第3話 【主人公】リズ・シュナイダー男爵令嬢

 ~魔王復活の三年前~



 リズは、自分がヒロインであることを知っている。


「ヒロインだった。」というのが正しいのかもしれないが、そこはまだ確信できていない。

 

 三年前、黒髪黒目だったリズは、まだこの世界にいなかった。リズが、「リズ」という名前でさえ無いその世界は、魔法は物語の中だけのものであり、科学至上主義であるリズにとっての「前の世界」。世界を造り給うた神はその存在感を失い、常に求められる原因、理由、そして結果。科学で証明されないものはない。それは、夢も希望も同じだった。魔法使いになりたいと言えば鼻で笑われ、冒険者になると言えば現実を見ろと言われる、そんな世の中だ。


 まあ、でもそんなことは、どうでも良い。リズも、子供の時からそういうものだと思っていたのだから。ただちょっと、科学で証明できないもので溢れる世界を、夢見るのが好きだった―――というだけで。

 


 二学期が始まって、すぐのことだった。セーラー服という同じ鎧を着たクラスメイトから、同じように日々を過ごしているだけだったはずなのに…どうやら、嫌われた…らしい。

 


 クスクスと聞こえてくる笑い声。

 

 机の落書き。


 捨てられた教科書。

 

 お腹が痛いような気がする。

 学校に行きたくない。



 そして、一日休み、二日休み…としている内に「行きたくない。」は「行けない。」に変わり、気がつけば週のほぼ大半を休むようになっていた。

 

 学校を休んでいる間、ほぼ毎日家で過ごしていたというのに、一緒に暮らしているはずの母親は気がついていなかった。当たり前だ。ほとんど、家に帰ってこなかったのだから。たまに帰ってきたと思ったら、お酒の匂いをプンプンと振りまきながら、母親を捨てた父親と母親自身の人生を嘆き、それらを全てリズのせいにするのだ。

 


「あんたさえ、いなければ。」


「産まなきゃ良かった。」


 

 母親からぶつけられる言葉は、リズにとって呪いのようなものだ。耳を塞いで、部屋の片隅で蹲る。ただ、早く大人になりたかった。


 その日、夕食にととっておいたポテトチップスの袋を開けて、ゲームを起動したところまでは憶えている。かなり気に入ってやり込んでいたから、ほぼ全てのルートを知っている。そんなゲームの新しいセーブデータを立ち上げて、そこで世界が一転し、気がつけばそこは夢の中…。いや、———現実だった。

 


 主人公、リズ・シュナイダー。

 


 リズは、知っている。ストロベリーブロンドの髪を持つ彼女は、これから貴族のご子息ご令嬢が通うアカデミーに入学し、聖女としての力を覚醒させる。そして、これから生まれてくるであろう魔王からこの世界を救い、共に戦った王子様と幸せになるのだ。


 

 コンコン―――と、控えめにドアをノックする音がする。そっと開けられたドアの隙間から、心配そうな、それでいてとても優しい声がかかる。

 


「リズ、体調はどう?」


 

 リズは、突然現れたかのようなこの世界に来てから何日経過したかわからないけれど、ただ呆然とした日々を送っていた。男爵令嬢としての子供の時からの記憶もある。でも、頭が追いついていかなかったのだ。


 

「ありがとう、もう大丈夫。」


 

 それでも、緩やかな時間を過ごしていく内に、ゲームの世界に転移したのだと、だんだん受け入れられるようになったのは、「無理しなくて良いよ。」と背中をさすってくれる優しい家族のお陰だった。



―――リズの、家族。


 

 ベッドの脇まで来て端に座り、おでこに手を伸ばされる。心配そうに見下ろされ、少しだけ冷たい手が触れると、心の中に滞っている何かが少しずつ溶けていくような…そんな気がした。



「夕食は食べられそう?」

「うん、少しなら。」

「じゃあ、部屋に運ばせるから、一緒に食べましょうか。」


 

 そう言って、リズの母親はおでこに置いた手でリズの髪を梳くようにして蟀谷をなぞると、ニコリと目を細めて立ち上がる。そして、「ちょっと待っててね。」と言って、部屋を出ていった。

 

 ここには、リズを甘やかしてくれる、頼れる両親がいる。今日何があったかを、温かいご飯を食べながら、嬉しそうに聞いてくれる。そんな両親に、リズは今日あったことのようなたわいもない話をしながら、———涙が出そうになるのだ。


 ベッド脇に置かれたテーブルに、二人分のトレーが置かれる。食が細くなってしまったリズのために作られた、優しい味のスープとパン。そして、水分をたっぷりと含んでいそうなフルーツ。母の方のトレーには、それに加えてサラダが付いていた。



 リズは———、自分が寂しかったのだと、この世界に来てやっと気がつくことができたのだった。


 

 しかし、目をつぶれば…そこに見える【セーブしますか?】の文字。リズは、これを押してしまえば元の世界に戻ってしまうということに、なんとなく気がついている。だから、見て見ぬ振りをした。


 

【セーブしますか?】


 

 これは、呪いの言葉だ。絶対に、頷かない。エンドロールにも近づかない。


 かなり、やり込んだゲームだ。ほとんどのルートを知っている。絶対に、その先にあるハッピーエンドを避けてみせる。———と、リズは心に決めたのだった。

 

 そしていよいよ、アカデミー入学の日を迎える。

 

 



(本当にいる。)



 アカデミーの入学式で、リズが思わず呟きそうになった言葉だ。

 

 壇上、堂々たる佇まいで新入生代表の挨拶をする皇太子。記憶通りに過ごしてしまえば、将来リズの伴侶となる人、そして次期国王。それを真正面の席で姿勢正しく見ている女性、皇太子の婚約者である公爵令嬢だ。


 彼らが、ゲームスチルそのままの姿で、まさにそこにいた。

 

 今は、ゲームのオープニングだ。わくわくしたはずの場面で、新しい制服を身に纏い、再び気持ちを奮い立たせるリズ。乙女ゲームではないため、相手は皇太子のみ。ハーレムエンドなど、当然無い。あるのは、ハッピーエンドだけだ。



(有名なRPGでも、相手は選べたりしたのに…。)



 そんな風に元の世界を思い出しながらも、リズはハッピーエンドを回避するため、フラグは絶対に立てないと新たに決意をするのだった。

  

 厳かに執り行われた入学式の後、生徒達はそれぞれの教室へと移動する。クラスは貴族の家格によって分けられていて、男爵家の令嬢であるリズは、皇太子や公爵家ご令嬢とは別のクラスである。彼らと出来る限り関わりたくないリズにとっては、非常にありがたいことだった。


 リズのクラスは子爵、男爵家、準男爵家の子息令嬢しかおらず、教室に入ってみれば、既に想像以上に気楽な雰囲気が漂っている。なんとなく「前の世界」と変わらないそれにピリッと緊張が走るが、自分の席を見つけたリズはホッと息を吐いた。

  

 隣の席は、準男爵家の男の子だった。この世界には珍しい黒髪に黒目だったが、リズにとってそれはかえって見慣れた色である。しかし、本来なら重要キャラであっても良いはずの「黒」。それなのに、どれだけ思い出しても彼のような存在が出て来た記憶は無かった。

 席に着くとき、既に座っていた彼に「私、リズ・シュナイダー。お隣、よろしくお願いします。」と挨拶をすれば、その子はちょっと驚いた顔をした後、「アルベルト・フィッシャーです。よろしく。」と笑顔で返してくれた。 

 




「リズってさ、変わってるってよく言われるだろ。」

  


 入学式から二週間ほど経った頃、隣の席のアルベルトとは既に名前を呼び合うようになっていた。男爵家と準男爵家、身分が似たようなもので気楽だったというのもあるが、お昼の時間、多くの生徒が食堂を利用する中、お弁当派のリズと朝買ってくる派のアルベルトは教室にいることが多かった―――というのが、大きな理由だろう。

 


(そりゃあ変わってますよ、異世界の人間なんだから。)



 心の中で呟きながら、「言われないよ! どんな所がよ!」とリズが怒ってみせると、「そういうところがだよ。」とちょっと困ったように笑うアルベルト。

 

 アルベルトは、魔力持ちの証であるかのような黒髪黒目の容姿にコンプレックスがあるようだった。王族以外の魔力持ちは、とても珍しい。しかも、目を引く色をしているため、なんとなく遠巻きに見られたり、時には嫌なことを言われたりもするらしい。「王族と一緒の能力」というのが、どうやら良くないようだ。


 こういったことを教えてくれたのは、それなりに仲良くなったクラスメイトの女の子達だ。「リズのために。」と言いいながらもたらされる情報は、やはり想像通りの内容で…。そういう感じは、どの世界も変わらないのだなとリズは思った。


 けれども、そう言われてみれば確かに、アルベルトの周りにはあまり人がいない。誰かが話しかけていたとしても、どこか余所余所しい感じだったりする。アルベルトから話しかけている姿は、全くと言って良いほど見たことが無い。でも、だからこそ…、その隣がリズにとって居場所のようになっていくのは、あっという間のことだった。

 


(教室で、友達とたわいもないお喋りをすることが、こんなに幸せだったなんてね。)

 


 目を瞑ると、常にそこにある【セーブしますか?】の文字。絶対にしない。あの世界には戻らない。しかし、もうすぐ一つ目のイベント、新入生歓迎のパーティがある。なんとかして、それを切り抜けなければならない。


 

「ねえ、アルベルトは今度のパーティ、誰かエスコートしたりするの?」


 

 お弁当の最後のおかずを食べ終えたところで、リズはふと思ったことを聞いてみた。確か一人でも参加可能だが、婚約者が既に決まっていたり、恋人同士だったりする子息令嬢達は、連れだって参加するものらしい。


 

「俺?」


 

 アルベルトは右手にサンドイッチを持ったまましばらく固まったかと思ったら、「不参加。」とはっきり言ってから、大きな口を開けてがぶりとサンドイッチに噛みついた。


 

「へ? それってありなの?」


 

 リズは、驚きすぎて変な声が出た。まさか、「出席しない」なんて選択肢があると思わなかったからだ。 

 アルベルトは口に入れたサンドイッチを3回ぐらい噛んで、ゴクリと音がしそうな勢いで飲み込むと、「別に、ありだろ。衣装とか準備できないから参加しない奴だって、いるに決まってる。」と、肩を竦めて事も無げに言った。


 

(そっか、それもありなのか。)


 

 リズは、思わずにやけてしまいそうになる口元を隠すため、弁当箱を片づけるフリをして下を向いた。イベントそのものを回避する!———そう思ったら、楽しくて仕方がない。

 


「まさか、お前もサボるとか言わねーだろうな。」 

 


 アルベルトが、ちょっと驚いた顔をして下を向いてしまったリズの顔を覗き込む。にやけているのがバレたのかもしれないが、でもそんなことはリズにはもうどうだって良かった。

 


「えへへ~、どうしよっかな~。」


 

 そう答えたリズだったが、もう既に休む以外の選択肢を考えられなくなっていた。

 


(よし、次の授業の間、これから起こるはずのイベントの内容をもう一度復習して、それが無くなったらどうなるか、それによって今後のイベントがどうなりそうか考えよう。)



―――そして、確実に逃げ切るのだ。

 


片づけ終わった弁当箱を握りしめ、小さく「うん」と頷くと、「だからさ、そういうところだぞ。」とアルベルトが笑っていた。

 



 新入生歓迎のパーティは、皇太子との出会いイベントだ。パーティー会場の入り口で、他クラスの男子からしつこく言い寄られて困っている主人公を皇太子が助ける―――という、ベタなもの。そこで名前を聞かれ、答える。ただ、それだけだ。

 出会うだけのイベントなので、大事なのはその後だと思っていたし、出会うぐらいは仕方がないと諦めていた節もあったのだが…。


 人生初めての「パーティー」という物に、興味が全く無かったかと問われれば、どうかなと悩むぐらいには興味があったということも認めざるをえない。学生だけとはいえ、初めての大規模なパーティーだ。母親もここぞとばかりに張り切って、ドレスも既に注文済みだった。


 それでも目を瞑れば、今では地獄への招待状にも見える【セーブしますか?】の文字が浮かんでくる。 


 休むという発想は、全く無かった。でも、休める可能性があるとわかってしまったなら、もちろん休みたい。イベントを回避できるなら、それに越したことはないのだから。既に散財させてしまっているのは分かっているが、まずは両親への懇願だ。ということで、リズはその日の夕食の際、おずおずとそのお願いを切り出した。しかし、リズの心配はいともあっさりと裏切られ、それこそあっさりとサボることを許された。

 パーティーを休みたいと両親に素直に相談すれば、無理をするようなことでもないと、すんなり認めてくれたのだ。なんなら、社交界デビューまで娘のドレス姿はお預けにして、一番最初のエスコートは私がするのだと父親が張り切る始末。


 完全に、拍子抜けであった。

 

 「元いた世界に帰りたくない」という思いは、日に日に強くなる一方だ。またあの一人ぼっちの生活に戻るなんて、想像しただけで苦しくなる。

 

 そんなこんなで、今日のリズは家で「サボり」である。


 自分の部屋に引きこもり、先日アルベルトに借りた本を手に取った。それは元の世界でも見たような、勇者が出てくる冒険の物語だった。あのアルベルトが、こんな可愛らしい物語を読むなんて…と、最初は心の中で微笑ましく思ったものだが、読んでみたら想像以上に深い話で、あっという間に引き込まれた。

 リズからのデートのお誘いを断ったお詫びにと借してくれたのは昨日のはずなのに、もうエンディングがすぐそこである。

 

 パーティーの日の数日前、仲良しサボり組のアルベルトに、パーティー当日は何をして過ごすのかと聞いてみたら、腐れ縁の幼なじみと約束があるのだと言う。せっかく美味しいカフェを教えてもらったから、誘おうと思ったのにとふてくされてみせれば、アルベルトは「わりぃ、わりぃ。」と、特に悪びれた風も無く謝った。


「そいつ」とは、商家の子供同士、妙に気が合うし、何より昔っから色々と助けられているのだと。「でも、すげぇバカなんだよ。」と、アルベルトは嬉しそうに笑った。

 

 男の子の友情って、羨ましいな———と思う。こちらの世界に来て女の子の友達もできたけど、やっぱり少し気を使う何かがあるのは、向こうとそう変わらない。


 アルベルトがその幼馴染について話すときの笑顔を見ると、なんだか友達を取られたようでつまらない。———そう思ったリズは、「今度、その幼なじみを紹介してよ。」と、自分も仲間に入れてくれと、そうアルベルトにお願いしてみたのだが、「お前とあいつ、妙に気が合いそうだから、絶対ヤダ。」と、本当にあっさりと断られたのだった。

 

 それが一体どういう意味なのか―――アルベルトに借りた本を読みながら、リズはずっと考えてしまっていた。視線は物語終盤、一番盛り上がる場面の文字を追っているはずなのに、話が頭に入ってこない。

 

―――きっと深い意味は無い。そう思おうとしても、なぜか深読みしてしまう。

 


 教室の中で、自分に居場所をくれるアルベルト。


 懐かしい色を纏うアルベルト。


 幼なじみに会わせるのを「絶対にヤダ。」と、子供みたいに言うアルベルト。

 


あいつ・・・に取られたくない。」と、そう言っているのではないかと勘違いしてしまいそうだ。


 違う。絶対に違う。

 

 でも…

 

 本当に…?

 

 

 それからというもの、リズがアルベルトを意識するようになるまで、時間は全くと言って良いほどかからなかった。それが勘違いだったのだと気がつくのも、悲しいぐらいにすぐのことだった。

 


◆ 


 新入生歓迎のパーティーも終わり、学園生活にも皆が慣れてきた頃、事件は起きるはずだった。


 いや、事件は起きた。


 ———結果が違ってしまっただけだ。


 

 リズが、出会いイベントをいとも簡単に回避してしまったからといって、特に大きな変化は起きていなかった。皇太子が在籍するクラスの教室はリズの教室からずいぶんと離れていたし、リズが食堂などに赴くことも無かったため、皇太子に出会うことさえもまだだった。皇太子に出会って少しずつ成長していくはずの恋心も、出会ってもいない相手に芽生えるはずもない。

 しかも、リズは自分がアルベルトを意識していることに気がついていた。これが恋かどうかはわからないが、好きなのかと問われれば「好き」という答えしか出てこないし、そこに彼がいるだけで嬉しいし、笑っていればお腹の上の方がギューッとする。いつでも側にいたいし、自分にだけ笑っていてほしい。


 しかし、彼には仲の良い幼なじみの女の子がいて、リズには紹介してくれないと言う。アルベルトが「あいつ」とか「あのバカ」とか言うから、その子の事を男の子だと思い込んでいた。けれど、ある日リズはやっと気がついたのだ。


 約束をすっぽかしたらしいその「バカ」から、お詫びにともらったというクッキーは、表面がちょっと焦げていた。


 今度一緒にデートスポットで有名なお店に行こうと勇気を出して誘ってみれば、「あいつ」と既に一緒に行ったばかりだと、複雑そうな笑顔で断られた。


―――少ない情報の中だけれど、確実にヒントはあった。

 

 彼は…、その幼なじみが好きなのだ。


 

 なんで気づくのに、こんなに時間がかかってしまったのだろうか。その理由も、分かっている。本当は、気づいていたのだ。認めたく無かっただけで。

 見て見ぬフリをしている内に積もり積もった恋心は、既に隠しきれない大きさになってしまった。

 

 でも…、

 

「あいつ」は、まだ「彼女」ではない。

 


(私は、主人公だもの。)



 ハッピーエンドさえ回避してしまえば…と期待する、この世界では何も諦めたくない…と舌なめずりをする、悪い顔をした自分がそこにいた。

 

 記憶にある次のイベントは、お昼休みに起きるとわかっていた。ゲームの中ではパーティーのすぐ後のように感じていたのだが、現実では少し時間が経ってからなのだとリズが知ったのは———「これは、イベントだ。」———と、気がついたまさにそのイベント開始の瞬間のことであった。



―――油断していた。



 出会いイベントを回避したことで、全てのイベントが無くなったのではないかとさえ思っていた。もう、このまま、この世界で…それがいかに甘い考えだったのか———ドドドドドドドという、立っていられないほどの大きな地響きを感じて、リズは近くにあった柱に慌てて掴まりながら、思い知る。

 


 校庭に響く、身体中を震わせる―――咆哮。

 


 穏やかに流れていたはずのお昼時に、どこからやってきたのか、魔獣ワイバーンが学園に現れたのだ。

 


 中庭に降りたったワイバーンの風圧によって、様々なものが吹き飛ばされていく。


 校舎を叩きつける風の轟音。


 窓ガラスの割れる音。


 地面に蹲る学生達。


 悲鳴。


 すぐさま駆けつけた騎士達の、武具のすれる音。


 避難を促す声。

 


 リズは今日に限って弁当を忘れ、食堂へと向かっていたところだった。まさに、それを待っていたかのようにやってきたワイバーン。


 

「生徒を急ぎ避難させろ!」

 

「近衛兵は皇太子の援護!」

 

「魔術師はまだか!?」


 

 飛び交う怒号。

 

 リズのほんの数十メートル先で、状況は刻一刻と変わっていく。でもイベントは全てリズの記憶の通りに進行している。見たことのある映像が、今地響きを伴って目の前にある。


 この後、どうなるかも知っている。

 

 でも、———リズは動けない。


 

「もう少しだ! 堪えろ!」

 

「一斉に攻撃魔法を仕掛ける! 全軍、前へ! 魔術師は詠唱準備!」


 

 ワイバーンは一騎。厳しく訓練された騎士達によって包囲されていく。そして、皇太子と王宮魔術師達の魔法によって、着々と追いつめられていった。

 


 これも、全て恐ろしいほどに記憶の通り。

 


 そう。そしてこの後、追いつめられたワイバーンが最期の力を振り絞り、皇太子達に向かって巨大な炎を吐き出すのだ。



 そこでリズは、———皇太子への想いと共に、聖女として覚醒する!


 

【セーブしますか?】


 

 リズは、確かにここにいる。


 

【セーブしますか?】


 

 でも! 覚醒したくない! お願い! 覚醒させないで!

 その場に、自分を抱きしめるようにして蹲り、目を固く閉じる。 


 

【セーブしますか?】



 

 もう、———ひとりになんて、なりたくない!

 



 ワイバーンが炎を吐き出そうと、首を大空に向けて持ち上げる。風を切り裂く音。


 もうダメだ―――と思ったリズの、横を駆け抜けていく足音に顔を上げた。リズの前、立ち止まったのは、溢れ出る魔力をそのままに髪の毛を振り乱したアルベルトだった。


 アルベルトは、あっという間に術式を完成させ、ありったけの魔力で氷魔法を展開する。

 

 吐き出される巨大な炎。

 

 皇太子達の前に一瞬にして立ち上がった氷壁。

 

 跳ね返される。

 

 そして! ギュワワワー―――と苦しげな叫び声と共に、がらがらと周辺の瓦礫を巻き込みながら、崩れ落ちるワイバーン。

 地面にワイバーンが叩きつけられ、地響きが起こる。より一層、高く舞い上がる土煙。

 


 ―――もたされる、静寂。

 

 

 そして…、

 


 うわあああああ!———と、割れんばかりの、大歓声と拍手喝采!

 

 

 イベントは、…確かに望み通り回避した。


 でも…、これでは…。

 


 巻き上がる土煙の中、そこに立ち尽くす愛しい背中が震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

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