2ー3
「…そんな日々が半年ほど続いた後、私はとうとう家賃が払えなくなり、居住していたアパートを追い出されました。両親の元に帰ろうかとも思いましたが、2人は私の起業には反対しておりましたから、凋落した姿を見られることにはどうにも恥ずかしいものがありました。だから実家に戻る気もせず、行く当てもなく放浪していたのです。
……そこで辿り着いたのがこの海でした。その日はすでに夜を迎えており、海に人気はありませんでした。今と同じように、打ち寄せる波の音だけが耳に心地良く響き……その音を聞いているうちに私は思ったのです。海が呼んでいる、と。
私は無意識のうちに海に近づいていきました。擦り切れた靴に触れた水の冷たさを感じた瞬間、私は悟りました。ようやく解放されるのだ……と」
「鳩崎……」
麗二は顔を歪めた。何と言葉をかければよいのか、わからなかった。
「私は水の中に身を横たえようとしました。しかしその時、背後から私の腕を掴んで引き起こした者がおりました。それは背の高い中年の男性で、一目で上等とわかる背広を着込んでおりました」
その言葉で麗二はぴんときた。まじまじと鳩崎の顔を見返す。
「…まさか、その男は……」
「ええ、坊ちゃまのお父上、
彼は私に言いました。『早まったことをするな。』……と。そこで私は、ようやく自分が成そうとしていることの愚かさに気づきました。あの時、旦那様が声をかけてくださっていなければ……」
鳩崎はゆるゆると頭を降った。麗二は信じられない思いでその話を聞いていた。父と鳩崎との出会いがこんな形で起こっていたなんて、あまりにも衝撃的だった。
「旦那様は私を別荘に連れて行き、そこで暖と食事を取らせてくださいました。その時はまだ奥様……
「その後、旦那様と奥様は私の身の上を聞いてくださいました。お2人ともたいそう同情してくださり……自分達の下で住み込みで働かないかと声をかけてくださったのです。
大変ありがたいお申し出ではありましたが、親類でもないお2人にこれ以上ご迷惑をおかけするわけにはいかないと思い、最初は辞去したのです。ですが、お2人は熱心に仕事を勧められました。当時は今ほど使用人がおらず、人手が足りないのだとおっしゃって……。私も他に身を寄せる場所があるわけではございませんから、最後にはご厚意に甘えることにしたのです」
「そういえば、借金はどうなったんだ?」麗二が思い出して尋ねた。
「旦那様が自己破産の手続きを進めてくださったので、返済の必要はなくなりました。本当に何から何までお世話になり……感謝という言葉ではとても言い尽くせません。
ですから、私は決めたのです。何があっても、必ずごの御恩に報いようと」鳩崎が重々しく言った。
「旦那様の休養が終わった後、私はこの別荘を離れて邸宅へと移り、身を粉にして働きました。最初は清掃の仕事から始まり、そのうちに調理や給仕、旦那様の会社への送迎など、実に様々な仕事を任せていただけるようになりました。ホテルマン時代の経験が生きたのでしょう。旦那様は私の働きぶりを評価してくださり、奥様も、私が来てから家の中が快適になったと喜んでくださいました。
そんなお2人の姿を拝見し、私はますます懸命に働くようになりました。どれほど多くの労働も、お2人のためだと思えば苦になることはございませんでした」鳩崎が胸を張った。
「それから5年ほどが経った後、旦那様は私を執事にしたいとおっしゃいました。その時は使用人の数も増えてきておりましたから、誰か統率する者が必要だと考えられたのでしょう。
最初にそのお話を伺った時、私は自分の耳が信じられませんでした。執事は一介の使用人とは立場を異にする存在。主人や屋敷について熟知した上で、屋敷や使用人を管理することが求められます。誰にでもできる仕事ではございません。そのような重大な仕事を、この私に任せていただけると……。私は歓喜に打ち震える思いがしました。必ずや、この御恩に報いよう……改めてそう決意したことを覚えております」
鳩崎が深々と息を吐き出した。その顔に浮かんだ光栄は、執事を拝命した当時から変わらぬ彼の矜持を体現しているように思えた。
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