第二編第五章 日本の赤い霧

東京都千代田区永田町

参議院国家基本政策委員会

令和十年三月八日(水)


 佐藤大臣は党首討論前の昼、国内軍需産業各社との会食を持った。憲法改正後の再軍備についての協議が、主な議題だったらしい。


 一五〇〇から開始される党首討論QTは、難航が予想された。民間人を殺傷した自衛隊に対する非難の声は日増しに高まり、俺達はそのプレッシャーを肌で感じていた。

 いわく、『虐殺総理』。いわく、『鉄の処女』。それが、佐藤大臣を呼ぶ国民の声だった。そして最近は、雪緒に出演依頼が来ることもめっきり減った。


「佐藤代理! 代理は、非常識が軍服を着ているようなお方です! 貴女は保守政治家ですらない、ただの白色はくしょくテロリストだ。貴女は身勝手なクーデターで、この国の名誉を汚した。この国の経済と社会をガタガタにした。その責任を、しっかりと自覚しておられるのですか!?」

「いまの発言を撤回しなさい、志位委員長。貴方がた共産党の旗は赤旗でしょう? ですが、私の旗は日の丸です。歴史の教訓から学び、破壊よりも建設を、混乱よりも安定を追い求めるのが真正保守の神髄です。そのための治安出動です」


 党首討論は、不毛な非難の応酬に終わった。四十五分間の討論を終えた佐藤大臣は、低下を続ける内閣と与党の支持率に焦っているように見えた。

 支持率低下の要因は、大きく分けて二つあった。

 一つは共産党を弾圧したことだ。治安出動と公党への強制捜査は、国民に『佐藤首相代理は危険な独裁者』とのイメージを強く植え付けてしまった。

 もう一つは二・二六以後の経済の悪化だった。クーデターによって日本の対外的な信用は大きく損なわれ、国内経済は外国資本の撤退に直面した。二〇〇八年の南オセチア紛争でロシアの暴虐が信用不安を招き、ロシアからの資本流出に繋がったのと似たような構図だ。カネが回らなくなった日本経済への悪影響は大きく、日経平均は話にならない水準まで下落。治安出動解除を求める国民の声は、日増しに高まっていた。

「……日本国民は。民族の尊厳を投げ捨てただけでは飽きたらず、さらに私達が担う崇高な使命の邪魔まですると言うのですか?」

 党首討論のあとの街頭演説をこなし、二〇〇〇から日比谷ひびや公園の野外大音楽堂やおんで開かれる民社党党員集会に向かう車中、佐藤大臣は誰に言うでもなくそう呟いた。治安出動部隊が各メディアを掌握下に置いているとはいえ、そのコントロールは万全ではない。表だった批判報道はまだ少ないが、各メディアが自衛隊を無視して批判に転じるのも時間の問題と思われた。

 と、車中のテレビに民社党の選挙宣伝CMが映る。たなびく日の丸を背負った佐藤大臣が演説をしている光景に、ナレーションがかぶさった。

「誇りを抱ける日本へ。守りたい国があります。民社党」

 ……後部座席の佐藤大臣は画面に一瞬だけ目をくれると、忌々しげに腕を組んだ。

「立憲民主党・公明党・社民党・共産党は改憲に反対する野党連合を結成し、小選挙区での候補者を一致して選定しています。……どう思いますか、鈴木二尉?」

「今回の総選挙は、GHQが作り上げた戦後体制に下される最終的な国民審判です。『令和維新』を掲げる与党が敗北すれば、改憲のチャンスは長き眠りにつくでしょう。ここが天王山です、大臣」

「……そうですね。私達には、立ち止まっているヒマなどないのです」

 バージニア・スリムをふかしながら、大臣はそう漏らす。運転席の鈴木班長がハンドルを切ると、車は日比谷公園へと滑り込んだ。


         ▼


 俺達は鉄でできた音楽堂のゲートをくぐり、ステージ裏の楽屋へと向かった。応援の警備要員の配置ポイントは決定済みで、施設管理者対策も終わっている。佐藤大臣の動線も、既に確定していた。

 袖からステージを覗くと、演壇の背後に『佐藤総統大演説会』という大きな横断幕がかかっている。立ち見を含めて三千人が入る音楽堂は、民社党の党員でほぼ満員だった。

 民社党の基本路線は、主に二つ。外交防衛におけるタカ派政策と、積極的な社会福祉政策だ。つまり外交は右、経済は左という政党である。そういった経緯もあり、支持者には自衛官の他に国粋主義的な低所得者層が多いと言われている。関係があるのかどうかは分からないが、こころなしか聴衆にはスキンヘッドの方々が多い気がした。

 ――さて。狙撃可能な高層ビルを確認するため、あたりを見渡す。音楽堂が日比谷公園の霞が関側に位置する以上、距離と角度的にステージを狙えるのはせいぜい中央合同庁舎五号館か弁護士会館といったところだろう。その二つのビルにはあらかじめ要員が配置され、厳戒態勢が取られていた。

 客席に目を移すと、テレビ局の中継カメラも何台か入っている。党員集会という名目ではあるが、メインイベントはもちろん佐藤大臣の演説だった。

 スポットライトの光も眩しい会場には、特大ウーファーからの不安をかき立てるような重低音が響いている。森に囲まれた会場のあちこちには日の丸と民族社会主義日本労働者党の鉤十字スワスティカが掲げられ、突撃隊の褐色軍団が舞台の足元を警備していた。俺達警護班はステージの上手かみて下手しもてに分かれ、客席から見えない位置での待機を命じられた。

 厳かに開会が宣言されたあと、佐藤大臣がステージ中央の演壇に立った。大臣はざわめきが鎮まるまで目をつぶり、微動だにせず立ち尽くしていた。 

 一分。二分。時間が経過するにつれ、会場は水を打ったように静かになっていく。幾千もの視線が、佐藤大臣ただ一人に対して注がれる。大臣は桜の帽章を手前にして正帽を演壇に置くと、おもむろに重い口を開いた。

「……私は、この場に集った心ある同志の皆さんに尋ねます。皆さんは屈辱の憲法九条が歴史の屑籠に葬り去られ、自主自立の軍備が日本にもたらされることを望んでいるでしょうか?」

 客席から、賛意を表す拍手が波のようにわき起こった。

「ありがとうございます。では第二の質問です。私達は侵略の意図に基づいて軍備を拡張し、近隣諸国との友好を破壊することを望んでいるでしょうか?」

 今度は誰も反応しない。会場の沈黙は、その緊張を保ったままだった。

「……そうです。私達に、侵略の意図などは少しもありません。私達が望んでいるのは、心からの平和です。ですが私達の純粋な願いはかき消され、混乱の嵐が私達の安住を脅かしています。平和を望まず、絶えず扇動し、混乱の火種をき続けている者がいます。それは一体誰でしょうか?」

「共産党だ!」

 会場から飛んだ野次に、大臣は演壇を手の平で叩いた。

「聞こえません! もう一度!!」

「「「共産党だ!!」」」

 サクラを紛れ込ませていたのだろう、会場からは統制の取れた声が返ってきた。大臣は、芝居がかった身振りと手振りで続けた。

「その通りです、同志の皆さん。彼らの張り巡らせた恥知らずな罠から、同胞を救うのです。一億国民が祖国に誇りを抱けるようになれば、我が大日本は必ずかつての繁栄を取り戻します。そのためにはまず、『戦後日本』という枠組みを一度ご破算にしなければなりません。我が民社党は、そのために戦っているのです」

 戦後日本をご破算にする。それがどんなに大変な挑戦なのかを、俺は警護班に着任してから強く思い知らされてきた。 

 長い歴史の中では、一人の人間の役割などちっぽけなものだ。しかし人間は、その意志次第で歴史に名を残すことができる。声を上げて歴史に名を残すか、それとも凡人として一生を終えるかはその人間の生き方の問題だ。

 人生を捧げた挑戦は、失敗するかもしれない。笑い者になるかもしれない。だがそれでも笑われて歴史に名が残った者の方が、何もせずただ見ていただけの凡人よりよほどマシだ。前者は少なくとも勇気ある者だが、後者はと言えばただの臆病者である。

 狼生きろ豚は死ね、とある作家は言った。望むなら、俺は豚ではなく狼でありたい。そして佐藤大臣は、そんな俺の理想を体現している人だった。

 俺達の目指す憲法改正は、ことによると失敗するかもしれない。だが大臣はそれを恐れず、政治生命を賭けてこの戦いに臨んでいる。俺は佐藤優理也という政治家のもとで働けることを、心から誇りに思っている。

「皆さん。語るべき国家観と、そして歴史観を持ってください。私達の日本は、ある日突然あらわれたのではありません。私達の先祖の、気の遠くなるような努力と犠牲の上に成り立っているのです。私達が、次の世代にどのような国家ビジョンを示せるのか。まさにそれが今、問われようとしているのです」

 大臣はそこで一旦言葉を切る。惜しみない拍手が会場からわき起こり、大臣はそれを手で制して演説の続きを口にのぼらせた。

「総選挙が終われば、私達の日本は長い悪夢から目覚めます。そのときこそ、我が民族は覚醒の瞬間を迎えるのです。憲法改正という試練を乗り越えた祖国日本は、戦後はじめて真の精神的独立を手にするのです……」

 演説の熱はどんどんと高まり、会場は大臣の演説に聞き入っている。大臣はあおるような語調で何度も同じ内容を繰り返し、この空間のボルテージを意のままに操っている。だが俺は本来の任務を忘れることなく、小銃を手に万一の事態に備えていた。

 夜を選んでの演説は人々の思考力が疲労で低下し、情緒的になる時間を狙ってのこと。そして帽子を脱いでから演説するのは、自分の顔や髪型を聴衆に印象づけるための演出だ。任務の関係で民社党本部にも出入りしていた俺は、この演説会が民社党の宣伝局によって周到に計算され尽くしたものであることをよく知っていた。

「……私、佐藤優理也は国会の多数を占める世襲政治家とは違います。私は無名の一国民に過ぎませんでした。佐藤は大衆から出たのです。私は常に大衆である皆さんと共にあり、皆さんのために、日本人のために戦います! 皆さんの鉄の意志が我が国の民族的勝利であるならば、私はそれを皆さんに約束します!!」

 その時だった。逆光で何が起こったのかはよく見えなかったが、会場から鋭い発砲音がした。それと同時に弾丸が演壇に着弾し、衝撃でマイクの一つが落ちる。

 ――敵襲だった。俺の体が反射的に動いた。

「大臣ッッ!!」

 ……衆人環視の中で自ら避難するなど、佐藤優理也のルールにはない。ならば彼女の命を守るのは、俺達警護班の役目だ。俺達は小銃をその場に投げ捨て、大臣のもとに駆け寄った。

 最初に大臣のもとに到着したのは、俺だった。俺はステージの上で佐藤大臣の正面に立ち、自ら盾となるべく両手を広げた。見ると一人の男が拳銃を構えて立ち上がり、会場の中腹からこちらに弾丸を連射していた。

 鋭い照明が目を貫いたが、敵に背中を見せるわけにはいかない。続いて雪緒が駆け寄り、大臣にぶつかるように脇を固める。勢い余って、雪緒のメガネがステージの床に飛んだ。

「大臣、さあ早く!」

 遅れて到着した班長と副班長が盾となり、大臣を死角に誘導する。その間にも弾丸が次々と飛来し、会場はパニックに……


「!!」


 ――弾頭の一つが、俺の脇腹を直撃した。まず感じたのは痛みではなく、熱さだ。焼けつくような腹部の違和感の中、自然と膝から力が抜け落ちる。

「あ……晃嗣ッ!」

「……ッ……」

 崩れ落ちる俺をかばうように、雪緒が覆い被さる。逃げろ、と言いたかったが口が言うことをきかなかった。腹から小便を漏らしたみたいに肌着が濡れていくのが気持ち悪い。視界のすみで、突撃隊に取り押さえられる寸前の襲撃者が自決したのが確認できた。

 大臣を避難させた班長と副班長が慌ててやってきて、俺の体を抱え上げる。俺はぼんやりとした頭で、自分の体が運ばれていくのを人ごとのように感じていた。

「だ……大臣に、ケガ、は……?」

 辛うじて絞り出た問いは、それだけだった。横たわった俺の服を、雪緒が必死の形相で切り裂いていく。その顔は、一人前の衛生要員のものだった。

 かたわらでは副班長と大臣が、心配げに俺の顔を覗き込んでいた。どこかに電話をかけていた鈴木班長が叫んだ。

「安心しろ、ご無事だ! 貴様は立派に務めを果たし、大臣を守り抜いた! だから頑張れ! すぐに救急車アンビが来る!」

 そうは言うものの、落ちていく意識はいかんともしがたい。断絶の瞬間に頭をよぎったのはなぜか、雪緒から預かったままの衛生科の資料のことだった。

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