第二編第八章第二節 殉国の鮮血
市ヶ谷台の防衛省A棟十一階にある防衛大臣執務室からは、都心の夜景が一望できる。だが室内の二人は夜景を楽しむでもなく、テレビ報道に釘付けになっていた。
画面は衆院選における、与党三党の惨敗を告げていた。佐藤優理也という狂人を、国民世論は決して許さなかったのだ。
本来なら総統として民社党の本部にいるはずの佐藤は、記者対応を党書記長に一任して大臣執務室にこもっていた。選挙特番ではマスコミが選挙速報に加え、早々に当確を出した佐藤の雲隠れを報じていた。
テレビの前に立ちつくす鈴木は、拳を握りしめて苦々しげに漏らした。
「やりうることは、全てやりました。……ですが、これ以上は無理です。佐藤小隊長、我々の敗北です」
「……ここまでですか。短い夢でしたね、鈴木二尉」
口にしていたバージニア・スリムを灰皿に置き、佐藤はため息をつく。鈴木は体を震わせ、涙を流しながら続けた。
「小隊長。自分は……自分は無念です」
「……いえ、まだです。まだ、憲法改正自体がご破算になったわけではありません。国民投票までには、一ヶ月もあります。改憲を主題とする壮大きわまりない芝居は、いまだ
思わせぶりな佐藤の口調に、鈴木がハッと顔を上げる。
「では、どうすると言うのですか?」
「前副校長が定年退官したいま、副校長のポストは空席です。……これが辞令書です。現在時をもって貴方を陸将補に昇任させ、武山高副校長に任命します。それに伴い、武山高生徒隊の指揮権は貴方のものになります」
佐藤は机の引き出しを開け、署名の
辞令書
職又は所属 陸上自衛隊武山高等学校
階級又は官級 2等陸尉
氏名 鈴木峰夫
発令事項 陸将補に昇任させる。
陸上自衛隊武山高等学校副校長を命ずる。
兼ねて、陸上自衛隊武山高等学校生徒隊長を命ずる。
発令日付 令和10年4月2日
防衛大臣 佐藤優理也
防衛省
そこに記された内容に、鈴木は
「……じ、自分が陸将補……? 自分は
「知っての通り、一佐以上の人事異動は人事教育局を通さなければなりません。彼らは最後まで抵抗していましたが、最終的には私の権限で正規の大臣印を押しました。超法規的辞令と受け取ってください」
「! 小隊長、まさか自分に生徒隊を率いて……!!」
「……私とて断腸の思いですが、他に選択肢はありません。陸上総隊直轄部隊の同志とも、既に話はつけてあります。誇りと価値観を失ったこの国が覚醒するためには、砲弾の嵐によって研磨されることが必要です。この国の戦争を知らない子供たちに、戦争とは何かを教育することが必要です。この仕事は、南スーダンで『本当の戦争』を見た者にしか果たせません。そしてそれを経て初めて、日本は国民国家としての神々しい輝きを取り戻すのです」
「……了解。鈴木陸将補、承りました」
鈴木は辞令書を受け取り、腰を折って敬礼した。
「武山高生徒隊は、憲法改正のシンボルです。選択の機会を確実に与え、決して生徒に無理強いはしないように。教え子を無為に戦場に送らないように。――最終確認です、鈴木副校長。『指揮の
「はい! 鈴木陸将補、暗誦実施します! 指揮の要訣は、指揮下部隊を確実に掌握し、明確な企図の下に適時適切な命令を与えてその行動を律し……」
鈴木は胸を張り、直立不動で要訣を述べ続ける。
「……指揮下部隊の掌握を確実にするため、良好な統御、確実な状況の把握及び実行の監督は特に重要である。以上、鈴木陸将補、暗誦実施しました!」
「――いいでしょう」
佐藤は再び机の引き出しに手をかけ、中から9ミリ拳銃を取り出した。
「狂うことでしか国を変えられないのなら、狂うほかに道はない。そう信じて、ここまでやってきました。……私には、この国の改憲派に夢を見せた責任があります。最後の最後まで、騙し通す義務があります。ですから私はこの夜をもって殉教者となり、自らの行いの証を立てなければなりません」
スライドを引き、薬室に9ミリパラベラムの初弾を装填する。その意図を悟った鈴木は姿勢を正し、決然と死に臨む佐藤に涙を流しながら敬礼する。
「佐藤小隊長。自分は永遠に、小隊長の部下であります。自分は……あの戦争で小隊長を上官に持てて、幸せ者でありました」
「
鈴木は涙声を必死で抑え、務めて大声で再び敬礼した。
「はい! 鈴木陸将補、用件終わり帰ります!!」
佐藤は拳銃を机の上に置き、立ち上がって答礼する。佐藤が椅子に座り直したのを見届け、鈴木は回れ右をして執務室をあとにした。
鈴木は扉を閉め、赤絨毯を踏みしめて十三階の大臣官房へと急ぐ。背中に追いすがる断末の銃声を振り切るように、鈴木は確固たる足取りで短靴を進めていった。
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