第九話  遭難

 瞼の向こうに光を感じて、リオは目を覚ます。


「寒――痛ってえ!」


 ずぶ濡れの服の冷たさに加えて、ほんの少し動かしただけの体に走った激痛に思わず声を上げる。

 涙目になりながらどうにか体を起こしたリオは周囲を確認した。


「……よく生きてるな、俺」


 惨状と言っていいありさまだった。


 なぎ倒された木々、泥にまみれて転がる大岩、リオともども運悪く巻き込まれたらしき鹿の死骸。

 リオ自身も無傷ではない。ずぶ濡れの服は泥まみれで所々が破けており、右腕には深い裂傷、左足首が腫れている。額から伝うのは泥水と赤い血だった。

 濁流にのまれた際、咄嗟に身体強化を施していたのも功を奏したのだろう。


 ずきずきと痛む左足首に体重をかけないよう、慎重に歩いて木陰に避難し、幹に背中を預けて空を見る。


「夜が明けてるんだけど……。雨が止んでいるのはラッキー、かな」


 意識を失う前は傾いていた太陽が、今は上がり調子のようだ。

 遠くに見える山から村の方向に当たりをつけて、リオは自分が倒れていた場所を見る。

 ちょろちょろと水が流れている。この流れを辿ればはぐれた場所まで戻れるかもしれない。

 しかし、リオを押し流したあの濁流が一回だけとは限らない。不用意に流れのそばにいてまた巻き込まれれば、今度こそ命はないだろう。


「父さんなら、こういう時は大人しく救助を待てって言うんだろうけど」


 狩りに同行した際に父バルドから遭難時の対処法は叩き込まれている。だが、今の状況では悠長に救助を待てなかった。


 リオの見立てが正しければ、かなり下流まで流されてしまっている。濁流は旧い川を流れたが、いくつの支流ができているかもわからないありさまだ。

 バルド達からすれば捜索範囲は広大で、リオの下までたどり着くのにかなりの時間がかかる。数日は見た方がいいだろう。


 対して、リオは食料や水を持っていない。傷だらけで血のにおいを漂わせており、邪獣の影響で狩りを自粛して腹を空かせている肉食獣にとっては格好の獲物だ。


「待っていたら死ぬな、これ」


 かなり絶望的な状況に、リオは乾いた笑いがこみ上げてきた。


「あ、食料ならあるか」


 自分と一緒に巻き込まれた不運な鹿の死骸を見て、リオは考える。

 リオは手ごろな石を拾って、大岩へ力一杯に投げつけた。カツンと音がして割れた石を拾い、鹿の脚を解体する。


 脚一本あれば、ひとまず食いつなげるという判断だった。関節を外して鹿の後ろ脚を取り外し、両手で持って上流を見上げる。

 濁流に流されてきただけあって、ここからは斜面を登っていくことになる。腫れた左足首の状態を考えると無理は禁物だ。


 リオは濁流が流れた現場を離れて森の中に入り、鹿の足を解体した石で木の幹に傷をつけながらゆっくりと斜面を登り始めた。

 気温はさほど低くなかったため、体を動かしていれば寒さをあまり感じないで済む。

 痛みと共に熱を持ち始めた左足首に顔をしかめながら、リオは警戒を深めて斜面を登っていく。


 ふいに頭上から降ってきた音にドキリとして、木の幹を背に身構える。

 ぱたぱたと羽ばたく音が聞こえ、頭上を見上げたリオは自分を見下ろす鳥を見つけて脱力した。


「驚かせるなよ……」


 身体以上に精神が持つだろうかと弱気になるも、生きるか死ぬかの瀬戸際だと思いなおす。

 弱気になればなおさら、死が近付いてくるのだから。

 すぐに滑りそうになる足元に不安を覚えながら慎重に進んでいく。

 たまに野鳥を見かけるが、恐れていた肉食獣の姿は見かけない。


 時々、濁流の流れた現場に出て方向を確認し、目につきやすそうな木に矢印を書いておく。流れをさかのぼっているリオには必要のないものだが、上流から来た捜索隊と入れ違いにならないようにする配慮だ。


「――あっ、分岐路」


 濁流が流れた跡が二手に分かれている場所に到着し、リオは大きく息を吐きだす。大きな変化を見つけたことで、着実に進んでいる実感が湧いた。

 何よりありがたいのは、きちんと水が流れていることだった。上流で流れがせき止められていれば水の流れも止まっているはずだ。


 それでも警戒するに越したことはないが、いい加減泥だらけの自分の服が気にかかっていた。なにより、血を洗い流さなければ、においを嗅ぎつけた獣に襲われかねない。

 リオは着ていた雨避け外套を脱いだ。

 泥だらけのその外套を水でざっと洗い、木の枝にかけて乾かす傍ら腕や頭の血を洗い流す。

 雨の後だけあって綺麗とも言えない水だったが、病気になるリスクよりも今は獣が怖かった。


 外套が乾くまで休憩しようと、木陰で空を見上げる。

 なんとなく、昨日のことを思い出してリオは首をかしげた。


「……あの邪獣、なんで普通のイタチと同じ大きさだったんだろ」


 思い起こすのは豪雨の中で転がる邪獣の死骸を見た時の違和感。

 あれほど好戦的で貪欲、魔法まで使っていたのだから狩りにも積極的だったはずだ。

 しかし、太っている様子はなかった。

 邪獣となって日が浅く、脂肪を蓄えるほどの時間がなかったのかもしれない。


「でも、引っかかってるのは別のことなんだよなぁ……」


 リオは邪獣について詳しく知らない。邪獣になれば余計な脂肪がつかないという可能性も考えられる。

 昨日、邪獣を見た時に抱いた違和感はもっと別の種類のものだった。

 違和感の正体が掴めずにモヤモヤしながら、生乾きの外套を羽織って休憩を終える。


 帰ってから考えればいいことだと思考を切り替えようとしたが、ただ歩くだけではどうしても暇だった。

 次第に思考が違和感の正体を探る方向へとずれていく。

 慎重を期して森を進み、リオは木の幹に目印を刻もうとして手を止める。


「……そうか。傷だ」


 父、バルドが仕留めた猿の邪獣にあった傷。

 元冒険者であるカリルの見立てでは、鋭利な刃物で上から振り下ろされて付いた傷があったという。

 傷の深さや角度から、傷をつけたのはリオと同じくらいの身長の何者か。


 昨日のイタチの邪獣は通常のイタチと変わらない大きさと形状だった。上から刃物を振り下ろせるとは思えない。

 魔法も枝を高速で飛ばすという物で、刃物による傷とは違って刺さるか貫通する。かすれば裂傷がつくだろうが、傷そのものはごく浅くなる。

 気付いたが故に、血の気が引いた。


「まだ、山に邪獣が残ってる……?」


 もしも、猿の邪獣に傷を負わせた邪獣がまだいるのなら、ここまで肉食獣を見かけなかったことにも納得がいく。


 急速に冷える頭を懸命に働かせる。

 視界が通りやすくなっている濁流跡地をこのままさかのぼるのは正解か?

 手に持っている鹿肉もそうだ。血を洗い流した今、この鹿肉を非常食と見るか、生肉の匂いを発する危険物と見るか。

 ここで食べてしまうのも手だが、生では食べられない。昨日の雨で乾いた枝が手に入らないため、火を起こすのも時間がかかる。野営場所と定めなければ火を起こす手間をかけられない。

 この場所で野営は少々まずい。視界が開けているが身を隠せる場所がない。


 あれこれと考えながらも、リオは足を止めない。ここで立ち止まっても何も解決しないことだけは結論が出ていた。

 周囲を警戒する傍ら、身を隠せる野営場所を探して視線をさまよわせる。

 だから、リオはソレに気付いた。


 木々の隙間、木漏れ日の下にいる白い何者か。

 清涼感のある木漏れ日に照らされて、白い肌が輝くように光を反射している。

 葉を伝って落ちた雨の名残が肌に触れ、滑るように地面へと滴った。

 視界に納めてもなお周囲の自然と一体化する希薄さにもかかわらず、本能的にそこにいることを確信してしまう独特の存在感。

 白く細い二本の足を汚す泥だけが、幻覚ではなくこの世界に存在していることを証明している。

 それでも、リオは目の前の存在に目を疑った。

 音もなく肩越しに振り返り、灰色の髪の隙間から感情を宿さない瞳でリオを見るソレは――生まれたままの姿の少女だった。

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