第2話 執事の思い出

2ー1

 朝日と共に窓から吹き込んだ風が、淡黄色のカーテンをふわりと揺らす。


 白妙の壁に囲まれた高瀬川たかせがわ家の食卓で、麗二れいじは食後の紅茶を口に運びながら、カーテンの向こうに見える紺碧の海を見つめていた。


 食器の音が止んだ静謐な室内に、寄せては返す波の音が響く。波の音に混じって、海上を舞うカモメの鳴き声も時折聞こえてくる。麗二はカップを片手にしたまま目を閉じ、海の声に耳を傾けていた。


 元々は父親の別荘として所有していたこの屋敷に、一家が移住してきたのは麗二が生まれる前のことだ。

 会社通いにはいささか不便だが、こうして海の声を聞いていると日常の悩みが些末なことのように思えてくる。事業で手痛い損失を被った時も、役員会議が紛糾した時も、屋敷に戻って海の声に耳を傾けてさえいれば疲労を忘れ、傷心を慰めることができた。だから麗二は、この場所を離れて都心に移住しようなどとはついぞ考えたことがなかった。


「本日は大変お天気がよろしゅうございますね」


 横から声がして麗二は振り返った。黒い燕尾服に白い手袋を合わせた老齢の男が、置物のように壁の前に立っている。この屋敷の執事である鳩崎はとざきだ。父親の代からこの屋敷に仕えており、屋敷の使用人の中では一番の古株と言えた。執事らしく気配りの行き届いた性格で、いつも影のように麗二に付き従っては、彼が助けを求めた時にはすぐさま手を差し伸べてくれる。その物腰の柔らかさと口の堅さから相談を受けることも多く、使用人に困り事が生じた時には彼の元へ駆けつけることが常だった。


 かくいう麗二も、会社経営で迷った時などには鳩崎に相談を持ちかけることがあった。鳩崎は麗二の話を親身になって聞き、麗二の考えが正しいと思える時には背中を押し、間違っている思える時には丁重な言葉でそれを正した。使用人という立場であっても媚びへつらうことなく、あくまで公正さを保とうとする鳩崎の姿勢に麗二は敬意を払い、屋敷中の誰よりも信頼を置いていた。


「時間がおありでしたら、浜辺を散歩されてはいかがでしょうか? 朝日を浴びながら歩くのは気持ちがよろしゅうございますよ」


 鳩崎が言った。窓の外には雲一つない蒼穹が広がり、白い砂浜を太陽が燦々と照らしている。確かにいい気分転換にはなるだろう。仕事は休みだから時間を気にすることもない。


「そうだな……。ただ、今はどちらかと言うと話をしたい気分なんだ。一人きりで浜辺を歩いていても、たまに虚しくなる時があってね」


 麗二が苦笑して言った。母が生きていた頃は、母の手を引いて2人で浜辺を歩いたこともあった。母は体力がなく、少し歩くとすぐに疲れて座り込んでしまったため、結局麗二が1人で砂浜を駆け回ることも多かったのだが。


「そうだ、鳩崎。お前の話を聞かせてくれないか?」


 麗二が急に思いついて言った。鳩崎が細い目を僅かに見開いて麗二を見返した。


「私の、ですか?」

「ああ。考えてみれば、僕はお前のことをあまり知らない。この屋敷に来る前、どこで何をしていたのか少し気になってね」


 麗二は軽い調子で言ったが、そこで不意に真顔になった。さっきまで穏やかな笑みを湛えていたはずの鳩崎の表情が曇っていたからだ。


「……どうした? 何か思い出したくないことなのか? もしそうなら、無理に話さなくても……」麗二が慌てて言った。


「いいえ、いいのです。私も、いずれは坊ちゃまにお話せねばならないと考えておりましたから。」


 鳩崎はそう言うと、しゃんと背筋を伸ばし、改まった口調で話し始めた。

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