第二編第七章 邯鄲(かんたん)の夢を抱いて

東京都世田谷区池尻

自衛隊中央病院

令和十年三月十九日(日)


「武山高生徒隊、山口士長入ります」

「入れ」

 昨日の早朝に霞が関の原隊へ帰ったばかりの雪緒は、今日も見舞いに来てくれた。

 俺が最先任であることを意識してか、雪緒は律儀に上級者に対する入室要領を守って病室に入ってくる。

 手には、やたら膨らんだ鞄を持っている。雪緒はその中から何部もの新聞を取り出し、俺に渡してきた。

「はいこれ、最近の新聞。医官の先生に掛け合って、なんとか差し入れを認めてもらったわ」

 俺の本心を素直に告げたのが良かったのか、どうやら雪緒は機嫌を直してくれたようだった。

「……すまん、手間をかけた」

 俺は今日の新聞を選び出し、経済面を真っ先に開いた。実のところ明後日に公示される総選挙関連で、一番気になっていたのは経済情勢だったからだ。

 経済をかえりみず政局を優先する政権が、選挙で支持されるわけがない。それは、経済発展だけを追い求め続けてきたこの国の民主主義の基本的習性だ。

 案の定、経済面には悲観的な記事が並んでいた。雪緒が横から口を挟んでくる。

「佐藤大臣も銀行保有株買い取りとか、日銀も異次元の金融緩和とか、いろいろ手は打ってるみたいだけど。難しいわね。……あ。これ、新しい身分証と腕章」

「お、ありがとう」

 雪緒はそう言って、鞄から身分証と青い腕章を引っ張り出した。最先任は青色、次先任は緑色の階級表示入り腕章を左腕につけることになっている。この腕章が、『三等陸曹勤務陸士長』の証だった。

 新しい身分証明書に目を通す。階級は陸士長、認識番号はG9261309。Gが陸上自衛隊、9が自衛隊生徒の採用区分、26が入学年度、13が区隊と班の番号、09が個人番号を表す。遺漏いろうがないことを確認し、俺は枕元にそれを置いた。と、そこに置いていた衛生科の英語資料が目に入る。昨日一日かけて、訳をチェックしたものだ。俺はそれを、雪緒に手渡した。

「預かっていたものだ。ところどころ間違いはあったが、おおむね良くできていた。間違っている部分には、赤を入れてある。お陰で、臓器やら筋肉やらの単語に妙に詳しくなってしまった」

「あー、ありがと。悪いわね、休んでてくれてよかったのに」

「やることもないしな、これくらい……ところでお前、いつごろ退院できるか聞いてるか?」

 正直な話、少し動くだけでも腹部は痛む。傷の状態は医官が説明してくれたが、詳しい退院時期は教えてもらっていなかった。

「たぶん、四月の上旬くらいだと思う。全治一ヶ月って言ってたから。場所が場所だから、予後もちゃんと見なきゃいけないし」

「……そんなにか。総選挙までには、退院できると思っていたんだが」

「ま、春休みだと思って養生しなさい。治安出動中のあたしたちには、休みなんてないんだから。……ところで、アンタを射った奴のことなんだけど」

「何か分かったのか?」

「警視庁の公安部と刑事部が、合同で身元を捜査中。公式には相変わらず『中核自衛隊』のメンバーってことになってるけど、共産党の過激派の線が濃厚よ。まったく、皮肉な話よね。弾圧された共産党が議会制民主主義を放棄して、半世紀以上前の武力闘争路線に回帰するなんて。あんなに骨のある政党だとは思わなかったわ」

 雪緒はそう言ってため息をつくと、病室のすみに置いてあった車いすを展開した。ひょっとして、病棟の外に連れて行ってくれるのだろうか。

「外出禁止じゃなかったのか?」

「駐屯地から出なければ、大丈夫みたい。今日はいい天気だし、外に出ましょ。……一人で座れる?」

「馬鹿にするな。それくらい……」

 俺は腹部の痛みに眉をしかめながら、雪緒が広げた車いすに腰掛けた。


 三宿駐屯地には防衛装備庁技術研究本部の次世代装備研究所、自衛隊中央病院、陸上自衛隊衛生学校などが所在する。そのせいか、技術者や衛生要員とおぼしき白衣の人間が多く見られた。

 敷地内には早咲きの桜がチラホラと花開き、道行く人の目を楽しませている。駐屯地隣の世田谷公園からは、子どもたちの遊ぶ声が聞こえてきた。

 見上げる陽射しは白く、世界の眩しさに眼を細める。しばらく意識を失っていた間に、ずいぶん温かくなった。季節はもうすっかり春だ。

 こうしていると、この国がいま事実上の戒厳令下にあるなどとはとても信じられない。だがジクジクとした腹の痛みが、何より強く俺に現実を告げていた。

 俺は車いすに腰掛けたまま、椅子を押す雪緒にふと問いかけた。

「……なあ。お前、なんでそんなに世話を焼いてくれるんだ?」

「晃嗣、身寄りないんでしょ? ……アンタはあたしの戦友だから、アンタの面倒は可能な限りあたしが見る。アンタ一人に怪我させちゃった負い目もあるしね」

 雪緒は照れ一つ見せず、しれっと言ってのける。……俺が雪緒に告げたのと全く同じ、『戦友』という言葉を使って。

 俺の気持ちが多少なりとも雪緒に伝わったのが分かって、俺は妙に嬉しくなった。


         ▼


 昼飯を終えて雪緒が帰ったころ、思いもかけない人物が病室に見舞いにやってきた。

「佐藤です。入りますよ」

「お……お疲れさまです。佐藤大臣」

 俺は敬礼しようと、慌ててベッドを出る。だが制服姿の佐藤大臣は、そんな俺を制した。

そのままアズ・ユー・ワー

 俺は言葉に甘え、再びベッドに寝そべった。

 公示を控えて選挙活動で忙しいだろうに、わざわざ見舞いに来てくれたらしい。左手には書類鞄を、右手にはとても食べきれないほどの土産ものをぶら下げていた。

「これは、お土産をかねたお見舞いです。最近は選挙活動で全国各地を回ることが多くて……北は北海道から、南は沖縄まであります」

「ありがとうございます、ここのメシ不味くて……」

「それは何よりです」

「ところで大臣、午前はどうされていたんですか?」

「今日は公示前最後の休日ですから、官用車で武山の長坂ながさか射場に行ってきました」

「視察ですか?」

「いいえ? 射場と言えば、射撃に決まっています。迷彩に着替えて点検射てんけんしゃ射ち、膝射ち全てこなしてきました」

 ……どこの世界に迷彩を着て、射撃場で実弾射撃する『防衛大臣』がいるというのだろう。確かに佐藤大臣らしいと言えばらしいが、大臣の行動はやはり常識では測れなかった。

「……やはり、クリック修正もご自分で?」

 クリック修正とは、銃と射手によってまちまちな弾着の軌道を微修正するために、照門の位置を調整することである。

「もちろんです。押し右引き左――いやしくも陸上自衛隊出身の私が、クリック修正を忘れては笑いぐさです」

 と、そこで佐藤大臣のスマホが震えた。病院だから本当はまずいのだが、選挙を控えた政治家がそういうわけにもいかないのだろう。

「すみません、電話です。……牧原まきはら課長補佐ですか? お久しぶりです。……ええ、上出来です。神社本庁を通した神道政治連盟票の取りまとめ、確かに託しましたよ」

 大臣はそれだけを言って、電話を切った。

「見舞いに来たのに、バタバタしていて申し訳ありません」

「そんな、とんでもない……ところで大臣、選挙の見通しはどうなんですか?」

「今のところは、与野党が世論調査で拮抗しています。ですが、小選挙区制の衆議院選挙は水物です。時の種の無常を見通すことは難しいです」

「……そうですか」

「はい。淀みに浮かぶ泡沫うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく留まりたるためしなし――です」

 ……方丈記の冒頭部か。いつも強気な佐藤大臣にしては、珍しく弱さのにじむ答えだった。

「しかしこれは、私達の戦争です。負けるわけにはいきません。企ての火を起こしたからには、企てのまきをくべ続けるしかないのです。ここで憲法改正に失敗したら、この国は国家百年の大計を見失います。守るべき精神も語るべき価値観もない、抜け殻のような国家に成り下がってしまいます」

「……」

「――さて、慌ただしくてすみませんが、これで失礼します。貴方の元気な顔を見られただけで何よりです。身命しんめいを賭して私を守ってくれたことに、心からの感謝を。貴方は私の持ち得た生涯で、最高の教え子です」

 大臣はそれだけを告げると、香水の残り香を残して颯爽さっそうと病室を去っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る