1ー2
午前8時、社長室に入り、自分のデスクに鞄を下ろしたところで百合は業務を開始した。といっても直ちにパソコンに向かうわけではない。まずやるべきは清掃だ。社長が仕事をしやすい環境を整えるのも秘書の仕事だ。観葉植物への水やりからデスク周りの拭き掃除、書類の整理整頓などやるべきことはたくさんある。特に百合の社長は片づけが苦手な人で、デスクの上で書類が乱雑に放置されいることも多かった。だから書類1つ1つを検分し、必要なものはファイリングし、不要なものはシュレッダーにかけるのが百合の日課になっていた。気分は子どもの部屋を片づける母親だ。
一通り清掃を済ませると8時30分になっていた。百合は自分のデスクに戻り、パソコンの電源をONにした。パソコンが立ち上がるのを待ち、メールのチェックを開始する。社長ともなれば日々100通以上のメールが来ることも珍しくないが、当然その全てに目を通している時間はない。だからこそ秘書がメールを振り分ける作業が重要になる。今日届いていたのは50件ほどで、大半がリマインドや通知だったが、たまに重要なメールが紛れ込んでいるので油断はならない。百合は目を皿のようにして、片っ端から目を通していった。
そうしているうちに廊下から足音が聞こえ、ICカードを機械に翳す音がした。百合は作業の手を止めて腕時計に視線を落とした。時刻は9時。どうやら主のお出ましのようだ。百合は立ち上がって臍の前で両手を揃えた。社長を気持ちよく出迎えるのも秘書の仕事だ。スライド式のドアが開いたのを見計らい、口角を上げて明瞭な声で告げる。
「社長、おはようございます」
「あぁ汐ノ宮君、おはよう。今日も早いね」
入ってきた社長が朗らかに笑った。彼の名前は
「あぁ、机の上片づけてくれたんだね。あの書類どこにやったかと思って心配してたんだよ」細谷が自分の机に目をやった。
「ええ、大切な書類ですから、きちんとファイリングしておきました。でも社長、もう少しご自分でも管理していただかないと、書類の紛失は信用に関わりますよ」百合が窘めるように言った。
「いやぁごめんごめん。仕事のこと考え始めるとつい周りが見えなくなっちゃってさ」
細谷が照れたように後頭部に手をやった。親に注意された少年のような顔はまるで社長らしさを感じさせない。百合は彼のそんな飾らなさにいつも好感を覚えていた。
「えーと、それで、今日のスケジュールはどうなってたっけ?」細谷が椅子に鞄を下ろしながら尋ねてきた。
「はい、本日は11時からK社社長との商談、15時から役員会議となっております」百合が淀みない口調で答えた。
「そうか。K社には10時半前に出れば間に合うかな?」
「はい、タクシーは予約しておりますので、10時20分頃に出発すれば十分かと思います」
「了解、助かるよ」
細谷はそう言ってデスクに向かった。デスクには、さっき百合が整理した稟議書がうず高く積まれている。出張前に少しでも目を通しておきたいのだろう。百合もそれ以上の無駄口は叩かず、紅茶を入れるために棚のティーセットの方に向かった。
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