第7話
「姉ちゃん、きょう、修介兄ちゃんとデートしてただろっ」
家族そろっての夕食中、弟にいきなりそう言われ
「図星だっ」
とんかつを一切れ口に咥えていたせいで、「じゅぼしだっ」と聞こえた。
「え、千佳デートしていたのか?」
父が目を丸くして千佳を覗き込んできた。
「違うわよっ、たまたま会って一緒に帰ってきただけなんだから」
千佳は反論した。
できるだけ素っ気なく聞こえるように、と願いながら。
「でもさぁ、じゃあね、とかいって手を振ってたの見たもんね。あれはデートだっ」
弟は千佳の真似のつもりなのかひらひらと手を振ってみせた。こいつ・・・年上の姉に向かってどうして一番腹の立つ真似をするんだろ?
「どっから盗み見していたのよ。意地の悪い・・・がきんちょが」
思わず手が出たが弟はひょいと避けた。兄弟喧嘩の中に割って入ったのは父だった。
「千佳、ほんとなのか?お父さんはそんな話を聞いていないぞ?」
そんな話、いちいち父親にしなきゃいけないの?千佳がそう言おうとしたその時、母が落ち着いた声で話に割り込んだ。
「何を騒いでいるのよ。修介君とは幼いころからの遊び仲間じゃない。別に一緒に歩いてたって・・・」
母の言葉に千佳も乗った。
「そうよ。おじいちゃんの家に行ったらたまたまアイツがいて、それで一緒に帰っただけよ」
「でも・・・顔、赤かったじゃん、手を振っていた時」
弟が更に余計なことを言う。
「こら」
思わず立ち上がった千佳の剣幕に龍彦はとんかつの載った皿を慌てて持ち上げ、逃げようとした。
「いい加減になさい」
母親の叱り声で急に動きを止めた弟の皿からとんかつが二切れ宙に舞った。
「あああ」
絶望的な声を上げて床に落ちたとんかつを拾い上げると弟は千佳を睨んだ。
「どうしてくれるんだよー」
「自分の責任でしょ」
冷たい声で言うと千佳は弟にあかんべーをした。
「とんかつだから衣の所をちょっと剥がせば大丈夫だよ」
父が慰める。龍彦は
「そうかなぁ」
と言いながら惜しそうにとんかつの衣を剥がした。
「衣も美味しいのに・・・。姉ちゃんのせいだ」
ぶつぶつ言っている弟の横で、
「それで・・・どうなんだ?」
と父が千佳を見た。
「健全なつきあいならともかく・・・。家族にまで隠さなければならないようなことをしていないだろうな」
それを聞いて千佳は思わずキレた。
「だから、おじいちゃんちでたまたま会っただけだから。お願いだからこの話題、やめてくれる?」
怒りで頬を膨らませている千佳のはす向かいで弟は、さっき宙を舞ったばかりのとんかつを口に入れていた。
「うまい。やっぱ母ちゃんのとんかつはうまいよ」
母は場違いの誉め言葉を聞きながら、大きなため息をついた。
「あんたたち、もう少し静かに食事できないものなの?」
頬が赤かったって・・・ほんとだろうか?
千佳は自分の部屋に戻ると机に座り頬に手を当てた。いったいどっから見ていたんだろう、龍彦のヤツ。でも二人とも龍彦の存在に気付かなかったくらいだから、遠くから見ていたに違いない。だったら顔の色まで分かる筈はない。
そう自分に言い聞かせても、あの時・・・。手を振った自分を振り向いた修介に動揺した心は偽ることはできなかった。もしかしたら本当に赤くなっていたかも・・・。そして修介にそれを見られたかも。
今日は眠れないかもしれない、ベッドの上で千佳は溜息を吐いた。
そんなことはなかった。ベッドに横たわって天井を見詰めた途端に堪えきれない眠気が襲って来た。
そして・・・明け方に夢を見た。
そこはとても広い部屋だった・・・。部屋って言っていいんだろうか?天井は高く、田舎でも滅多に見ないほどの広さがある場所だった。四方には太い柱が立ち、その下で蝋燭のような朧げな灯りがちらちらと瞬いている。そこで千佳はあの翡翠を手にしていた。
その千佳のもとから人影が去っていく。見たこともない・・・いや映画やテレビでしか見たことのない格好の男の人だった。左に差した長い刀が影を引いている。あれはなんて呼ぶんだろう。鎧兜・・・甲冑?時代劇に出てくる役者のようなその人は部屋を出る寸前にちらりとこちらを向いた。暗がりのせいで良く表情までは見えなかったが・・・。
「修介君?」
その振り向き方と横顔が、今日別れ際に自転車を押しながらいきなり振り向いた修介とそっくりだった。
「修介君なの?」
叫んだ千佳の問いには答えず、その人はまた前を向くと去っていった。鎧の立てる重い音と一緒に・・・。
そこで目が覚めた。
目を覚ました千佳はベッドに横たわったまま暫く目を閉じ、動かなかった。朧げなまま、記憶から去っていこうとする若者の姿をなんとか脳内の画像に固定すると、それはやっぱり甲冑を身に纏った修介に思えた。ちょっと本物の修介よりも大人びていたし、背も少し高かったような気もするが、振り向いた時の姿は全く同じだった。
「なんであんな夢を見たんだろ」
今・・・私、きっと頬が赤く染まっているに違いない、と千佳は思った。でもなんだか・・・ちょっぴり得をしたような気分がする。嫌な夢を見た日にはろくなことはない。今朝はなんだかハッピーな気分だ。
「もしかしたら」
あの翡翠はおじいちゃんの家の蔵にあったものだ。子供の頃は修介とよくあそこで遊んだことがある。その時偶然に二人のどちらかがそれを見つけて修介が手渡してくれたのかもしれない。あの頃・・・確か、
「私、修介君のお嫁さんになるんだもん」
と言っていた記憶が微かに蘇った。幼い修介も千佳と結婚するんだ、と言ってくれていた。だから、もしそうだったなら、
「はい、ちかちゃん、これがけっこんゆびわの代わりだよ」
とか言って修介は渡してくれたことがあったのではなかろうか。これって・・・修介のことが好きだから抱いた妄想?そう思った瞬間、
「あ・・いやー」
変な声を出して千佳はベッドの上で
「香奈、頼まれていたことやっておいたからね。今日の放課後ならいいって」
五時限の数学の授業が終わってテストが返却された休みの後、わざわざ修介の所に行って頼んだにも関わらず、香奈はきょとんとした顔で問い返した。
「え、なんだっけ?」
「・・・数学の試験返って来たでしょ。間違ったところ佐地君に教えて貰いたがっていたじゃない」
「あ・・・」
香奈の顔が一瞬でこわばった。
「ごめん、千佳。断っておいてよぉ」
「え、なんで?」
「佐地君に見せられるような点数じゃないんだもん。だから、一人で勉強しなおします。ごめん」
香奈は手で拝むような恰好をして後ろずさった。
「え?悪かったならよけい教えて貰えばいいじゃん」
「いやぁ・・・。そんな気になれないほどの点数なんです。とにかく今日は許して」
「そんな・・・」
言いながら千佳は修介の方をちらりと見た。相も変わらず、どこ吹く風といったような顔で修介は黒板の方を見ている。どうしよう・・・と頭を抱えた千佳の耳に英語の授業を報せるチャイムの音が聞こえてきた。
香奈は終業のチャイムが終わるなり、ささっと鞄を抱えて逃げて行った。ゴメンとでも言うように、千佳に小さく手を合わせながら。
「仕方ないなぁ」
千佳は呟くと修介の座っている机に近づいた。
「ごめん、香奈、なんか用ができたらしくて・・・」
修介が振り向いた瞬間、思わず千佳は後ずさった。やっぱり夢の中のあの人は修介だ・・・。
「どうした?そんなことで怒りゃしないよ」
修介は不審そうな目で、目を真ん丸にしながら身を引いた千佳を見た。
「あ、うん」
気を取り直して近くにあった椅子に千佳は座った。
「芹沢は良いのか?」
修介の問いの意味を理解し損ねて、
「え?なにが?」
と千佳は尋ねた。
「試験の分からなかったところ、ないのか?」
「あ。私は大丈夫。結構いい点だったし、間違ったところはもう調べたから」
85点ならまあまあだ、と自分でも思う。
「あ、そう」
修介はあっさりと応えた。
「佐地君は、どうだったの?テスト・・・」
「余裕の満点・・・と言いたいところだけど、答えの一つを書き写し損ねてね。数式はあっていたんだけどさ。佐藤のヤツ、嬉しそうにわざわざ『残念』とか書いてあった。はなまるまでつけて。嫌味なやつ」
佐藤とは数学の教師である。
「そうなんだ」
「じゃあ、帰るか」
鞄を手にした修介に、
「待って、ちょっと一つだけ質問していい?」
「また、質問か?」
修介が眉を顰めた。
「分かっているけど、一つだけ」
手を合わせた千佳に
「まあ、いいよ」
修介は椅子に座りなおした。
「昔、子供の頃・・・おじいちゃんの家で一緒に遊んだことあったじゃない」
「・・・」
修介は黙って千佳を見上げた。その視線にめげずに千佳は鞄を開けると中からあの翡翠を取り出した。
「・・・そのぉ、その時この石を見た記憶ない?」
ハンカチに包んだ石を差し出すと修介は首を傾げながら受け取った。真面目な顔で石を見詰めている。千佳は修介の横顔を盗み見た。
「翡翠かぁ。・・・覚えがないなぁ」
一つ首を振ると気のない返事をした修介にがっかりした千佳だったが、
「でも・・・」
と言葉を継いだ修介に、
「え、何か覚えている?」
と期待に満ちた目を向けた。
「変だな。確か翡翠っていうのは・・・」
修介が言うには、昔、翡翠が貴重だったことは確かで、玉ともいわれ金よりも価値のあるものとして尊ばれたのだが、時代に連れて次第に価値を失っていったという事だった。
「大和政権が成立した頃はともかく、その後は翡翠の人気はだんだんとなくなったんだ。復活したのは昭和になってから、日本海側で翡翠の鉱脈が発見されてからだ。となるとこの翡翠は昭和以降の新しいものか、平安時代以前のものと考えるのが普通だけど・・・細工を見る限りそうは思えない」
修介は手の中で翡翠を転がしながらそう言った。
「江戸時代か、それより前のもののような気がする」
「修介って何でも知っているんだね」
少し嫌味を籠めて千佳は呟いた。
「でも、もしこれが古いものだとしたら、大和政権の影響がここまで及んでいたことを傍証するものかもしれない」
そう言ってから、
「でも、磨いちゃったらそういうことは分からないなぁ。とっても綺麗だけど」
と修介は平坦な口調で言った。まるでテレビの解説者みたいだ。
「悪かったわね、磨いちゃって」
千佳は頬を膨らませた。
「いいさ。日本武尊の東征は東北地方まで及んでいる。西は日本武尊か景行天皇がやはりその時代に鹿児島まで手を伸ばしていたと思われる。それは別の史実からも知れているからね。取り立てて新しい話じゃない。まあ、石の由来には関心がないわけじゃないけど」
すらすらと歴史上の人物らしい名前が修介の口から流れ出てくる。
「佐地君、歴史苦手だってホント?」
千佳は修介の掌の上にある石を摘まみ上げながら尋ねた。
「相対的にはね・・・」
修介の答えに
「うーん、微妙に感じ悪い。何?その言い方」
と千佳は顔を顰めた。
「相対的って・・・。つまり数学ほどじゃないけど歴史も苦手じゃないってこと?」
睨んできた千佳を面白がっているような顔で見ると、
「ところで・・・芹沢、今日は自転車できたの?」
修介はいきなり話題を変えた。
「そうよ。いつもだもの」
「じゃ、一緒に帰らないか?」
誰かに聞かれたら・・・からかわれるかもしれない。そうなったら弟の時とは比べ物にならない。家族じゃないんだよ、クラスメートなんだよ。千佳は慌てて手を振って強い、でも小さな声で抗議した。
「やめてよ、誰かに聞こえるじゃない」
「もう、みんな帰ったよ」
修介がそっけない口調でそう言った。
「あ・・・。あれ?」
千佳は教室を見回した。修介と二人っきり・・・がらんとしている。どうしたんだろ?いつもなら五・六人は残っている筈なのに。
「どうする?」
修介はにやりとした。
「うん、じゃあ・・・」
煮え切らない様子の千佳を見て修介は今度はクスッと声を上げて笑った。
高校は坂の上にある。祖父の家のちょっと先の国道から交差点を曲がったすぐ先だ。グラウンドでは野球部が練習をしている。その様子を横目で眺めながら千佳は交差点を右に曲がった。その前には修介が自転車を黙ったまま引いていく。
「ねぇ」
千佳は修介に声を掛けた。
「ねぇったら・・・」
修介は一度振り向いたけど、すっと首を振ってついて来いとばかりにまた歩き始めた。
「なんなのよ・・・。一緒に帰るとか言った癖に。会話拒否かよ?」
ぶつぶつ言いながら、それでも千佳は修介の後ろをついて行った。祖父の家を通り過ぎ、坂の手前のある石のベンチの前でいきなり修介は歩みを止めた。
「どうしたの?」
修介に追いついた千佳も自転車を止めた。
「覚えている?」
「え・・・」
「昔、小学校の頃、この坂道を自転車で競走したじゃん」
「うん・・・」
よく覚えている。その頃の修介は千佳よりも背が小さくて、自転車も小さかったせいかいつも千佳の方が先に坂を登ったものだ。
「座ろっか?」
「うん」
横並びに座ると、千佳は坂の下を眺めた。初夏の新緑がトンネルのように坂を覆って優し気な蔭を作っていた。
「いつも・・・。競争でオレ、お前に負けていたじゃん」
そんな千佳をちらりと見ると、修介はぽつりと呟いた。お前?思わず、千佳も修介を盗み見た。ずっと、私の事を芹沢としか呼んで来なかったのに・・・。
「でも、一度だけ、勝ったんだ」
「あ、なんとなく覚えている」
あの時の事だ・・・。いつ頃だったろう、新緑が頭上を覆っていた気がするから初夏のことだったろうか?
「そう・・・。じゃ、芹沢がその時、泣いたのも?」
意外な言葉に千佳は狼狽えた。確かに競争で負けたことは鮮やかに覚えている。でも泣いた記憶はない。
「え?私、泣いた?競争に負けて?」
こくりと修介は頷いた。
「あの頃さ、いつも負けてばっかりいたからさ。それが嫌で時々練習して、それで芹沢に勝って、子供だから有頂天になって、ひどいこと言ったんだよ」
また・・・芹沢に戻っている。
「なんて?」
「言わないけどさ・・・」
修介は遠くの方を見るように頭を上げた。
「俺、なんかすごい反省したのね。芹沢を泣かせたことに・・・」
「うん」
「嫌われるだろうな・・・って思ってさ。女の子を泣かせるなんてなんてひどいやつだとか思って。だからあの頃からなんとなくお前と距離をおくようになった。また同じようなことをしちゃうんじゃないかと思って」
修介の言葉に
「そうだったの?」
と千佳は答えた。そうだ、確かにあの頃から、何となく一緒に遊ぶのが極端に減った気がする。
「ごめんな」
そう謝った修介に
「いいよ。もう覚えていないし」
と千佳はできるだけ明るく聞こえるような声で答えた。
「そうか・・・」
修介が苦笑した。
「独り相撲していたのかな、俺」
「じゃあ・・・。笑わせてよ」
突然、千佳の口から飛びだした言葉に
「え?」
修介が驚いたように千佳を見た。
「泣かせたことが悪いと思っているんでしょ。じゃあ、そのお詫びに笑わせて」
「笑わせる・・・か。千佳らしいな」
「どうなの?」
千佳の問いに修介が笑った。
「うん、分かった」
「一生だぞ?」
「ああ、一生笑わせるよ。少なくとも泣かせない」
真面目な顔で答えた修介に千佳は指を差し出した。
「じゃ指切りげんまん、しよう」
「ああ」
手を伸ばしたてきた修介の指に千佳は自分の指を絡ませた。あの頃の小さな手とは違って、男の子のごつごつした、大きな手だった。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本、のーます、指切った」
千佳がそう言うと、修介は、
「針、千本かよ・・・。飲んだらまじに痛そうだな」
と呟いた。
「千佳だったらやろうとしかねないし」
「ふふふ・・・。だよ」
千佳はそう呟くと、ちょっとだけ修介の方に首を傾げた。
「その代わり私のこと、お前って呼んでいいよ、昔通り。千佳でもいい」
「そうか?」
修介は笑った。
「お前がそう言うならそうしよう」
「うん」
「なあ、千佳?」
修介は「お前」も「千佳」もさっそく使った。
「なに?」
「昔に戻れないかなぁ?」
「ん?どの位、昔?」
「だからさ、坂で自転車競走していた頃にさ」
もっと、昔、あなたは私をお嫁さんにするって言ったんだよ。千佳は思いながら修介に尋ねた。
「また、自転車で競走したいの?」
「意地悪言うなよ」
修介は笑った。
「じゃあ、もう少し・・・。高校生らしいヤツ」
なんだ、それ?高校生らしいって?
手を繋ぐ?キス?それとも・・・。
「わかった。いいよ」
千佳は答えた。手を繋ぐくらいまでなら、してもいいかな、なんて心の底で思いながら。
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