第9話
夏休みがやってきた。
彼氏がいる初めての夏休み。夏休み前、千佳の心は受験勉強という現実と初めての恋愛のはざまでうろうろしていた。何といっても彼氏は高校で十年に一度という秀才で、受験勉強なんてたぶん、お茶の子さいさい。それに比べて自分は劣等生とまではいわないが受験勉強を頑張らねば、あっという間に成績が落ちてしまう。高校二年というのは受験勉強を左右する重要な時期だという認識はある。
でも・・・せっかくの青春なんだ。
夏休みの最初の朝、ベッドの上で伸びをしながら千佳は誓った。思い出のたくさん詰まった素敵な夏休みにするぞっ、と。
修介と付き合っていると家族に宣言した翌々日、千佳は放課後、香奈と一緒に下校した。なんだかにやにやしながら千佳の話もろくに聞いている様子もなかった香奈が、
「でさ、私と一緒でいいの?」
と尋ねてきた。
「ん?何が・・・ちょっとやめ・・・」
千佳は香奈が自転車を後ろのタイヤにぶつけてくるのを避けながら、顔を
「帰るのさ・・・。彼氏と一緒じゃなくて・・・」
顔から火が出るような思いがした。香奈にはいつ、どうやって伝えようか悩んでいたのに。
「ど・・・どうして?」
「あ」
香奈が情けない顔で千佳を見た。
「舌ってどうやって鳴らすの?」
目尻がしょぼんと垂れた香奈の顔に向かって、
「そんなことより・・・」
と千佳は詰め寄った。あ、そうだったよね、と呟くと香奈は、
「昨日さ。学校から帰ったらさ。ピンポンが鳴って」
と話し始めた。
「うん」
千佳はあたりを見回しながら香奈に顔を近づけた。
「出たら、君の弟君が・・・。ちょっと、顔近い」
香奈が後ろずさった瞬間、千佳が思わず、大声をあげていた。
「龍彦が?」
昔、香奈の家に何度か連れて行ったことはあるがまさか、一人で?
「うん、お話があるんですっていうから家に入って貰ったの」
香奈は千佳との距離を保ったまま頷いた。
「ま・・・まさか」
「そのまさかよ」
と香奈は笑った。
「なんで・・・あいつ?どうして・・・香奈にわざわざ」
ちっと、舌を大きな音で鳴らした千佳を香奈が尊敬するような目で見てきた。
「ねぇ、舌ってどうやれば鳴るの?」
「そんなこと、どうでもいいから・・・」
千佳が言うと、ああ、そうね、と香奈は頷いた。
「前ね、千佳と一緒にうちに来た時にね・・・。私はよく覚えていないんだけど、千佳がたまたま席を外していた時に佐地君の話をしたみたいなの。弟君、佐地君を慕っているでしょ。で、その時何の気なしに私が佐地君って素敵だよねなんて、言ったらしいのよ。でその時、迂闊に彼氏にしたら最高よね、って言ったらしくて」
「うん」
千佳は頷いた。それは・・・同意できる。香奈はふふふ、と含み笑いをしながら、
「でね・・・。千佳の弟君、佐地君を彼氏にするのは諦めてくださいって、私に言いに来たの。頭下げて、さ。こっちはろくに覚えていなかったんだけど」
「・・・。あのバカ」
千佳は唇を噛んだ。
「可愛い弟じゃん」
香奈は心底そう思っているらしい。
「でも・・・香奈は・・・」
千佳はちょっと気になっていたことを尋ねた。
「ん?」
「もしかして佐地君のこと・・・」
数学を教えてほしいなんて、もしかして修介に好意を持っているんではないか、そう千佳は思っていた。香奈は男子に人気がある。背が程よくて・・・たぶん155センチくらいで、目がパッチリとして髪が長く、そして色が白くて・・・肌なんかきめ細かくて柔らかそうで、千佳だって思わず触りたくなるくらいだ。修介だって香奈には優しい。それに・・・香奈だって、今、彼氏にしたら最高って言ったじゃない。
だが香奈はひらひらと手を振った。
「ああ、確かに良いっては思うけど・・・私には無理。なんか息が詰まりそうなんだよね、賢すぎて」
「そう」
「千佳がお似合いだよ。スタイルいいし、美人さんだし、頭いいし」
香奈はにっこりと笑った。
「そんなこと・・・ないよ」
修介は・・・どう思っているんだろう、私のこと。と考えた千佳を香奈は興味深げに探るような目つきで見ていた。いけないっ。どんどん喋らされてしまいそうだっ。
「それにしてもあいつ・・・いきなり私の親友にばらすなんて」
慌てて、千佳は弟を
「でも、いい弟さん・・・じゃない?」
香奈は髪を掻き揚げながら言った。あ。いい香り・・・。何つけているんだろう、後で教えて貰わなきゃ・・・。
「・・・。でも、もしさぁ香奈に弟がいてそんなことされても・・・そう思う?」
「ん?」
香奈は空を見上げた。
「それはどうかなぁ。そう言われると・・・、何だがまるで結婚相手を選んでいる父親みたいだったし。かといって自分の本当のオヤジにそんなことされても・・・なぁ」
「でしょ。いい弟とかいう問題じゃないと思わない?」
千佳の問いに
「そうね・・・」
香奈は頷いたが、
「というより、そもそも恋人ができたって家族に宣言するのが珍しいとは思うけど・・・?」
と首を傾げた。
「そうよね・・・。普通隠すもんだよね」
一昨日の事を思い出しながら、千佳は顔を伏せた。
「でしょ」
「・・・」
やっぱし隠すのが普通だよねぇ。
「なんか、千佳の家って仲良いよね」
香奈は、でも羨ましそうに言った。
「そうでもないよ」
「私の家じゃ、絶対にないし・・・」
香奈はちょっと寂し気に俯いた。家族で東京に遊びに行くくらいだから仲の良い家族だと思っていたんだけど・・・。
「そう?」
「いいな、楽しそうで」
香奈は溜息をついた。
「もしかして・・・バカにしてる?」
「ううん。ホントは誰でもみんなそんな家族だったらいいなぁ、って思っているのよ。そうじないからバカにしたり否定するってことはあると思うけど」
「でもさ、現実的に被害があるし・・・」
千佳は唇を尖らせた。
「私にばらしたってこと?」
「そうね」
頷く。
「私に隠すつもりだった?」
香奈はきらきらとした眼で尋ねてきた。
「親友だと思っていたけど・・・」
「まさか。そんなことはないけど・・・私のタイミングで・・・言いたかったのに」
千佳は俯いた。お陰でどのタイミングで、ということは考えずに済んだけど。
「じゃあいいじゃん」
香奈はあっさり言った。
「・・・そうね」
千佳も頷いた。確かに・・・どうせ、いつかは言うつもりだったんだ。
「私は千佳のキューピッドってことよね。だって、このタイミングを考えると告白されたの、あの日の事でしょ?試験の後の」
「うん、そう」
千佳は素直に頷いた。
「やっぱりね。弟君を叱っちゃだめだよ」
「分かった」
「いい子じゃない。私の彼にしようっかな?」
香奈の呟きに千佳は目を
「え、6歳も年下だよ」
「冗談よ。でも23歳と29歳だったら、微妙にありじゃない?」
香奈は笑った。
「29歳になってみないとわからない・・・。でも香奈がそれでいいんなら妹が香奈っていうのは悪くはないな」
「ははは・・・。千佳がお姉さんか」
香奈は大声で笑った。
「いい家族って、羨ましがっていたじゃん」
「うん、考えておく。それまで彼氏ができなかったらね。弟君にも彼女ができないことを願っておくわ。・・・で、今日は彼とは良いの?」
「今日は部活だって」
「ワンダーフォーゲルだっけ?佐地君」
「・・・クライミング」
千佳は即答した。
「あ、昔の登山部ね。将来・・・千佳も一緒にやるの?」
「それは・・・無理。ワンダーフォーゲルでも無理そう」
「だよねぇ」
運動が苦手な香奈はしみじみとした表情で頷いた。
勉強とデートを両立するという難しい課題を修介は一瞬で解決してくれた。
「一緒に勉強すればいいじゃん」
千佳は目から
「あ、それいいかも。でも、どこで?」
「図書館で」
「ああ・・・」
一瞬、修介の家で?なんて思ってしまった自分に内心で顔を赤らめた。
「どこの・・・?」
「学校の図書館でもいいけど・・・夏休みは開放するみたいだし。でも市の図書館の方が色々と揃っているし、そっちの方がいいんじゃないかな。学校だと、まあ色々噂する奴もいるだろうし」
あくまで冷静な修介の答えに
「そうだね」
と千佳は頷いた。修介と一緒にいるところを友達に見られるのはまだ恥ずかしい。自慢したい気持ちもあるにはあるけど。
「午前中から行って、近くの公園でお弁当食べて、三時くらいまで勉強して・・・」
「うん」
「その後は適当に・・・」
適当ってなんだろう?
「いいね。じゃあ、私がお弁当作るよ」
修介は千佳を見て、首を振った。
「お弁当は替りばんこにしよう。作っても時間がない時は買ってきてもいい」
「でも・・・」
千佳が躊躇うと、
「今から、力を入れると後が大変だよ。長く付き合うならさ」
修介の言葉が千佳は嬉しかった。長く付き合う・・・、そんな風に考えてくれているんだ。
「うん、じゃあそうしよう。でも、最初の日は私が作る」
「あんまり気合を入れないで。翌日の僕が大変になるから」
修介はそう言ったけど・・・。
「姉ちゃん、何作っているの?」
寝ぼけ顔で起きてきた龍彦が台所に入ってきて尋ねた。
「え・・・?」
時計を見るとまだ6時だ。学校があるときはまだ寝床の中にいるのに、夏休みが始まった途端に早起きにならなくてもいいじゃない。
「うるさくって目が覚めた」
あ、さっきサラダを作ろうとボウルを落としてしまったのを聞きつけられたか。
「あ、うまそう」
眠たげだった目を突如ぱっちりと開き、龍彦が揚げたミートボールをひょいっと摘まんで口に持っていった。
「あ、だめ・・・」
必死で止めようとしたが、肉団子は弟のブラックホールのような口に飲み込まれていった。
「何すんのよ」
千佳の怒りに龍彦は後ずさったが、なんだか妙な顔をすると、
「姉ちゃん・・・。これ味がしない」
と呟いた。
「あっ、塩こしょうを入れ忘れた」
千佳は天を仰いだ。
「何を騒いでいるの?あら、珍しい、千佳、朝食の用意してくれているの?」
「違う・・・」
千佳はそう言いながら椅子にへたり込んだ。
「どうしよう・・・。ひき肉がもうない」
結局、朝ご飯を作った後に、母が手伝って肉団子をトマト煮にした。塩味はソースの方で誤魔化すのよ、と母は教えてくれたのだ。オリーブオイルでじっくりニンニクを炒めた上にトマト缶を空け、ケチャップとウスターソースを足すとそれなりに美味しいソースができあがり、サラダにするつもりだった茹でブロッコリーとアスパラを加えると鮮やかな緑がソースに映えた。炊いたご飯は父の朝食になった。母が買っておいたバゲットをその代わりにガーリックトーストにして持っていくことにした。
「うまそう」
と呟きながら弟は台所をうろうろしていたが、母が追い払ってくれ何とか約束した時間に図書館に間に合った。自転車置き場には修介の自転車が既に停められていた。急いで、正面玄関に回ると、夏の日差しを避けるように、
「よっ・・・」
修介が気付いて片手を上げた。その姿を見ただけで、なんだか千佳は幸せな気分になった。
横に座っている修介が気になって、三分に一回はちらりと目を遣ってしまう千佳に反して、修介の方はさらさらと数学の参考書のページをめくっては、ノートに何かを書きつけ、一向に千佳の方を見ようとはしなかった。
溜息を一つ吐いて、千佳は英語の読本に目を遣った。すごい集中力・・・でも修介の集中の先は数学の式に向かっている。
数学に嫉妬しながら千佳は自分も英語に集中しようと努めた。でも・・・修介が英語に嫉妬することなんて永遠にないだろうな・・・。
二十回くらい修介の横顔を鑑賞し終わったその時突然、修介が千佳が横にいるのに気付いたかのように振り向いて、にかっと笑った。
「終わった」
「え・・・?」
見ていたことに気付かれたかしら、とへどもどしながら千佳は尋ねた。だが修介は、
「ん・・・」
と伸びをすると、
「ちょっと俺、本を借りて来る」
立ち上がるとすたすたと書架の方へと歩いて行った。
「あ・・・」
なんだかマイペースだなぁ、修介ってもしかして血液型B型?と思いつつ千佳は参考書に目を落として課題に集中し始めた。修介が暫く戻ってこなかったのでその間になんとか勉強は進んだ。やがて修介は手にいっぱいの図書を持って席に戻ってきた。
「なぁに、それ?」
「郷土史に関する本だよ。おまえのおじいちゃんの家ほどではないけど、図書館にも色々参考になる本がある」
「へぇ」
なんか、つまんない、今度は郷土史に嫉妬しなきゃいけないのか、と思ったその時、
「ちょっと外へ出ようか?」
と修介が言った。
「あ、うん」
千佳は慌てて立ち上がった。椅子ががたんと音を立てた。
「おまえが落ち着かないようだからさ」
「え?」
やっぱり気付かれていたんだ、と頬が真っ赤になった。だが修介はそれ以上、そのことに触れることはしないで、
「おまえ、どこの大学を受けるつもり?」
と千佳に尋ねてきた。それは千佳も修介に聞きたいことだった。
「まだ決めてない。佐地君は?」
「一応、候補はあるけど・・・千佳」
修介は真顔で千佳を見詰めた。
「うん?」
「同じ大学に行かないか?」
どきっと、した。
「あ・・・そうしたいけど、でも私じゃ無理じゃない?佐地君と同じ大学は」
「そんなことないさ。これから勉強頑張ればいい」
「でも東大とか京都大とかはむりだよ」
千佳は俯いた。
「どこにいくかは、これから二人で相談しよう。地元の大学だっていいし」
「それは嬉しいけど、でも佐地君はそれでいいの?」
「もちろんだよ。どこの大学に行くかも大切かもしれないけど、大学で学ぶかどうかの方が大切さ」
「うん、じゃあ私も頑張ろうかな」
修介の顔ばっかり見ているわけにはいかない、と千佳は覚悟した。でもそうすれば、大学に行っても修介といつでも会える・・・。
休憩を終え、席に戻ると千佳は問題集に集中した。横に修介がいると思うと力強い。一時間ほど集中して英文問題を解きあげ、解答を見る。すると修介がどれどれ、と覗き込んで、間違ったところを一緒に考えてくれた。
あ、なんだか幸せ・・・。
その幸せ感はお弁当を食べる段になって、ますます高まった。外のベンチに座り、お弁当をバッグから出して渡すと修介は目を輝かした。
「すごいじゃん、なんか本格的」
実はもとは失敗作なんだけど、とは思いながら、千佳は
「ありがとう」
と応じた。
「こっちこそだよ、あ、美味いじゃん」
肉団子を頬張りながら修介はどんどんと食べていく。ソースが跳ねないように、と注意をしながら千佳も食べた。冷めていたけど、確かに意外と美味しい。
「明日、何にすっかなぁ」
食べ終えた修介はベンチに両手をつけて体を浮かすと空を見上げた。
「何でもいいよ」
まだ半分くらいしか食べてない千佳が答えた。
「でもおまえがちゃんと料理してきてくれたから、さ。あんまり気張らないでくれって言ったじゃん」
と半分恨めしそうに修介は千佳を見てくる。
「何か考えていたの?」
「焼きそばにしようかなって」
「あ、それいいじゃない」
「でも・・・おれ焼きそばとチャーハンしかつくれないからなぁ」
ぼやいた修介に、
「じゃあ、かわりばんこにすれば?佐地君の焼きそば食べてみたいよ。チャーハンも」
と千佳は言った。
「ううん、考えておくわ」
「焼きそばパンっていうのもあるよ」
「あ、それもありか・・・」
修介は笑う。
「ねぇ、佐地君」
食べ終えた千佳はタッパーを仕舞いながら修介に話しかけた。
「佐地君って勉強が好きなの?すごい集中力だよね」
「好きっていうよりも・・・おまえ、RPG《ロールプレイングゲーム》をやったこと、ある?」
修介が千佳に尋ねた。
「あるけど・・・」
「あれさ、主人公がどんどんレベルがあがっていくじゃん」
「うん」
「勉強も同じなんだよな。あることをマスターすると、それに関係する
「ふうん・・・」
千佳は頷いたが、実感はわかなかった。そもそもそれほどゲームを好きでやる方じゃないからかもしれないけど・・・。
「まあ、頑張ってよ」
修介が笑った。
「そうする」
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