聖夜
紫鳥コウ
Numb
冷えきった窓は、すんなりと開いてくれない。この研究室が作られてから、何十年と経っているのだし、ぼくだって二年もここにいれば、だんだんどうでもよくなってくるけれど。開いた窓から、音のない風や音のある風が入ってくるのにも、もう、身体ほど敏感ではない。
冬には、百種類くらいの寒さがあると思う。そして、僕のこころとからだの具合によって、もっと種類は掛け合わされていくような気がする。なんなら、すべての寒さに、違った声色があると言ってもいいかもしれない。
眼が染みてしかたがない。細かい文字を読み続けて、文字を打っては消して。ああ、そうだ、時間によっても寒さは違う。朝の九時と夜の九時では、まったく違う。
ぼくたちが疲れるように、山だって川だって、道路だって標識だって、くたくたになってしまう、というふうに考えたくなる。そして彼ら、彼女らのため息が、風に乗って、ここまで届いてくるのだと、信じたくなる。
しわくちゃの紙が、ポストに投函されていて、もう冬だから電気代がかさむのはしかたない、と思いつつも、この時期になるとバイトなんてしていられないから、節約しなくてはならない。だから、研究室の暖房を拝借して、目前に迫った修士論文の作業をしているわけだけど、そうか、もうクリスマス・イヴ。提出日まで、あと二週間。
夜を見つめていると、遠い昔の昼のことを思いだす。転んでしまった記憶の、手を引っぱってやりたくなる。
――――――
「ノリフミは、サンタクロースを信じてる?」
――まず、この言葉が耳の周りをうろうろしだした。
「ううん……いないんじゃない?」
「いる、いないは、どうだっていいんだ。信じているか、信じていないかを、聞きたいんだよ」
――少し怒ったような声だったと思う。
「信じているからいると思うし、信じていない理由なんて、いないと思っているからだろう」
「ノリフミは、この先、だれかを助けたいと思うとき、手を差し伸べる、その勇気が、もう消えているんだね」
――あの、苦笑いのような、失笑のような、嘲笑のような表情だけは、忘れられない。もう、二度と消えることのない、くすんだ虹のように。
――――――
五年前の記憶。タケはもうこの世にいない。蝋燭の火が消えるように、自然に死んだわけではない。蚊取り線香の煙が消失するときのように、ポキッと折られてしまったのだ。
換気はもう充分だろう。窓を閉めると同時に、階段をのぼってくる音が聞こえてきた。そっと研究室の電気を消して、パソコンを閉じる。そして、机の下にもぐりこんだ。もう、門限。
研究室のドアに鍵がさしこまれ、そっと開いた。懐中電灯が、あちこちを円でくりぬいているのが見える。
電気代だけじゃない。バス代だってバカにならないのだから、二週間後まで、こうやって、研究室に泊まり込むと決めている。毎日毎日、この時間になると足音に敏感になる。擬態のない人間は、たいへんだ。
ポケットのなかの携帯が、音をだして震えた。
円が窓のあたりを照らす。そっと電源を切ろうとすると、ロック画面には、メッセージの一部が表示されている。彼女の写真の上に、彼女のメッセージの一部が表示されている。
――――――
「タケは、サンタクロースを信じているの?」
「ノーだよ」
――足で踏みつぶされた缶のような声だった。
「ノー?」
「そう。サンタクロースなんて、だれにでもなれるんだから。信じるもなにも、ある。ここにある。なろうと思えば、なれる。それは、『来年になれば卒業生になる』とか、そんなことより簡単。いますぐにでもなれる。まあ、ノリフミには、こんな単純なことさえ、頭にないんだろうね」
――こんな感じの長いセリフを、ゆったりと話していたと思うし、ところどころ詰まっていたような気もする。
――――――
タケって、どんな顔をしていたっけ。顔のパーツのひとつひとつを、正確には覚えていない。
けれど、彼の言葉のひとつひとつは、僕の記憶にべったりと残り続けている。本に珈琲をこぼして、必死に拭うけれど、とれなくて、捨てたくなってしまう。でも、だんだんと、それも本の一部だと、歴史だと、宿命だと考えるようになって、捨てがたく思う。あの感じ。
この階の見回りを終えたのだろう。靴を鳴らす音が、遠ざかっていく。ふと、二十歳くらいのときの、夏の記憶がよみがえった。タケの彼女のヒールの音は、あんな音ではなかったけれど、リズムはあんな感じだった。
――――――
「ノリフミくんってさ、どういうときに泣きたくなる?」
――暇つぶし。退屈です。そんな声。
「急にどうしたんですか」
「問いたいときに問うのが、わたしなの。だから、あなたも、答えたいときに答えればいいけれど」
――その声色に、ぼくは、寂しさを感じとっていた気がする。
「はあ」
「あ、もうひとつ問いをたてていいかしら。ノリフミくんは、崖の上から海を見るのって、こわい?」
――どんどん、寂しさは色濃くなっていたように思う。
「そりゃ、バランスを崩したら、死んじゃいますから」
「ふふ、答えになっていないわね。そう、答えになっていないの。わたしに答えというものが返ってくるのは、まだまだ先になりそうね」
――寂しさが暗やみに飲まれたような、あの不気味な感覚。それだけは、はっきりと覚えている。
――――――
なぜ、彼女はタケを刺したのか。いまだにわからないけれど、彼女の言葉もまた、ぼくの記憶になまなましく残っている。壁に投げつけられた卵の残骸みたいに。
ひきだしから電気スタンドをとりだして、机にそなえつけられたコンセントにさした。パッとひかり、パッとなじんで、パッと大人びた。
椅子にもたれかかって、携帯の電源をいれた。さっきのメッセージ。
『こっちはびっくりするくらい寒いけれど、そっちはどう? 雪が降ってたりする?』
聖夜 紫鳥コウ @Smilitary
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