第12話 リズの葛藤
~魔王復活の三年前~
その手紙は、気を失ったように眠っていたリズを断罪するかのように、男爵家に届けられた。
ワイバーン襲来事件の後、現実から目をそらすかのように、リズは夢の中に居続けた。それは、帰りたくないと願っていた向こう側の現実世界だったかもしれないし、自分にとって都合の良い幸せな世界だったかもしれない。
でも、目が覚めれば、思い出す。リズの横を、何の迷いもなく走っていったアルベルト。その、震えていた背中。
「アルベルト…。」
愛しい彼の名を呼ぶ。ベッドの中で、雨に濡れた猫のように丸まる。そして、自分を抱きしめた。
―――そこに立っていたのは、自分でなければいけなかったのに。
その責任を放棄した。こんな形を望んでいたわけではない。ただ、帰りたくなかっただけ。身体から溢れる魔力は、あれから日々強くなっていく。隠し方など知らない。聖女にならなかった自分を、自分が責めている。
「アル…ベルト…。」
今、アルベルトの立場は大きく変わってしまっていることだろう。そんなことは、容易に想像できた。もう、あんな風に笑ってはくれないかもしれない。
「ごめん。」
自分は主人公だから、アルベルトだってその内こっちを見てくれるようになると思っていた。シナリオを変えれば、それこそ彼と結ばれる運命もあるのではないかと。
―――だからといって、彼に苦労をさせたかったわけではない。
彼の立場が今、どうなっているかを確認したくなくて、現実から目をそらし、ベッドの中で夢を見続けた。目を瞑ると浮かび上がる文字は、まだそこにある。「セーブ、…しちゃおうかな。」なんて思うことさえあるほどに、今の状態から目を逸らしたかった。そのボタンを押す勇気など、全く持ち合わせていないことも、わかっていたけれど。
リズがアカデミーを休むようになって数日がたった頃、父親が一通の手紙を持ってきた。それは、宛名も差出人も書かれていない手紙だった。どこかの侍女らしき女性が、「リズ様にお渡しください。」と言って持ってきたというその手紙は、明らかに上質な紙に書かれていて、それだけで差出人が高位貴族であることが伺えた。
ヘッドボードに寄りかかり、封筒を開ける。手紙は一枚だけのようだ。中から取り出し、開き、そして見れば―――リズは、息を飲んだ。
【あなたは、誰?】
恐ろしく感じられるほど、美しい文字だった。目が離せなくなるほどに。リズは目を見開く。そして、続く言葉を見て戦慄いた。
【あなたがやらなければ、彼が代わりを担うことになるでしょう。】
そんなことは、わかっている。わかっているの。だけど!
【私は、あなたの味方です。】
背中に人の気配を感じた気がして、視線を手紙から外す。変わらない、ここは自分の部屋だ。冷たい風が吹いた気がした。背筋が凍る。差出人は、知っているのだ。———リズがすべきこと。それから逃げたこと。それによって犯してしまった罪と、受けた罰を。聖女としての義務から、目を逸らすなと言っている。そのためにここに来たのでしょう? と、リズを責める。
リズは手紙を封筒に戻し、それを持ったまま自分の膝を抱えた。
コンコンコン―――ドアを叩く音がする。
「入るよ。」と声がして、父親の顔が覗いた。リズの傍まで来て、「気分はどうだい?」と心配そうに頭をなでる温かい手に、ポロポロと涙が零れ出た。
―――魔王が復活すれば、この手も失うことになる。
(そんなことも、わかっている。わかっているの! だけど!)
しばらくその手に心を預け、こぼれるままに涙する。父親は、そんなリズをそっと抱きしめてくれた。
(私は聖女だ。この手を、この場所を、家族を、そして…愛しい彼を、守らなければ。)
涙が溢れて止まらない。不安だらけだ。怖くて仕方がない。それでも!———今まで取りこぼした分を、これから補って行かなければならない。聖女として覚醒していない自分にできることは。ヒロインがヒロインであるために、使える魔法があることはゲームの知識で知っている。魔法が効かないとされている王族にさえ使えると言われる、そのやり方も。
―――魅了。それは、禁術。
ゲームのストーリーを振り返り、今の自分がいる地点を確認する。リズが望まないハッピーエンドを、目指す。帰りたくない。それでも。
そう決心してしまえば、ずっと靄がかかっていたような頭が、少し冴えてくる。見ないように、考えないように、自分を守るために…自分で靄をかけていたのだと気づく。自分のためだけに、この世界を犠牲にしようとしていたのだ。
さて、そうとなれば。聖女に覚醒していない自分には、陛下の前で魔王が復活するという予言などしたところで信じてはもらえないだろう。その代わりをしてくれる人を、捜さなければならない。復活の兆しを見つけることができて、それを陛下に報告できる人を。
リズは涙を手のひらで拭って、「お父様、お願いがあるのです。」と言った。
◆
ダニー・ヒルと名乗った王宮の文官は、あの時リズが伝えたことを、とてもよく調べてくれたようだった。魔法が、よく効いてくれたみたいね。――と、リズは先日届いた手紙を畳みながらかの優しそうな青年を思い出す。
ダニー・ヒルに会ってから、もう数ヶ月が経っていた。御前会議が開かれたことを報告してくれる手紙が届き、ギュッターベルグ地方の調査結果も、———具体的な数値などはさすがに書かれていなかったが———魔王復活の可能性を示す様々な現象を確認できたと書いて、手紙に添えてくれていた。
魔王が復活することを、中枢部では既に議論されていたことも書かれていた。ただ、公表するには次期尚早とのことで、できれば口外しないでほしい―――とも書いてあった。
そして願わくばもう一度、面会して話を聞きたいと。
(話せることなんて、何もないわ。)
リズは、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。常に頭の中をよぎるあの日の後悔と、前世へ戻ることへの拒否感、そして恐怖。膝の上に、おでこを乗せる。
ダニーは、リズが知っていること以上のことを報告してくれているし、後は全て自分次第なのだ。リズが覚醒できなければ、きっとこの世界は終わりを告げるのだろう。———ゲームオーバーという形で。そして、私は向こうの世界に帰るのだ。たくさんの後悔を抱えて。
トントンと、控えめにドアをノックをする音がする。そして、「リズ、起きてるの?」と、母の声がした。ドアが開き、心配そうな顔をした母が入ってきた。
リズは、あれから結局アカデミーに行けないままでいた。リズが引きこもるようになってから、両親は一気に老け込んでしまった。原因が自分にあることはわかっていても、身体が動かなかった。
(でも、このままでは…。)
何度流したか分からない涙が、リズの頬を伝う。母親がベッドの端に腰掛けて、リズの背中をさする。
「ごめんなさい。」
出たのは、小さな小さな声だった。
「リズは、何も悪くないのよ。」
こうなってしまった理由を、無理に聞き出そうともしない。リズをいつも信じてくれる両親。育てて来たリズではない誰かがそこに入っているというのに、それに気が付かないフリをして、変わらぬ愛を注いでくれた。そんな愛情に甘えて、それを失いたくなくて、目を逸らした。
もういい加減、動き出さなければ間に合わない。学園に行って、出会い、話さなければ。でも、———行きたくない。
アルベルトに謝らなければ。でも、———どんな顔で会って良いのかわからない。
でも、でも、でも…と、たくさんの言い訳を身に纏って、戦っているようだった。―――自分という敵と。わかっているのだけど。
「アカデミーは、辞めてしまっても良いのよ。」
リズの心を読んだかのように、母親が優しい声で言う。どこまでも甘やかしてくれる母親の言葉に、ちょっとだけ肩の力が抜ける。そして、安心させたくて笑う。
―――うまく、笑えただろうか。
「明日から、また登校します。」
そう言って、母親の顔を見れば、とても驚いているようだった。
「無理はしなくても良いのよ、本当に。体調が良くないからと書類を提出すれば、退学だって、休学だって、」
「会わなきゃいけない人がいるの。」
このままでは、また甘えて動けなくなってしまいそうだ。リズに甘すぎる母親の言葉に揺らぐ前に、決心した事を告げる。
「会って、話さなくちゃいけないの。そして、やらなきゃいけないこともあるの。」
母の顔は、ますます心配そうになるばかりだ。安心させたくて、笑みの形を作る。うまく笑えている気はしないけれど。
「ママ、本当にありがとう。」
そう言って身体を傾ければ、母親はリズを抱きしめてくれる。温かくて、心の中の何かが溶け出して、頬を涙が伝った。
◆
久しぶりに登校したリズは、不思議な気持ちでいた。自分のクラスに、———アルベルトがいない。
なんとなく想像できていたことではあるけれど、それにホッとした自分がいた。会って何を話したら良いかわからないし、何よりも顔を見たら泣いてしまいそうだった。もちろん、寂しいと思っている自分もいる。
「長いことお休みになられていましたが、体調の方はもう大丈夫なんですの?」
久しぶりに登校してきたリズに、一番に話しかけてきてくれたのは、前にアルベルトのことを色々教えてくれた女の子達だ。
「心配しましたわ。」
「あの魔獣の近くにいたのですものね。怖かったでしょう。」
「あれから学園にも調査が入って、大変だったのですよ。」
口々に心配していることを告げ、いない間にあったことを聞いてもいないのに報告してくれる。ワイバーンの件は口止めされていること。保護者からの陳情により、アルベルトが上級貴族のクラスに変更になったこと。そして、皇太子殿下の婚約者であらせられるイザベラ様が、自分のことを訪ねてきたことを知る。
(イザベラ様が? なぜ)
「あなたが登校していないことを言ったら、すぐに帰ってしまわれたけど。きっと彼のことで聞きたいことでもあったのよ。」
「それからすぐだったものね、彼がクラス変更になったの。」
「まさかあれほどの魔力持ちだったとは、驚きでしたわ。ちょっと怖いぐらいでしたもの。」
アルベルトの件は「やっぱり」という感想だった。彼が皆から遠巻きにされていた事実を知り、それも自分のせいだと落ち込んだ。
そんな彼を見かけたのは、それからすぐのことだった。黒髪だからとても目立つ。嫌でも視界に入ってくる。遠目に見るアルベルトは、常に皇太子殿下の後ろに控え、さながら護衛のようだった。それでもまだ目を合わせる勇気が無く、すぐに目を逸らしてしまう自分が情けなかった。
―――殿下に、早く会わなければ。でも殿下の側には…。
アルベルトには、会いたくない。でも…
皇太子殿下が一人になるタイミングを探していたが、結局そんなタイミングは訪れず。数日後、リズはいよいよ諦めて、放課後に生徒会室へと向かった。
◆
「私は、聖女です。」
そう告げると、皇太子殿下は驚き固まったようだった。普段、少し微笑まれるぐらいで、あまり表情を変えられない方だ。きっと、相当な驚きだったのだろう。
名は、———既に名乗った。出会いは、果たされた。
あとは…。
リズは髪の毛先に手をやりながら、「一緒に、魔王を封印しに行きましょう。ウィルフレッド・フォン・リジルアール様。」と告げた。
(できた。)
リズは、小さく息を吐いた。ウィルフレッドはより一層大きく目を見開き、右手を胸にやり、心臓を鷲掴むような仕草をした。さすが、王族と言って良いのかもしれない。リズが何をしたのか、わかっているようだった。
「なぜ、それを…?」
そう言いながら、ウィルフレッドは少しよろめくようにして、執務机の椅子に座り込んだ。
「前にいた世界で教えられたんです。魔法をかける前に、その人のフルネームを告げれば、強力な魔法反射を持つ王族にさえも確実に魔法が効くようになると。確かに、回復魔法をかけるのに、反射されては困りますもんね。」
王族と、その専属医師しか知らないことをさらりと言われ、ウィルフレッドは慄く。魔法反射は、王族がその身を守るため生まれたときからかけられている状態異常のことだ。剣や弓といった物理攻撃は護衛が防ぐことが出来るが、遠くから魔法を飛ばされては、身を守れない場合もある。そのためにかけられているもので、俗に「魔返し」とも言われている。そのままでは、いざという時の回復魔法まで反射してしまうため、その抜け道として「フルネームを呼ばれた時だけ魔法が効く」という制限がかけられているのだが。フルネームを呼ぶことで、その魔法の効力を倍増させるという効果もあるらしい。
「本当は、こんな形で使うものじゃ無かったんですけど、今回は色々と間違ってしまったので、———ごめんなさい。」
ウィルフレッドにかまわず、リズは続けた。
「私がこの世界に転移したのは、アカデミー入学の直前です。本当はもう、聖女として覚醒してなきゃいけなかったのに、色々あってまだ出来ていないんです。」
自分が聖女だと少しでも信じてもらえるように、前の自分を表に引っ張り出す。信じてもらえなければ、後はない。絶対に、嘘はつかないと決めた。
「私は知っています。魔王はギュッターベルグ地方の山奥にある修道院の地下深くに封印されていて、その封印が二年後に崩れます。封印をし直さなければ、この国がどうなってしまうのかは分かりませんが、おそらくゲームオーバー、そして私は元の世界に返されて、全て最初からやり直しです。」
(だって、一回もセーブしてないもの。でも、これで信じてもらえなかったら―――万事休すだ。)
リズは、ウィルフレッドの反応を伺う。ウィルフレッドは少し逡巡しているようだった。
「異世界から来た、ということか。」
ウィルフレッドは胸の前で右手を握りしめながら、リズの目を見る。その裏の脳髄の奥まで探っているかのようだ。
「そういうことに、なります。」
リズも、その目を見つめ返す。魔法はじわじわとではあるが効いてきているはずだ。それでも、態度に全くと言っていいほど変化が現れていないのは、さすが皇太子とでも言うべきだろうか。
「では、この魅了の魔法の意味は?」
「本当は、私と殿下は恋仲になっていなければならない時期なのです。でも、私が出会いを避けてしまっていたので。自分にもかけられれば良いのですが、殿下にはもともと生まれ持った魅了の力があるようですから、まあこれでどうにかなるかなと。私と殿下、どちらが欠けても封印はできませんから。それに…、」
リズは言葉を切って、目線を逸らした。
「できれば、死にたくないので。」
「そうか。」
伝えられた理由が、あまりにもありがちなそれであったからか、ウィルフレッドの口元が緩んだ気がした。そして、彼は目を瞑った。また、何かを考えているようだった。リズは静かに返答を待ちながら、背中に感じるドアの向こう、黒髪の彼を思い出していた。部屋を出るように言われた時の、憮然とした表情。彼は、私のことではなく、ウィルフレッドの事を心配していた。ずっとずっとただ申し訳ないとだけ思っていた心が、少しだけ軽くなった気がした。
不敬罪を問われることも覚悟で来た。これは、賭だった。王宮の中枢部では既に議論されていたというダニー・ヒルの報告を信じるしかない。
(法廷で判決の時を待つのは、こんな気分なのかな。でも、やれることはやったわ。)
ウィルフレッドが目を開けて、再びリズを見た。
「わかった。それで、聖女殿は今後どうされることをお望みか。」
(…信じて、もらえた。)
リズの目から、ポロポロと涙が零れ落ちてくる。
「…ありがとうございます。信じてくれて。」
「…うん。」
ウィルフレッドはただ頷いただけだったが、リズにはとても優しい響きに聞こえた。———この人となら、戦える。
包み隠さず、全てを話す覚悟を決める。このゲームが本来どんなシナリオだったのか、リズが何をして、何をしなかったのか。これからの、この温かい世界を救うために。廊下で二人を待つ彼を、守るために。
◆
ギュッターベルグへの派兵の陣頭指揮が誰になるか決まらないまま、騎士団では着々と部隊編成がなされていった。表向き隣国との情勢悪化が理由になっているが、それでもかなり極秘裏に話は進められている。
魔術研究室の方でも、魔術師団として派遣する数名の推薦が、ジョン・ノア室長によって為されていた。こちらはまだ完全に水面下での打診である。魔術研究室の訓練場では、そのための訓練が追加され、時には騎士団も合同で、実践に近い形での訓練も行われていた。
その訓練時間が終わると、静かになった訓練場に、明らかに場違いな可愛らしい令嬢がやってくると噂になったのは、まだ数日前のことだ。
リズは、聖女として覚醒するために出来ることを探していた。そして、そんなリズにウィルフレッドが提案したのは、魔術制御の訓練だった。———溢れ出たままの魔力。それを制御することを覚えれば、聖女としての術も使えるようになるのではないかと。
しかし、魔術研究室の室長がつきっきりで魔術制御を教え、時には皇太子が来て協力することもあったが、結果は思わしくない。ワイバーン事件のようなイベントが起きなければ覚醒できないかもしれない―――そんな不安が、リズを焦らせていた。
学校終わりに、少しの時間だけでもと訓練に来ているのだが…。できるようになったことと言えば、あれから溢れ出るようになった魔力によって、珍しいとは言えただ聖属性の魔法を使えるようになっただけだ。
魔王を封印する力はこれではない。覚醒の仕方がわからない。あのゲームにワイバーン事件以外の覚醒条件は無かったはずなのだから。
皇太子との関わりが重要かもしれないということで、二人でいる時間も増やした。それが、新たな問題を引き起こすことは想像していたけれど、それでもやらねばならないことだったから。
「皇太子殿下がお優しいから相手にしてくださっているだけだとおわかりにならないの?」
「男爵令嬢の分際で。」
皇太子との時間が増えると、それに比例するかのように陰口をたたかれるようになった。時には陰口だけでなく、直接文句を言いに来る令嬢もいる。呼び出され、頬を叩かれることもあった。「前世は、このまま不登校になったんだっけな。」と、リズは人事のように考えていた。しかし、気にしてなどいられない。「私がやらなければ、貴女たちもどうなってしまうかわからないのよ。」と、心の中で反論する。
しかし、ある日、リズは人気の少ない温室に呼び出された。そこにいたのは同じクラスの生徒数名だった。
「みっともないことやめてくれない?」
「私たちまで変な目で見られるんだけど。」と、口々にリズを責めてくる。
肩を押され、壁際に押しやられる。逃げ場が無くなる。まさか、自分のクラスメイトにさえそう思われていたとは。リズは、今にも零れ落ちそうな涙を堪えた。その時だった。
「貴女たち、こんな所で何をしていらっしゃるの?」
リズは、自分を囲むクラスメイト達の向こう側に現れた女性に目を見張る。誰もが惹きつけられる声に、一斉に振り向くクラスメイト達。息を飲む音がする。青ざめ、震え出すものも。
「私の声が、聞こえなかったのかしら?」
ゆっくりと紡がれる言葉には、不思議な重さがあった。そこには、皇太子殿下の婚約者であり、公爵家のご令嬢であられるイザベラ様が、心底不思議そうな顔をして首を捻っている。暫く下を向いて固まっていたクラスメイト達だったが、その中で一番身分の高い子爵家のご令嬢が、頭を下げたまま口を開いた。
「恐れながら、申し上げます。彼女は、男爵令嬢という身分も弁えず、皇太子殿下に話しかけるという無礼を働いていたため、クラスメイトととして注意申し上げていたところにございます。」
「そう。」———イザベラ様は、それが大したことでも無いというように答えた。
「しかも、皇太子殿下には貴女様という婚約者様がいらっしゃいます。」
きっと賛同してもらえると思ったのだろう、彼女ははっきりとそう言ったのだが。
「あら、私の事は全く気にしてくださらなくて結構よ。」と、事も無げに返されて、皆、思わず顔を上げてしまった。
「殿下にはお考えがあるのです。貴女たちは気にせず、今為すべき事を為さいませ。」
そう言って、イザベラ様はニコリと微笑んだ。何も反論は受け付けないとばかりの空気を含んで。そう言われてしまえば、何も言い返せる訳もなく。クラスメイト達はお互いに顔を見合わせると、口々に挨拶をしてその場から去っていった。
(もしかしたら、殿下から何か聞いているのかも知れない。)
そう考えたリズは、「助けてくださり、ありがとうございます。」と頭を下げた。するとイザベラは笑みを深めて、「私は、貴女の味方ですもの。」と言ったのだった。
◆
~魔王復活まであと一ヶ月~
リズは荷物をまとめながら、異世界転生者だと言っていた、あの茶色の瞳を思い出していた。
初めて会ったのは、アカデミーを卒業してすぐのことだった。アルベルトに本を返しに行こうと、フィッシャー商会の場所を人づてに聞きながら向かっていたときに偶然会った、「レティ・ブラン」と名乗る同い年の女の子。興味津々にリズを見つめるあの瞳が、少し怖かった。
「リズさんて、ヒロインですよね?」と突然聞かれ、頭が真っ白になった。
―――彼女は何を知っている?このゲームのシナリオを?聖女なのに覚醒できていない自分を責めている?
手に持った最後の服を鞄に詰めて、その蓋を閉めた。思ったよりも小さくまとまった荷物に、この世界への未練を感じる。両親とこの身体の持ち主であろうリズに宛てた手紙は、鞄の奥底に入れた。
まくしたてるように話す茶色い瞳の彼女に圧倒されつつも、話を聞いている内に、彼女はただ「自分が転生者」であることと、リズの「髪色がストロベリーブロンドなのはヒロインである」という、ただそれだけのことで話しかけてきたことがわかった。 何も疑わず、一直線に感情を向けられる彼女が羨ましかった。
前世もきっと友達が多かったんだろうな、と思う。いじめとか、全く無縁にいたのだろうな、と。
もしかしたら、同じ時代に生きていたかもしれない女の子。自分もその時代に生きていたと、伝えてしまえばまた違ったのだろうか。自分のことしか考えていなかった、そんな卑怯な自分を認めたくなかった。そしてリズは、こちら側の世界に来てつき慣れた嘘を、息を吐くようにして彼女にもついたのだった。
あの時は、彼女と別れた後、そのまま走るようにして家に帰った。自分の部屋に向かい、ドアを閉め、立ち尽くした。返せなかった本に目を落とした。
そんな私のことを、友達と言ってくれて、明るくて、ドジで、一生懸命で、何もかも自分と違う、———私の好きな人が、好意をよせる女の子。
彼女も、向こうの世界でこのゲームをやったことがあるだろうか? けっこう有名なゲームだったけれど。もし知っていても、だいぶシナリオから外れてしまっているから、わからないかもしれないな。
―――そう考えて、リズは少し寂しい気持ちになった。
彼女がヒロインだったら、きっと何も迷わずに覚醒して、魔王を倒しに行くのだろう。皇太子と恋をするかどうかは、別にしても。そんなことを、彼女と話せていたら…。何にも関係のない向こうの世界で、お互いの感想なんかを話し合えていたら…。
―――きっと楽しかっただろうな、と想像して、リズは笑った。
トントンと、ドアを叩く音がした。
「入っても良いかい?」と、優しい声が聞こえ、「どうぞ。」と答えれば、ドアの向こうから心配そうに微笑んだ父親の顔が覗いた。
「準備はできたのかい?」
「うん。」
父親がさみしそうに肩を落とし、両手を伸ばし、そしてそっとリズを抱きしめる。
「辛くなったら、いつでも帰っておいで。」
そう言って、小さい子にするように頭を撫でる。
「ありがとう。パパ。」
エンディングを迎えてしまったら、ここに帰ってくるのは今の私ではない———と、リズは確信している。それでも、私は戦うためにここに来たのだ。パパやママを守るために、聖女になると決めたのだから。
でも、まだ覚醒はできていない。それでも、時は待ってくれない。焦る気持ちを、今だけは忘れることにする。
父親に付き添われ、玄関に向かう。迎えの馬車は、それからすぐにやってきた。鞄を持つ手に力が籠もる。リズの後ろにいる母親が、啜り泣く音がする。
二頭立ての馬車が少し離れた所で止まり、馬達が踏鞴を踏み、馬車が揺れた。御者が降りてくる前に馬車の扉が開いて、そこから現れた人物にリズは自分の目を疑った。
「アル…ベルト。」
―――それは、誰よりも会いたくて、何よりも会いたくなかった人。
馬車から降りたった彼は、リズの前まで一直線にやってきて、恭しく跪いた。そして、騎士がするようにリズの手を取り、「この度は、聖女様をギュッターベルグまでお送りする栄誉を賜りました、魔術研究室所属のアルベルト・フィッシャーです。何なりとお申し付けください。」そう言って、その黒い瞳で上目遣いにリズを見上げると、———「なんて、な。」と言って、彼は破顔した。
しばらく時が止まったようだった。
その懐かしい笑顔から目が離せないでいる内に、リズの目に涙が浮かぶ。そして、「ふふ。」と笑った。
アルベルトが手を伸ばし、リズが持つ鞄を軽々と受け取ってしまう。そして、リズから少し距離をとった。リズは涙がこぼれる前に、荷物が無くなって空いた手の甲で目尻に溜まったそれを拭い、振り返って両親に向き合う。母親は昨夜からずっと泣いていたのだろうか。腫れた瞼を隠せていなかった。
三年という短い時間だったけど、ずっとリズを愛してくれた人達。貴女たちの本当の娘が無事に帰ってくることを、リズは願う。
「行ってきます。」と言うと、父親がリズを抱きしめた。
「無理してはいけないよ。」と父親が言う。
「はい。」と言って離れれば、もう涙をポロポロと零したままの母親が、強く抱きしめてくれた。
「辛くなったら、いつでも帰ってくるのよ。」と、耳に温かい息がかかる。頬に触れた涙も温かかった。
「ありがとう、ママ。」そう言って、リズも抱きしめ返した。
一歩下がり、二人の顔を見る。もう一度、「行ってきます。」と言って、頭を下げた。———優しい時間を、ありがとうございました。そう、心の中で呟いて。
そのまま背を向ければ、アルベルトが馬車の前で待っているのが見えた。そして、リズはいよいよ馬車に向かって歩き出したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます