2ー4
「それから数年が経ち……旦那様はお仕事で多忙を極められるようになり、会社近くにマンションを借りて単身生活を始められました。以前の屋敷は引き払い、奥様と私どもはこの別荘に引っ越して参りました。坊ちゃまがお生まれになったのはそれから半年ほど後だったでしょうか。私は何度もおしめを変えさせていただきましたが、そのたびに、目に入れても痛くないほどの可愛らしさだと感じたものです」
「……そうなのか」
麗二は赤面した。赤子の頃とはいえ、自分が鳩崎に世話をされていたことを思うと恥ずかしくなったのだ。
「後は坊ちゃまもご存知のとおりです。旦那様にお仕えして早30年……様々な出来事がありましたが、この屋敷に参ったことを後悔したことは一度もございません。旦那様は、絶望の淵にあった私を救ってくださった……。夢破れ、友に裏切られ、傷心していた私に、人の温かさを教えてくださったのです。奥様はお亡くなりになり、旦那様も、こちらに戻ってこられる機会はめっきり減ってしまいましたが……それでも私の忠誠心が揺らいだわけではございません」
鳩崎はそこで麗二をまっすぐに見つめた。糸のように細い目の奥に、真摯な光が宿る。
「私はこの身が果てる時まで、旦那様と坊ちゃまにお仕えする所存でございます。ですから、坊ちゃま……。もし何かお困り事が生じた時には、この鳩崎を思い出していただきたいのです。あなたに何があろうと、鳩崎は決してあなたの傍を離れません。あなたをお守りするためなら、この老体など、少しも惜しくはございません。
坊ちゃま……私にとってあなたは、肉親以上にかけがえのない存在なのですよ」
「鳩崎……」
麗二は目頭が熱くなってきた。自分が生まれてから23年間、この男は実に忠実に仕えてくれていた。それは鳩崎の謹厳実直な性格が成せる業だと思っていたが、実際にはそれだけではなかった。鳩崎の過去を知り、彼が受けた失意と悲傷、そしてそこからの再生を目の当たりにしたことで、麗二は改めて、この鳩崎という男に宿る覚悟がいかに強固なものかを感じ取ったのだった。
「……少し、風に当たりたくなってきたな。散歩に行っても構わないだろうか?」
不意に麗二が呟いた。目を細め、窓の外に広がる白い砂浜を見つめる。
「もちろんでございます。紅茶のお代わりを用意してお待ち申し上げております」
鳩崎が微笑んだが、麗二はまだ何か言いたそうに椅子の上で身体をもぞもぞさせていた。
「……お茶もいいが、できればお前にも一緒に来てもらいたいんだ。浜辺を散歩しながら、お前の話の続きを聞きたい。僕にはまだ知らないことがたくさんある。昔の父さんや母さんの話……この屋敷に来てからのお前の話……。
僕は知りたいんだ。お前がこの30年間で見てきたものを……一緒に感じたいんだ」
鳩崎が細い目を微かに見開いた。しばらくまじまじと麗二の顔を見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。
「ええ、坊ちゃまがお望みとあれば、どこまでもお供いたします。私は坊ちゃまの執事でございますから」
淡黄色のカーテンの合間から再び吹き込んだ風が、2人の間を吹き抜ける。
風と共に届いた波の音は、かつて鳩崎が耳にしたものよりも、ずっと優しく響いていた。
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