1ー3

 それから約1時間後、百合と細谷はタクシーでK社へと向かった。受付で名前を告げると社長室に案内される。相手方もすでに秘書を従えて待っていた。


 K社の社長は50歳は過ぎていそうな男で、でっぷりとした身体を黒いスーツで包み、白いシャツに紺のネクタイを合わせていた。一見して地味な格好。一方の細谷はというと、痩身にフィットした薄いグレーのスーツに水色のYシャツを合わせ、深緑のネクタイを緩みなく締めている。一見してスマート。男性でも服のセンスは大切だ、と百合はしみじみ感じた。


「やぁどうも。遠いところをご苦労様です。私はK社代表の峰岸みねぎしと申します。こちらは秘書の岩崎いわさきです」


 峰岸が巨体を椅子から持ち上げて言った。隣にいた秘書がぴょこんと頭を下げる。30代くらいの痩せぎすの青年だ。今は男性の秘書も珍しくないが、目の前の彼はまだ秘書の仕事に慣れていないように見えた。どこかおどおどして、こちらを伺うような視線を向けている。

 そんな岩崎を見て百合は内心でダメ出しをした。ほら、もっと堂々としないと。秘書は会社の顔も同じなんだからね。


「こちらこそ、本日はお時間を頂戴しましてありがとうございます。私は細谷商事代表取締役の細谷と申します。こちらは秘書の汐ノ宮です」


 細谷が慇懃に挨拶をした。百合も岩崎へのダメ出しを止め、特上の微笑みを峰岸と岩崎に向けると、きっちりと腰を折って挨拶した。


「はぁ、これはまた随分お美しい方ですな。こんな方と1日中一緒にいられるとは、羨ましい限りです」


 峰岸が感嘆の息を漏らしながら言った。岩崎は初恋をした男子中学生のように顔を赤らめている。初対面の相手に見とれられるのは珍しいことではない。百合はあくまで控え目に微笑みながら、「ありがとうございます」とだけ言った。岩崎がまた顔を赤らめる。


「汐ノ宮君は秘書としても優秀なんです。彼女がいなかったら私は何も出来ませんよ」


 細谷が人の良さそうな笑みを浮かべて言った。その発言に笑いが起こり、緊張が解されていく。だが、そんなことよりも百合が気になったのは、細谷も自分を綺麗だと思ってくれているかどうかだった。


「まぁ立ち話もなんですから、どうぞこちらへ。今日は弊社製品の新規販売先の話でしたな?」峰岸が革張りのソファーを勧めながら言った。


「はい。貴社製品の需要が見込まれる市場がございますので、ぜひご検討いただきたいと思いまして」


 細谷が熱っぽく言った。さっきまでの腰の低さとは一転して経営者の顔になる。いい意味での変わり身の早さがまた頼もしい。


 百合は細谷と並んでソファーに腰掛けると、鞄から素早く書類を取り出して細谷に渡した。岩崎がお茶を入れた後、峰岸の隣に腰掛ける。細谷はお茶に手をつけるのも忘れて、新規販売先について熱を込めて語った。

 百合はその姿を見るたび、この人は本当に仕事が好きなんだと感心していた。前の妻は、細谷の仕事漬けなところに嫌気が差して別れたらしいが、百合は彼のそういう情熱的でひたむきなところが好きだった。


 その後、1時間半ほどで商談はまとまり、百合達はK社を辞去した。タクシーを捕まえて自社まで戻ってくると時刻は13時前になっていた。近くのレストランに入って昼食を済ませることにした。


「峰岸社長、満足されたようですね」


 ランチセットの注文を済ませたところで、お冷やのグラスを傾けながら百合は言った。グラスの縁にルージュがついたので、指先でそっと拭き取る。


「あぁ、新規開拓で現状の2倍の売上が見込める。リスクはあるが、当たれば大きいと思うよ」


 細谷が早くもスーツにナプキンをセットしながら言った。大事なスーツを汚したくないのだろう。


「いやでも、汐ノ宮君が用意してくれた資料があって助かったよ。データがあるのとないのとでは説得力が違うからね」


 細谷が言った。今日の商談では、細谷は文字の資料だけを使うつもりだったのだが、百合が提案して資料を追加させたのだ。多忙な経営者の心を掴むためには、文字で長々と説明するよりも、グラフやデータで示す方が効果的だと百合は経験則から知っていた。


「はい。次回以降もご用意しますので、必要とあればいつでもお申し出ください」百合がにこやかに言った。


「いやぁ助かるよ。本当、僕は優秀な秘書を持てて幸せだなぁ」


 細谷は後頭部に手を当てて笑った。百合は膝の上に手を置いて笑みを浮かべていたが、なぜかふと寂しさを感じた。優秀な秘書という言葉に引っかかりを覚えたのだ。


 確かに百合は優秀な秘書を目指していたし、実際に優秀だという自負もあった。だが、細谷と行動を共にしているうちに、百合は自分が彼に対し、単なる仕事相手以上の感情を抱いていることに気づいていた。だから、細谷が百合のことをただの秘書のように扱うと、何か物足りなさを覚えてしまうのだ。


 ただ、百合は自分から細谷との関係を詰めようとは思っていなかった。

 彼が自分に秘書である以上のことを求めていないのなら、差し出がましい真似をするべきではない。あたしは彼の秘書なのだ。自分の存在で彼の頭を煩わせるようなことがあってはならない。

 それでも、今は待つ人のいない家に帰る細谷のことを思うと、百合は家庭でも彼をサポートできたらどんなにいいだろう、と思わずにはいられないのだった。


 そんなことを考えている間にランチセットが運ばれてきた。百合はベジタブルプレート、細谷はオムライスプレート。綺麗に盛られたオムライスを見て、細谷は子どもみたいに顔を綻ばせている。百合は目を細めて細谷を見つめながら、もし自分がオムライスを作ってあげたら、彼は喜んでくれるだろうか、なんてことを考えた。

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