります!」
「あはは……」
言うなれば映画あるあるを話しただけなのに、そんな風に褒められてしまうと、こそばゆいものがある。
アリスは、ふんすふんす。と鼻を鳴らして、椅子から立ち上がる。
「こうしてはいられません。神さまはきっと私たちが『オアシス』に辿り着くことを、今かいまかと待ちかねているはずです。江渡木さん、さっそく出発しましょう!」
「いや、今日はここで一夜を過ごそう」
「どうしてですか?」
「外にまだゾンビがいるし、森の中を歩いていて、夜になったら大変だ。そうだろう?」
アリスは不服そうに唇を尖らせてから、僕の目をじっと見据えてきた。
「な、なに……?」
「江渡木さんのいた世界では、『死体』をゾンビと呼ぶのですか?」
「え?」
「いえ、先ほどからずっと『死体』をゾンビ、ゾンビと呼んでいるので……」
そりゃあ、動く死体と言えばゾンビであり、いま現在、ミニシアターの外をうろうろしているであろうあれは、どこからどう見てもゾンビだろう。
まさか、映画だけでなく、この世界にはゾンビも存在しないのか? と考えたあたりで。
「あ」
と気づく。ゾンビは、映画由来であることを。
『映画』がないということは、ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』も『ゾンビ』も『死霊のえじき』もないわけで、ゾンビ三部作がないということは、『人肉を喰らい、うごめく死体』という、ゾンビ概念も存在しないということだ。
ゾンビという概念が存在しないけど、この世界はゾンビ映画の世界で、動く死体が存在する。つまり、映画がこの世界に存在しない理由って。
「メタ要素の排除か」
まるで、ゾンビ映画みたいだ。みたいな。
どうやら神さまは、そういったものが嫌いなようだ。僕は好きだけどね、メタ要素。
僕は持ってきていたバッグの中をまさぐり、中からいくつかDVDをとりだす。それは、僕の好きな幾つかの映画だった。今日の持ち込みで、お守りのように持ち合わせていたのだ。
『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』
『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』
『ゾンビ』
『ウォーム・ボディーズ』
『アルカディア』
『ティム・バートンのコープスブライド』
『オレの獲物はビンラディン』
『ミッドサマー』
『天気の子』
『ゾンビランド』
『リトルショップ・オブ・ホラーズ』
僕は『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』を手に取り、パッケージに写っているゾンビを指さす。
「これがゾンビ」
「『死体』ではないのですか?」
「死体ではある。でも、僕のいた世界では、死体が動かないのが普通で、動くのは映画の中だけだから、『ゾンビ』っていう固有名称がある」
アリスは不思議そうに首を傾げた。
それはそうだろう。自分たちの世界では常識であることが、他の世界からやってきた人間に『そんなこと現実では起きてないけど、映画ではよく観るね』なんて言われたら、混乱してしまうだろう。どう説明したものか……。僕はしばらく悩んでから、パッケージを指さしながら言った。
「……映画、観てみる?」
アリスは僕に顔を寄せながら、キラキラと目を輝かせた。
「観たいです!」
そういうことになった。僕は持ち合わせていたパソコンで映画を流す。
「本当は、デカいスクリーンで観た方が楽しいんだけどね」
パソコンの前に座っているアリスを待たせぬよう、再生ボタンを押す。
「あ。すごいです。こんなにたくさんの人が集まってます。ここは大きなコミュニティなのですか?」
「コミュニティ?」
「共同体のことです。一緒に住んでいる人たち。いわゆる街のようなものです」
「なるほど。そこに映ってるのは学校だよ。街じゃあない」
「学校? 学校にこんなにたくさん人がいるんですか? 信じられません」
アリスは矢継ぎ早に映画の感想を口にする。
「グライダーで空を飛びながら日本刀を振り回してます! なんですかこの人!?」
「とても素敵な音楽ですね。森もすごく綺麗です」
「な、なんですかあの檻に入っている熊は」「ただの熊だよ」
「『死体』……じゃなくて、ゾンビが映ってます」
「すごく不思議な気持ちです」
「まるで、私たちの世界を盗撮されているような。そんな気持ちです」
「江渡木さん。本当にそちらの世界には、ゾンビはいなかったのですか?」
「あ、この人。エドキさんと同じように、映画を撮ろうとしてますよ」
「どうしてこの方はガラクタをガムテープで繋ぎ合わせたような武器で戦ってるんです!?」
「結婚式! 花嫁! 素敵な恋物語の予感がします!」
「猫が……」
「神さまです! 神さまが映っています!」
「これはなんですか? とっても大きいです……」
「え、船なんですかこれ。ビックリです」
「私、海を見たことがないんです」
「ゾンビが外を歩いてますから。人はコミュニティをつくって、閉じこもるように生きてるんです」
「外を歩き回っている人はとても珍しいんです」
「だから、実は、初めての旅なんです。今回が」
「こんなこと言うと、神さまに怒られちゃうかもしれませんけど、私、ワクワクしてるんです」
「外に出て、旅をするって楽しそうじゃあないですか」
アリスは僕の持ってきていた映画を全部観ようと言わんばかりに、終われば次へ。終われば次へと再生していき、ワンシーンワンシーンに驚いたり、笑ったり、泣いたり、不思議そうにしたり、懐かしんだり、思いを馳せたりしている。合間合間に感想を言い合いながらの休憩を挟みながら、ずっと映画を観続けた。
映画を初めて観る彼女の一喜一憂を眺めるのはとても楽しかったけれども、思っていたよりも、疲れが嵩んでいたらしい。いつしかまぶたが重たくなって、もう一度開いたときには、明るかった外が、真っ暗になっていた。
頭の下が柔らかい。見てみると、クッションが敷いてあって、映画館に備え付けられている、冷え性の人に渡す用の小さな毛布が、僕の体の上に覆い被さっていた。
眼鏡は地面に置いてあった。ぼやけた視界で毛布をどかして、眼鏡をかけてから、辺りの様子を見る。アリスはまだ映画を観ていた。
「……ごめん、寝てたみたいだ」
はてさて。一体全体、彼女はなんの映画を観ているのだろうか。
僕は映画を映している画面を、彼女の肩越しに覗きこむ。それは、どの映画よりも予算がかかってなさそうで、どの映画よりも映像がチープで、どの映画よりも明らかに技量が足りておらず、どの映画よりもセンスの欠片も感じられないもので、撮ったやつの厚顔を見てみたいものだと思える出来で、その面を見ようと思うなら、鏡を見るのが手っ取り早いのではないかというか、つまるところ、僕の映画だった。
「うわああっ!」
僕は思わず声をあげた。アリスはびっくりしたように、肩を持ち上げる。
「わ、わ。おはようございます。江渡木さん」
「わあああああああ!」
「そちらの世界の挨拶ですか?」
「いや、ただの悲痛の声……」
名作の映画を観たあとだと、さらに自分のダメさが引き立って、浮き彫りになって、泣きたくなる。映画はエンドロールを流し始めた。最後の最後まで観られてしまったらしい。僕は映画を流しているパソコンを奪取する。画面が目の前から消えて、アリスは小さく声をあげた。
「ごめんよ。どうやら僕の映画も混ざってたみたいだ。変なの観せちゃったね」
「え。今の映画。江渡木さんが撮ったのですか?」
アリスの声は震えていた。正直、顔を見るのもできなかった。
彼女が一体、どんな面持ちで僕の映画を観てしまったのか、知りたくなかった。
――犬の糞を眺めている方が面白い。
――次は面白い映画をつくってきてね。
今まで言われてきた感想が、頭の中でフラッシュバックする。
すぅ。と息を吸う音。アリスがなにかを言おうとしている。耳をふさごうと思ったが、間に合わない。
「すっごく面白かったです!」
果たして。アリスは、思ってもみなかった感想を、喜々とした声色で言った。……面白かった?
「僕の映画が?」僕は尋ねる。
「はい!」彼女は答える。
「確かに今まで観てきた映画と比べると、映像がとっても安っぽかったですし、話もよく分からなくて、なにがしたいのかさっぱり理解できませんでしたけど……」
「人はそれを面白くないって言うんだよ」
「でも、最後には幸せになっていました」
「幸せ?」
「はい。どんな状況でも、どんなことになってしまっても、最後には皆が幸せになっていたところが、私。とても嬉しかったのです!」
作劇無視の、ご都合的なまでのハッピーエンド主義。それは、僕の映画に何度も言われてきた罵倒であった。説得力の無い、綺麗事。それを彼女は、むしろ喜んでくれているようだった。
「なんで」
「どうしてと言われましても……幸せになることは、悪いことですか?」
それに。とアリスは言う。
「私は江渡木さんの映画が面白いと思いました。なのに、江渡木さんはそれを嘘だと言うのですか?」
酷いです。とアリスは、すねたように唇を尖らせる。
けれども眉は楽しそうにつり上がっていたので、冗談なのだろう。ということはすぐに分かった。
彼女は本当に、面白かったと思ってくれているのだと分かった。気づいたときには、僕は、彼女の手を両手で掴んでいた。少し驚いたような表情の彼女に、僕は思ったことをそのまま、口にする。
「一目惚れした!」
「ほれっ!?」
神さまに選ばれた彼女に。
初めての旅にワクワクしている彼女に。
僕の映画を面白いと言ってくれた彼女に。
誰かが幸せになることを純粋なまでに喜びを得ている彼女に。
僕は、一目惚れをした。
呆然としていた彼女の顔が、少しずつ赤くなっていく。
構わず、僕は言った。
「だから、きみが
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