1ー4

 食事を済ませて社に戻ると13時半を回っていた。細谷の机には、午前中に減らしたはずの稟議書が倍になって置かれている。細谷は特に驚きもせずに机に向かうと、眼鏡をかけてそれらを吟味しはじめた。百合も自分のデスクに戻り、スリープモードになっていたパソコンを起動する。新着メールが35件。社長にも秘書にも安息の時はない。


 やがて15時を迎え、細谷は書類を片手に会議室へと向かった。役員会議には秘書の出番はない。百合は黙々とパソコンに向かいながら時間を過ごした。書類の作成に外線対応など、仕事はいくらでもあるので暇を持て余すことはないが、だだっ広い社長室に1人でいるとふと寂しくなることがある。早く役員会議が終わらないだろうか、とつい何度も壁の時計を気にしてしまった。


 2時間ほど経ったところで細谷は戻ってきた。心なしか、難しい顔をしているように見えたので百合は声をかけた。


「お疲れ様でした。いかがでしたか?」

「あぁ……精密機械部門の売上が先月よりも大幅に落ちてるみたいでね。競合他社が増えてる影響なんだろう。さて、どう対策を取ったものか……」


 細谷は独り言のように言うと、顎に手を当てながらデスクへと戻っていった。気がかりな案件があると細谷はいつもこうなる。仕事のことで頭がいっぱいになり、傍に他の人間がいることすら忘れてしまうのだ。伯父様そっくり、と百合は心の中で苦笑した。


 その後1時間ほど事務作業を続けたところで終業を知らせるチャイムが鳴った。いつもなら百合は19時頃までは残るのだが、今日は友人と会う約束をしているので、早めの退社を告げるために細谷のデスクへと向かった。


「社長、申し訳ありませんが、今日はこれで失礼させていただいてもよろしいでしょうか? 所要がありまして」


 細谷が稟議書から顔を上げた。よほど集中していたのか、話しかけられたことにもしばらく気づかなかったようだ。


「ん? あぁ、もうそんな時間か。いいよ、僕はまだいるけど、気にせず帰って」


 細谷は再び稟議書に視線を落とした。細谷は毎日22時頃まで会社に残っていると聞く。社長ともなれば当然なのかもしれないが、百合は彼の生活が時折心配になることがあった。


「ありがとうございます。それでは失礼いたします」


 百合は深々と頭を下げると、自分のデスクに戻ってパソコンをシャットアウトした。細谷の邪魔にならないよう、鞄を下げて足早に退出しようとする。


「あ……そうだ、汐ノ宮君」


 細谷が急に声をかけてきた。百合はICカードをドア横にある機械に翳そうとしていたが、すぐに手を止めて振り返った。


「はい、何でしょうか?」


 細谷は書類を机に置いて椅子に座り直した。眼鏡の縁をいじり、落ち着かなさそうに視線を彷徨わせる。百合は不思議そうに首を傾げた。


「えーと……その、明日の夜の予定はどうなってたかな?」細谷が歯切れの悪い口調で尋ねてきた。


「明日の夜ですか? 特に会食の予定は入っておりませんが」


「うん、それはわかってるんだ。そうじゃなくて、その……君のプライベートの予定なんだけど」


「あたしの?」


 思わず素になって聞き返してしまった。細谷はばつが悪そうに頷く。


「うん。汐ノ宮君にはいつも世話になってなるし、よかったら食事でもどうかなと思ったんだけど……。あ、もちろん業務じゃないから、断ってくれてもいいんだよ」


 百合はまじまじと細谷を見つめた。他社の社長との会食に同行することはよくあるが、プライベートで誘われたのは初めてだ。細谷はそわそわと椅子に何度も座り直している。これ、もしかして彼なりのアプローチ?


 百合は頭の中で明日のスケジュールを確認した。明日は特に予定はない。いつも通り仕事をして帰宅するだけだ。だから彼の誘いを受けるだけの余裕はある。もちろん、時間外にまで社長に付き合うのは秘書の仕事ではない。でも――。


「ええ、喜んでお供いたしますわ」


 百合はにっこり笑って言った。細谷が安堵しように相好を崩す。そんな表情が可笑しくて、百合もまた笑みを漏らした。もしかしたら、細谷に再婚の影が見えなかったのはこれが理由だったのかもしれない。そんな都合のいいことを考えもした。


 でもいいわよね。だってあたしは秘書。長い時間一緒にいる分、距離は必然的に近くなる。今までは単なるボスと秘書という関係だったけれど、願わくばその関係を超えて、仕事以外でも彼を支えられるようになりたい。


 秘書ではなく、彼のパートナーとして。

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