第二編第六章 国防少年の憂鬱

東京都世田谷区池尻

自衛隊中央病院

令和十年三月十七日(金)


 目覚めたときにまず目に入ったのは、無機質な病室の天井だった。

 顔を覆う不快な吸気マスク。脇腹の痛みに顔をしかめる。かたわらには心電図やら何やら、よく分からない医療機器がいくつも置いてあった。

 ベッドに寝かされている自らの状況を掌握した俺は、点滴の針が刺さった腕であてもなく周囲をまさぐる。ナースコールのボタンを見つけたので、それを深く押し込んだ。


 医官の診察を終え、俺は簡単な病状の説明を受けた。襲撃を受けたときの記憶は、割とはっきりしていた。日付を訊くと、あのときから十日近くが経っていた。

 説明によると出血はおびただしかったものの、奇跡的に腸壁がクッションとなり弾頭がうまく停止したらしい。おかげで内臓への致命的な損傷を免れ、二階級特進で三等陸曹になりそこねたそうだ。見ると、脇腹にはまだ痛々しい手術の跡が残っていた。抜糸は昨日したばかりだという。

 俺も専門外なので詳しいことはよく分からないが、雪緒の処置が適切だったことが一命を取り留めた最大の要因らしい。後で礼を言っておかなければならない。

「武山高生徒隊、山口一……訂正、山口入ります! ……晃嗣! 意識が戻ったって……!」

 と、連絡を聞いた制服姿の雪緒が息を乱して病室に入ってきた。襟に輝く陸曹候補者き章さくらと、武山高の生徒だけに与えられるエンジ色のネクタイが懐かしかった。

 ちょうど説明を終えたばかりの医官が、口の前に指を立てる。雪緒は靴底を揃えて立ち止まり、慌てて敬礼した。

 気を利かせた医官は、看護官を引き連れて病室をあとにした。雪緒はベッドの横の椅子に腰を落とし、安堵の息をつく。

 彼女は無造作なショートカットに軽くパーマをかけていて、メガネもコンタクトにしているようだった。

「よ、しばらく。髪型、変えたのか。メガネはどうした?」

「メガネはやめたわ。日比谷のときに落としちゃって、懲りたの」

「そうか。あのときは世話になったな、礼を言う。ところでお前、警護班の仕事はどうした?」

「解散したわ。あたしも班長も副班長も、もとの生徒隊に再配置。アンタが射たれて、やっぱり大臣は『信頼が置ける筋の』警察が警護したほうがいいって話になったの。よく考えたら防弾チョッキも配備されてなかったしね、あたしたち」

「そう言えばそうだったな。……ところで、延期されていた第三教育隊さんねんせいの卒業式はどうなった?」

「アンタが心配しなくても、ちゃんと卒業してったわよ。今ごろは先輩方も配属部隊に向かってるんじゃない? 旧第三教育隊の基幹要員は、新入生受け入れ準備のために武山に帰ったわ。で、あたしたちの第二教育隊が今は第三に昇格」

「新入生受け入れか……まあ、新入生をいきなり治安出動させるわけにもいかないからな。……ときに雪緒、俺の六四式小銃シャーリーンはどうなった?」

「シャ、シャーリーン? ……誰それ、米軍基地ベースの女のコ?」

 ……何だ、お前のその無意味に動揺したような反応は。俺にそんな甲斐性があるわけないだろう。

「残念ながら違う。管理番号YTS856。現場で俺が持っていた小銃だ。……どこにある?」

 少年工科学校YTS時代から配備されていたとおぼしき、古ぼけた六四式小銃。俺は愛銃の感触を手の平に思い返し、むなしく虚空を握りしめた。


 This is my rifle. There are many like it, but this one is mine. My rifle is my best friend. It is my life.

 I must master it as I master my life. My rifle, without me, is useless. Without my rifle, I am useless.


 これぞ我が銃。似たるものは数あれど、ただこれこそが我が銃。我が銃は最良の友。我が銃は我が命。

 我、我が命を制するがごとく我が銃を制す。我なき銃は益体なく、銃なき我もまた同じ――


 『海兵隊員みな銃手』を掲げるアメリカの海兵隊マリーン・コーには銃手信条ザ・ライフルマンズ・クリードと呼ばれるものがある。大東亜戦争で、海兵隊のとある少将が書いたらしい。小平では基本的にアメリカ陸軍のことを教えるが、海兵隊についての補足講義で教えられた文章だ。

 歩兵にとって、銃は自分の分身だ。戦いの本質が『意志の衝突』である以上、意志を体現するためには道具が要る。だから歩兵は自分の銃を愛護し、常に掌握下に置かねばならない。俺と同じ自衛官である以上、雪緒もそれくらいは分かっているはずだった。

「安心して、児玉班長がちゃんと預かっているわ。お願いだから今は、体を治すことだけ考えて」

 雪緒はどこかホッとしたようにそう言うと、席を立った。

「ちょっと待ってて。PXで果物でも買ってくるから」


         ▼


 しばらくして帰ってきた雪緒は、真っ赤なリンゴと手術用のメス、そして小皿を手にしていた。

「お気の毒さま。医官ドクターに訊いてきたら、アンタ三宿みしゅく駐屯地から外出禁止がいきんだって。新聞もテレビも、もちろんネットもしばらく禁止。その代わり、個室待遇にしたから我慢しなさいって」

「……シャバとの接触は、全面的に禁止か?」

「そうね。変なニュースが入って、血気盛んな怪我人アンタ脱柵だっさくするといけないから」

 なるほど、正論だった。脱柵とは駐屯地からの脱走のことである。確かに俺が医官だったら、同じ措置を取るかもしれないな。

 ――と、椅子に座った雪緒はリンゴを手に持ち、メスで器用に皮をむき始めた。

「おいおい、果物ナイフないのかよ……」

「なかったから借りてきたの。安心しなさい、消毒済みよ」

「馬鹿、そういう問題じゃない」

 衛生科の人間は、この辺りの感覚が麻痺していて困る。俺はため息をつき、この件については諦めることにした。

「そう言えばお前、こんなに早くよく来れたな」

「児玉班長に送ってもらったの。霞が関ランプから池尻いけじりICなんて、あっという間よ」

「いや、そうじゃなくて……霞が関から来たってことは、まだ生徒隊は霞が関に展開中だよな。お前、最近なにやってるんだ」

「あー……実は、まだテレビ局からたまにお呼びがかかってるの。アンタの見舞いにすぐ来れたのも、代休の消化みたいなもんよ」

 まだやってるのか、広報活動。俺は心の中で、キワモノ国防アイドルとして心ならずも地歩を固めつつある雪緒の将来を案じた。

 ……さて。それはともかく、四月の頭には総選挙がある。世論と政治経済の動静が非常に気になった。この国の命運がかかった今、いたずらに時を遊ばせるわけにはいかない。これは医官の指示を破ってでも、何とかしてシャバの情報を手に入れないといけないな。


 課業終了のラッパが鳴ってからも雪緒は病室に残り、なんやかんやで俺の世話を焼いてくれた。

 驚いたのは、鈴木区隊長の推薦で俺が生徒会長に当たる『最先任上級陸士長』に、雪緒が副会長に相当する『次先任上級陸士長』に任命されたという話だった。

 考えてみれば三年生が卒業した今、俺達二年生が最上級生だ。例年通りなら卒業式で引き継ぎが行われるはずだが、今回は特例中の特例だった。

「しかし、なぜお前が次先任で俺が最先任なんだ? あれは普通、選んだ二人の候補者を成績順で任命するモンだ。学年首席はお前だろ?」

「決まってるじゃない、アンタ殉職しかけたでしょ。大臣を守りきった功績に対する人事よ」

 雪緒は病室にかかっていた俺の作業服と制服を膝に乗せると、受付で借りてきた裁縫道具を手に取った。

「おい、何をする気だ?」

「階級章の縫いつけ。みんなは四月からだけど、あたしたちだけ一足先に三等陸曹勤務の陸士長に昇任だって。先任順の関係で、辞令書の日付はアンタが一日先よ」

 雪緒は話しながらも一等陸士の階級章を腕から取り外し、新しい陸士長の階級章を縫いつけ始めた。

 最先任は次先任と共に、陸士せいととしての立場から陸曹以上の基幹要員を補佐することになる。そしてもし有事に全ての基幹要員が戦闘不能に陥ったとしたら、俺が生徒隊の指揮を取らなければならない。

 ――武山高に属する全ての陸士を統括する立場。責任の重さに、身が震えた。

「……いい。裁縫くらい一人でできる。お前は遅くならないうちに、霞が関に帰れ」

「いいから、アンタはそこで寝てなさい。あ、それと鈴木区隊長の命令で、今夜はあたしも病室に泊まれって。これでもあたし、准看護師だから……さ?」

 雪緒は俺からわずかに視線をそらし、そう口にした。

 と、泊まるってこの部屋にか……? 確かに心配してくれるのは有難いが、いくら雪緒が同期の桜でも俺は健全な男子だ。やはり緊張してしまう。

 俺はそんな動揺を気取られないよう、努めて冷静に返した。

「そりゃ……別に構わないが……」

「じゃあ決まりね。あたし今夜、ここで舎営しゃえいするから」

 舎営、という言葉に今の雪緒の状況がうかがえる。つまるところ霞が関の部隊は、天幕を張って現地に『野営』しているということだ。それに比べたらこの病室に泊まっていくほうが楽だろう、と自分を納得させてみる。

 雪緒は昼寝から覚めた猫のように伸びをすると、すっかり日が落ちた外の景色に視線を投げる。その細くて白い指には、銀色の指ぬきが光っていた。

 こいつもいつか、指輪をはめて花嫁になる日が来るんだろうか。少し荒い言葉遣いさえ直せば、見てくれだけはいいこいつだ。すぐに相手は見つかるだろう。

 俺は音楽堂での襲撃で、一度死んだような身だ。雪緒の救護がなかったら、今ごろ墓の下に入っていても不思議じゃない。俺は雪緒に大きな借りを作ってしまった。

 ……だから雪緒には、輝く未来を歩んで欲しい。こいつの姿を見ると、心からそう思う。そのためなら俺は、どんな手段を使ってもこいつの行く手を守ってみせる。そう、心の底で誓った。


 渋谷にほど近い三宿駐屯地に、消灯ラッパの哀しげな音色が鳴り響く。雪緒は当直陸曹から折りたたみ式の簡易ベッドを借りてきて、病室の隅で横になっていた。

 すでに電気は雪緒が消している。寝ようと意識するたび、時を刻む秒針の音が耳につく。

 ……駄目だ。演習ヤマの天幕野営で女子と混成部隊になったときは大丈夫なのに、個室で二人きりというのはどうも神経がまいってしまう。今まであまり意識したことはなかったが、今日の雪緒は異性を感じさせて困る。

 俺は自分から寝返りを打ち、雪緒の気配に背を向けた。雑念を振り払おうと深呼吸したとき、ふいに雪緒が話しかけてくる。

「……ねえ、晃嗣。起きてる?」

 耳元で囁かれたような錯覚がして、鼓動が一瞬跳ね上がる。

「ああ、起きてる」

「あのさ……もし……もしもだよ? あたしが戦場で大臣と同じように射たれそうになったら、守ってくれる?」

 ……そんなもの、守るに決まってる。難しくはないが、答えづらい質問だった。少し迷う。

 照れ隠しに口をついて出たのは、本心とは裏腹の言葉だった。

「状況による。日比谷のときの借りはいつか返すが、俺は自衛官だ。自衛官の仕事は、日本国のために死ぬことだ。悪いが、お前個人のためには死ねない」

「……そ。冷たいのね、アンタ」

「最後まで聞け。お前個人のためには死ねないが、お前は衛生要員だ。お前が狙われているのが戦場だったら、お前の生死は部隊全体の明暗を分ける。歩兵は代わりが効くが、衛生要員はそうはいかない。……だから俺はお前個人のためじゃなく、国のためにお前を守る」

「じゃあ、あたしが負傷して戦力外カジュアルティーになってたらどうなのよ。それでも守ってくれる?」

「……逆にお前は、どうして欲しいんだ?」

 そこで雪緒は激昂げっこうしたのか、暗闇の中で腰から上をガバッと起こした。

「バッカじゃないの!? あたしがアンタを助けたのは、見返りを求めてなんかじゃない。アンタ、そんな言い訳使わないと人ひとり守れないわけ?」

「あ……いや……それは……」

「だからアンタはガキだって言うのよ。……おやすみ!」

 雪緒は呆れたのか再びベッドに身を横たえ、しばらくするとかすかな寝息を立て始めた。……くそ、失敗したな。

 国のために生き、国のために桜と散る。それが自衛官としての本領だと、そう信じて訓練に励んできた。今でもその思いは、もちろん変わらない。

 だが……『そんな言い訳使わないと人ひとり守れない』。雪緒の言葉が、胸に深く突き刺さった。

 雪緒は武力紛争法上、一切の戦闘行動が許されない衛生要員だ。戦場で彼女にできることは、負傷者の救護と正当防衛だけである。そんな原則はよく知っているはずなのに、俺の中の下らない見栄が邪魔をした。『何があっても雪緒を守る』と告げられなかった。

 戦場では、国や立場より大事なものがある。――『目の前の戦友を思いやる』という、しごく単純な行動準則。俺はこのクーデターに関わって雪緒という戦友を得たのに、それを口にすることをためらってしまった。恥ずかしがることなど、何もないというのに。

 そう。『お前は戦友だ。だから目の前にいる限り、何があってもお前は俺が守る』。そう雪緒に告げれば、それで全て丸く納まるのだ。今日の失敗を引きずって、雪緒とぎこちない関係になるのは俺の本意ではない。目が覚めたら、さっそく雪緒にその言葉を伝えよう。

 俺はそう結論をまとめ、まぶたに睡魔が降り立つのをじっと待つことにした――

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