第3話 魔女の休日
3ー1
光の届かない海の底。視界を閉ざす暗闇の中で、黄緑色に発光する2つの物体があった。それは何かの液体のようで、人が入れそうなほど巨大な鍋の中でぐつぐつと煮え立っている。鍋の前には黒いローブを着込んだ小柄な人物が立ち、木の棒で液体を一心不乱にかき混ぜている。フードの下からは大きな鉤鼻と皺だらけの浅い肌が覗き、ぎょろりとひんむいた目はまるで深海魚のようだ。
「あー……ダメ、もう疲れた」
魔女の横から別の声がした。魔女から1メートルほど離れたところにもう1つ鍋があり、同じように黄緑色の液体が煮立っている。
その前で、鍋に入れた木の棒に寄りかかるようにして立っている少女の姿があった。暗闇に似つかわしくない金髪をポニーテールにし、黒いタートルネックのぴったりとしたミニスカートのワンピースに、同じく黒いロングブーツを合わせている。目尻が吊り上がった青い瞳が気の強そうな印象を与えるが、今はその顔には気だるげな表情が浮かんでいる。
彼女の名はサラ。やはり魔女だがまだ見習いで、先ほどの老婆の下で修行中の身だ。見た目の年齢は15歳くらいに見えるが、何しろ魔女だ。実際には100歳を超えていたとしてもおかしくはない。
「……何だい、根性がないねぇ。これくらいで根を上げてちゃあ、到底一人前にはなれないよ」老婆が手を止めずに言った。
「だって疲れたんだもん。さっきから2時間くらいずーっと手動かしてるんだよ?」サラが唇を尖らせた。
「2時間なんざ序の口さ。あと8時間は混ぜ続けないと効果が消えるんだからね」
「えー!嘘!」
サラが目を剥いて大声を上げた。魔女がうるさそうに彼女の方を見やる。
「…大きな声を出すんじゃないよ。唾が薬に入るじゃないか」
「だって聞いてないし!そういう大事なことは最初に言ってよね!」
「もちろん言ったさ。だけどあんたの方が聞いてなかったんじゃないか。何でもいいからやってみたいの一点張りでね」
サラはむくれた顔をして口を噤んだ。老婆の言ったとおりだったので何も言い返せなかったのだ。
「…さて、あたしは少し休むとするかね」
老婆はそう言うと、節くれだった右手を木の棒から外し、爪の伸びた指をぱちんと鳴らした。次いで左手を離したが、木の棒は主がいなくなっても独りで鍋をかき混ぜ続けていた。
「えー、何それずるい! あたしにもやってよ!」サラが叫んだ。
「あんたはまだ見習いだろう?最初から楽を覚えてどうするんだね」
老婆は呆れたように言うと、木の棒に調合を任せて鍋から離れた。そのまま鍋の横に並べてある小瓶の方に近づいていくと、その一つを手に取った。中には黄色い液体が入っている。
「あたしはちょっくら散歩してくるが、あんたは休むんじゃないよ。薬の状態を見りゃあ、怠けたかどうかはすぐにわかるんだからね」
老婆はそう釘を差すと、小瓶の中の液体を口に含んだ。たちまち手の先から老婆の姿が消えていき、ついには完全にその姿を消した。老婆の手があった場所から小瓶が落ち、海底の砂に刺さる。空間転移の薬だ。一口飲めば、どんなに遠い場所でも一瞬で行くことができる。サラはその薬の作り方を教えてほしいと熱心に頼んだのだが、老婆は決して首を縦に振ろうとはしなかった。
「……何よ、バァさんのけちんぼ」
サラは忌々しそうに魔女の消えた暗闇を睨みつけた。数年前、世に稀に見る高名な魔女だと聞いてあの老婆に弟子入りしたが、老婆は自分をこき使うばかりで一向に魔法を教えてくれる気配がない。早く魔法を使えるようになって煌びやかな生活を送りたいのに、自分はいつまでこんな暗闇に閉じ込められていなければならないのだろう。
「……あーあ、何か面白いことないかな」
サラは木の棒に両手を置いてその上に顎を乗せた。深海での生活は実に退屈なものだ。老婆以外の話し相手といえば深海魚ぐらいだが、あいつらは不細工な上に無口だから話していてもつまらない。もっと上の方まで行けば海の色は鮮やかなものとなり、美しい魚が泳いでいるとも聞くが、自分がそこまで行くことは禁止されている。
(そう言えば……海の上にはどんな世界があるんだろう)
サラは深海で生まれ育ったから、海の上の世界のことはまるで知らない。一度老婆にそれとなく聞いてみたところ、海の上には“ニンゲン”という生き物が住んでいるのだと教えてくれた。
“ニンゲン”の見た目はサラや老婆と変わりないが、魔法は使えず、その代わりに色々な知恵を用いて文明を発達させてきたとのことだった。サラは“ニンゲン”の存在にひどく興味を持ち、さらに話を聞きたいと思ったが、老婆は冷たくこう言い放っただけだった。
「“ニンゲン”はあたし達とは決して理解し合えない存在。知らない方があんたの身のためさ」
そう言われるとますます興味が湧いたが、老婆の機嫌を損ねて魔法を教えてもらえなくなっても困るので、それ以上は聞けなかった。
だが、サラの“ニンゲン”への興味は尽きることなく、いつも1人であれこれと想像しては楽しんでいた。いつかこの目で“ニンゲン”の世界を見たい――。長年にわたって抱き続けてきたその願望が、急にむくむくと頭をもたげてきた。
サラは木の棒から手を離すと、老婆が残していった小瓶の方に近づいていった。しゃがみ込んで拾い上げ、とっくりと眺める。
(バァさん、しばらく帰って来ないだろうし……ちょっとくらいいいよね)
サラは自分に言い聞かせるように言うと、こっそりと辺りを見回し、小瓶の中の液体を口に含んだ。
たちまち痺れるような感覚が全身に走ったが、それも一瞬のこと。小瓶は再び砂に突き刺さり、泡だけが暗闇に残された。
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