第二編第二章 日本の雪は主に首都に降る

東京都新宿区市谷本村町

防衛省本省

令和十年二月二十七日(日)


 朝が来た。今日も雪は止まず、鈍色の空が仮眠明けの気だるい意識を陰鬱にさせる。

 班長を経由して得た事務方の中枢部――内部部局ないきょくの情報では、自衛隊の中にも今回の治安出動について賛否両論が渦巻いているらしい。

 伝達によると我が武山高生徒隊は経産省、農水省や法務省などを擁する霞が関一丁目に展開していた。財務・外務・警察・総務など主要官庁が所在する霞が関二丁目・三丁目や永田町には大臣直属の精鋭・陸上総隊直轄部隊が張り付いている。

 テレビの中の霞が関には、まるで二・二六事件のようにバリケードやら装輪装甲車やらが大写しにされていた。名目は『予想される中自の攻撃からの重要拠点の保護』。苦しい大義名分だったが、局舎を物理的に押さえられたテレビ局に声を上げることは許されなかった。

 俺は寝具一式を手早く片付けると――自衛隊で『上げどこ』と呼ばれる状態――化粧室で歯を磨き、警護官としての容儀を整えて仮眠室に戻った。補給の被服は市ヶ谷の中央業務支援隊にあったので、それを回してもらうことにした。肌着類は、A棟裏の厚生棟で買えばいいだろう。

「おはよ、晃嗣」

 俺の名を呼ぶ声に、ふと仮眠室の入口に目をやる。するとそこには、何かのファイルを手に持った雪緒の姿があった。彼女はいつものメガネを外していた。

「……お前、メガネはどうした?」

「コンタクトが支給されたの。あまり好きじゃないんだけど」

「コンタクト? 何だってまた」

「これ見て」

 言って、不機嫌な表情で俺にファイルを差し出す。その表紙には『第二次号計画』とあった。輝号計画とは、防衛庁時代に存在したソフト路線による宣伝計画だ。

「? こ……こいつは……」

 パラパラと中身をめくると、その中には雪緒のプロモーション計画が防衛省謹製で綿密に練られていた。

 昨日の記者会見で、マスコミ各社も目をつけていたのだろうか。雪緒は『戦闘服の美少女高校生SP』として、臨時政府の広報官的な役割を果たすことになっているらしい。

「おはようございます。……今日も東京は雪化粧ですね。政変が起こるとき、この街では決まって雪が降ります。政治家の間でのジンクスのようなものですが」

「「おはようございます」」

 既に化粧を終えた制服姿の佐藤大臣が、そんなことを言いながら仮眠室に入ってくる。独身だからかどうかは分からないが、大臣も家に帰らず防衛省で一夜を明かしたらしい。

 俺が雪緒にファイルを返すと、彼女は佐藤大臣に向かい手を挙げた。

「大臣、質問があります。この計画書は正規のものでしょうか?」

「むろんです。取り急ぎ、夜を徹して内局の背広組に作らせました。気乗りはしないでしょうが、いまさらイヤとは言わせません。この任務があるからこそ、見目みめうるわしい貴女を選抜したのです。これは命令です」

「命令……ですか。了解しました。山口一士、本日より警護班業務に兼ねて、広報業務に従事します」

「いい返事です。次の結節点こうどうかいしじこく〇九〇〇まるきゅうまるまる、テレビ局での仕事です。出演用の制服は、こちらで用意します。化粧道具は私のものを貸してあげましょう。質問の際の対応マニュアルはこれです、本番開始までに覚えなさい」

 そう矢継ぎ早に言うと佐藤大臣は、もともとのファイルの二倍はありそうなファイルをさらに雪緒に押しつけた。

「いつの時代にも、革命にはシンボルが必要です。たまたまその役に、貴女が適任だっただけです。――もちろん、貴女自身には警察から本職のSPを出させます。何も案ずることはありません」

「それじゃ、あたしは今日は皆さんとは別行動ですね。頑張ってきます。……ところで『警察から』と大臣は仰いましたけど、どうして警務隊からの人選ではないんでしょうか?」

「今はまだ仔細しさいを話せませんが、この政変において警務隊が信用できないからです。――話は変わりますが石馬一士、貴方英語は得意ですか?」

「英語……ですか? 鈴木班長には負けますが、上級語学のモスは一応持ってます」

「そう、そうでしたね。貴方と山口一士をYSに派遣する書類に、校長としてサインをしたのは私でした。今日は午後から、米国大使館に用事があります。通訳は鈴木秘書官に任せる予定ですが、不測の事態の際は協力を頼みます」

「了解です」

「さすがに作業服というわけにはいきませんから、制服で統制です。仕度をしておきなさい」

 佐藤大臣が米国大使館に……いったい何の用事だろうか。いざとなれば大臣の盾になるのが俺の仕事だが、同盟国の大使館でその心配は無用のはずだ。

 だが問題はある。佐藤大臣が会談で何を言い出すか、だ。今回の自衛隊の行動は日米の安全保障に関わる重大問題であり、米国としても言いたいことは溜まっているはずだ。ヒラ議員時代から歯に衣着せぬ直言で鳴らしていた佐藤大臣が失言を漏らさないか、俺は今から少し心配である。


         ▼


「周辺諸国の軍事的脅威は、国民の予想以上に増大しています。そもそも今回のクーデターは、集団的自衛権の完全行使を求めるアメリカ国家安全保障局NSAの支援があって成立したものです。ですがNSAと対立する中央情報局CIA、すなわち『カンパニー』出身の米国大使にはそこまで情報が降りていないようで、交渉は難航が予想されます」

 後部座席で資料をめくりながら、大臣が状況を説明する。俺はネクタイが曲がっていないか襟もとに手をやり、確認した。車の後ろにはマスコミがゾロゾロついてきているが、大臣に今日の交渉内容を公開するつもりは毛頭ないようだ。

 本来、この手の外交交渉には外務官僚が同席するのが通例らしい。だが大臣は同席を求める外務省の要求を拒否し、わずかな側近だけを引き連れて異例の交渉に臨んでいた。

 隣の運転席でハンドルを握る児玉副班長は、緊張からか何度も汗をぬぐっている。振り返ると、大臣の隣の鈴木班長はじっと目を閉じて黙想していた。

「石馬一士、武山高校長として命じます。今回の立会りっかいはまたとない機会です。鈴木二尉の通訳をよく聞いておきなさい。熟練たくみの技が見られるでしょう」

「了解しました。楽しみにしています」

 単語も構文もある程度決まっている軍事英語とは違い、政治交渉の通訳は幅広い知識と集中力が要求される。正直な話、それを完全にこなすだけのスキルは今の俺にはまだない。

 通訳には話者の話を聞いてから要約する逐次ちくじ通訳と、同時並行で訳し続ける同時通訳がある。政治交渉で使われるのは、通常後者だ。通訳者は単に機械的に言葉を言い換えるだけではなく、その分野に関する知識と教養を前提に適切な語句を使って訳さなければならない。

 通訳者が動員されるような場面では、たいてい話題が特定の分野に集中する。その際に前準備として通訳者がよく取る方法は、話題となる分野に関する記事や本を読むことだ。通訳は単純な語学力に加え、多様な分野の専門用語タームを理解する知的好奇心と教養が求められる仕事である。その意味で、軍事通訳の訓練しか受けていない俺はまだまだ半人前と言える。

 そしてもう一つ、ベストの通訳をするためには話者と訳者が事前に共通認識を持つ必要がある。同時通訳者が政治家と綿密に打ち合わせをして本番に臨むのは、そのためだ。その意味で、前から大臣と個人的繋がりがある鈴木班長はまさに適任者だった。

『みなさーん、こんにちは!! 今日は佐藤首相代理警護班に弱冠十七歳で所属している美少女SP、陸上自衛隊武山高等学校二年の山口雪緒ちゃんにお越し頂いてまーす!!』

『や、山口雪緒です。よろしくお願いします』

 車内のテレビに目を移すと、緊張した雪緒が民放番組で脳天気なインタビューに答えている最中だった。一般高校ではない武山高の生徒は物珍しいようで、まるでパンダ状態だ。

 後部座席の佐藤大臣は顎に手を当て、満足そうな表情を見せていた。

「……広報戦略的には、きわどい格好でアイドルデビューさせるのもありかもしれませんね。至急、広告代理店を通してイメージソングを手配しましょう」

 ねーよ! 雪緒が可哀想だろ! 内心ではそう思うが、アイドルデビューを命じられたあいつがどんな顔をするのか見てみたい気持ちも少しはあった。

『ところで山口さん、ご趣味はなんですか?』

『はい。趣味は銃剣道と実験動物の飼育……て、訂正。お茶とお花を少々』

 テレビの中で軽く爆弾発言をかましつつ、質問に答える雪緒。……そういえばあいつ、放送部の他に銃剣道部にも入っていたな。

 あいつも人の子、緊張でマニュアルを忘れることくらいはあるようだ。と、いつのまにか目を開けていた鈴木班長が笑いをこらえて口を開いた。

「あーあー、こりゃ酷いですね。お見合いの自己紹介じゃないんだから、いまどきお茶とお花はないでしょう。ねえ大臣?」

「……いくら急造案とはいえ、彼らも使えませんね。これは責任者を更迭こうてつしなければ……次回の対応マニュアルには是非、改善案を盛り込ませましょう」

 大臣はぶっきらぼうにそう言うと、煙草の紙箱から一本抜いて口にくわえた。


         ▼


 赤坂のアメリカ大使館につくと、大臣以外の俺達三名は厳重なボディチェックを受けた。

 大使は公使と二名の書記官セクレタリーを従え、俺達を会議室に案内した。席につくとコーヒーが出てきたが、この状況で口をつける気にはなれなかった。

 本来であれば、内閣総理大臣臨時代理である佐藤大臣のもとにアメリカ側がやってくるのが外交儀礼プロトコルの常道だ。だが首相官邸が正常に機能していない今、防衛省にアメリカ大使を呼びつけるのはこちらの恥をさらすことになる。大臣が正規の首班でないことも影響しているのだろうが、今回の訪問はそれゆえの特例措置だった。

 暗殺事件に関し、型どおりの弔意と謝意の交換が終わる。先に交渉の口火を切ったのは、佐藤大臣だった。感情を見せることなく紡がれる大臣の声に、鈴木班長の訳がかぶさる。鈴木班長の同時通訳は初めて見たが、さすがは上級英語課程の大先輩だった。


「私は我が国が本政変のいかんに関わりなく日米同盟を堅持し、アジア太平洋地域における貴国のパートナーであり続けることを約束します。臨時内閣による憲法改正が成った場合、包括的な集団的自衛権によって日米は名実共に完全な軍事同盟を構築することになります。したがって本政変に関しては局外中立を、すなわち事実上の支持を要請します」

"Whether this political change is successful or not, I promise that Japan will maintain the Japan-US alliance so as to continue to be your partner in Asia and the Pacific. When the amendment of the Constitution moved by my temporary cabinet is approved, with the comprehensive right of collective self-defense, Japan and US will come to construct a complete military alliance in name and in reality. Therefore, please observe neutrality about, that is to say, give us actual support to this political change."


 臨時内閣の公式見解を淡々と述べる大臣に、大使は不快な表情を隠さない。公使や書記官と何事かを相談した大使は、通訳者を介して佐藤大臣に注文を示してきた。

「佐藤。今回の政変については、我が国のNSAが様々な関与を行ったと我々は認識している。我々の抱いている懸念は、佐藤政権という軍事内閣が戦後日本始まって以来の独裁政権になることだ」

 大使はどうやら五つ星の階級章を見て、佐藤大臣を元帥――ジェネラル・オブ・ジ・アーミーと誤解したようだった。日本の自衛隊においては、制服組トップは四つ星の統合幕僚長であり五つ星の『元帥』は存在しない。日本の五つ星は、アメリカの国防長官に相当する防衛大臣に便宜的に与えられる階級章だ。

「いえ、それは違います。私は民主主義の最良の理解者であり、我が国は貴国と政治理念を同じくする自由主義国家です」

「ならばなぜ、報道機関を統制する? 霞が関に部隊を展開する? たかがテロリストに屈して戒厳令マーシャル・ローを敷くなど、まともな民主主義国家のやることでは……」

 なおも抗議を続ける大使を無視し、大臣が班長に耳打ちする。

「鈴木二尉。私は今から、彼らに対し大東亜だいとうあ戦争の報復を開始します。通訳の政治的行儀については、貴方に一任します」

「……了解」

 大使の言葉を遮り、佐藤大臣がテーブルを強く叩く。その衝撃でコーヒーカップが宙に浮いたが、幸いにも中身がこぼれることはなかった。

「――お黙りなさい。かつて貴方がたが押しつけたあの素敵な憲法のおかげで、我が国は一人前の国家としての核心的能力を奪われてきたのです。私達には、貴国の望む不沈空母としての役割しか許されませんでした。ですが今回ばかりは、いつもと違います。私達は確かにイエローモンキーですが、貴方がたに踊らされはしません。自らの望むまま踊るだけです」

 凛乎りんことしてタンカを切る佐藤大臣に、目を大きく見開いて口ごもるアメリカ大使。

 ――窮鼠猫を噛む。そんな言葉がピッタリな場面だった。

程度でいい気になるのはおよしなさい。我が国をいつまでも貴国の属国と思っていたら大間違いです。――確かにこの国の外では、アメリカの正義が世界の正義です。ですが私が政権を掌握した以上、この国で今までのような好き勝手はさせません。日米同盟という果実のためなら、私はいくらでもこの手を汚しましょう。ですが果実の調理を間違え、あなた方が楽園を追放されたのでは元も子もありません。あなたの会社ユァ・カンパニー中央情報局CIA戦死KIAしては笑い話にもなりませんよ?」

「……」

「閣下。楽園に住み、『酸っぱいブドウ』という果実を食べたがる狐は、貴国にも我が国にも呆れるほどいるのです。役人同士の痴話喧嘩はたいがいにして、我が政権への姿勢を明確にしていただきたいものです」

 息が詰まるような静寂が、会議室に落ちる。大臣の迫力に圧され、大使は苦虫を噛み潰したような顔をしている。隼の一撃のような大臣の言葉に、何も言い返せなくなったようだ。

「――では失礼、私は臨時官邸に戻ります。色よい返事をお待ちしております。によろしく、大使閣下ユァ・エクサランスィ

 それだけを言い残すと佐藤大臣は優雅に席を立ち、外とうを手に会議室を後にした。


         ▼


 防衛省に帰ってしばらくして、米国大使館からは自衛隊の治安出動および憲法改正を支持する旨の通告が届いた。

 昨日の暗殺事件以来、中核自衛隊は不気味な沈黙を保っている。

 新しい副総理に民社党の書記長を就任させた佐藤大臣は、明日の衆院予算委員会に向けて答弁書を作成していた。

 通常ならこの手の答弁書は、防衛官僚せびろぐみが起案するものだ。だが佐藤大臣は自分自身での起草に拘り、執務室で一心不乱にパソコンに向かっていた。

 時刻は既に、深夜帯に差し掛かっている。俺は大臣が所望したヌワラエリアの葉を紅茶専門店まで買いに行き、慎重に時間と量と温度を測って紅茶を淹れたところだった。詳しいことはよく分からないが、この葉は今が旬なのだそうだ。

「大臣官房警護班石馬一士、入ります!」

「入れ。夜間につき、以後は声を抑えなさい」

「失礼しました。石馬一士は、佐藤大臣に用件あり参りました。お疲れさまです。お茶とお菓子をお持ちしました」

「……ご苦労様。今は何時ですか?」

 佐藤大臣は疲れ目を押さえると、まぶたを降ろして大きく伸びをした。

「時間ですか? そろそろ〇一〇〇まるひとまるまるです」

「――あら、もうそんな時間?」

 大臣は執務机から応接セットに向かい、リモコンを取ってテレビをつける。俺はお盆の茶器をテーブルの上に並べ、雪緒ご推薦のティラミスをその隣に添えた。

 佐藤大臣……校長として見ていたときはその凛々しさにばかり目が行っていたが、よく見ると胸も大きくて、凄く色っぽい。確か歳は三十代半ばだが、正直言ってどう見ても二十代にしか見えない。……まあ、自衛隊の制服は着ているけど政治家だからな。選挙のこともあるだろうし、見た目の若さには人一倍気を遣っているのだろう。

 そういえば、何となく亡くなった母さんに似ているような気もする。……いや、気のせいか? そうだ、俺の母さんはもう少し明るくて、優しくて……そして……、

 執務室に二人きりという特殊な状況だからか、俺はそんなことをぼんやりと考えていた。

「……石馬一士、何を呆けているのですか? せっかく持ってきて貰ったところを悪いのですが、甘いものは好きません。このティラミスは貴方にあげます」

 佐藤大臣はそう言いながらフォークを手に取り、ティラミスを綺麗に切り分け始めた。

「さあ、が食べさせてあげましょう。隣に座って口を開けなさい」

 な……! そ、それは人目をはばからないバカップルのプレイじゃないか!

 冗談じゃない、男の意地にかけてもこの話には乗れない。俺は言葉を選びながら、自分の気持ちをなるべく率直に伝えることにした。

「あの、お話は有難いのですが、それはさすがに。……ちょっと恥ずかしいです」

「もう一度だけ言います。口を開けなさい。これは命令です。自衛官は食べるのも仕事、寝るのも仕事です」

 ――命令。その言葉にだけは弱いのが、俺達自衛官だ。

 仕方がない。俺は大臣の隣に座り、ためらいがちに口を開いた。

 唇の隙間をくぐるようなフォークさばきで、ティラミスの欠片が口の中に侵入する。

「おいしいですか、石馬一士?」

 緊張で味なんてよく分からないが、取りあえずうなずいておく。佐藤大臣の整った面立ちが間近に迫り、俺の心臓は心なしか高鳴っていた。

 大臣が着ている香水は、俺の知らない大人の香りだ。流し目で俺を見つめる大臣は、女性経験のない俺を弄んでいるようにしか見えなかった。

「――よく噛みなさい。噛んだら飲み込みなさい。喉に詰まらないよう、紅茶もです」

 ポットからカップに紅茶を注ぎ、俺に手渡す。こうなることは予想していなかったので、当然ながら員数外おれのぶんのカップはない。だが大臣はそんなことは気にせず、自分のカップで俺に紅茶を勧めてきた。

 俺が礼を言って紅茶に口をつけると、大臣はテレビを消す。そして急に真面目ぶった表情を浮かべると、まっすぐ俺に問いかけてきた。

「石馬一士。今回の治安出動についてですが、ご家族は何も言っておられないのですか?」

 俺は口の中のティラミスを紅茶ごと飲み干すと、ソーサーの上にカップを置いた。

「家族はいません。俺は孤児です。父は俺が幼少のころに自衛隊南スーダン派遣で、母は病気で亡くなりました」

「! ……そうですか、珍しい苗字なのでまさかとは思いましたが、やはり……」

「……? 何がです、大臣?」

 息を飲む大臣の姿に、俺は首をかしげる。大臣は唇を一つ噛みしめると、訥々と語り出した。

「お父上、石馬いしま敏光としみつ一等陸曹のことはよく存じ上げています。公式には事故死となっていますが、実際は武装勢力の襲撃を受けての戦死でした」

 ――途端、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。俺は何を言われたのかすらよく分からず、呆然と大臣に問い返した。

「え……? なんで、大臣が父の名前を……?」

「石馬一曹は当時、私の小隊で分隊長を務めておられました。本来なら戦死の栄誉を受くべきところ、私の力およばず『事故死』として処理されることになってしまいました。申し訳なく思っています」

「じゃあ、鈴木班長とは……」

「南スーダンで上官と部下の関係でした。そのときからの付き合いです」

 佐藤大臣は遠い目をすると、親父が死んだときのことを俺に教えてくれた。その話の中には、俺の知らない親父の姿があった。

 インド軍への連絡任務で夜間に街道を走っていたとき、佐藤小隊が武装勢力の襲撃を受けたこと。

 当時の政治的・法律的事情から要撃に時間がかかり、結果的に六名の自衛官が命を落としたこと。

 ……そして、部下をかばって死んだ親父が家族おれたちの写真を握りしめて息絶えたこと。

 全てを聞き終えた俺は、喜怒哀楽が溶け失せたような感覚のまま佐藤大臣に告げた。

「……事故死なんかじゃなく、戦死だったことは知っていました。鈴木班長が、それだけは教えてくれましたから。でも、できれば大臣の口からも、もっと早くお聞きしたかったです」

 鈴木班長を含め、当時親父の部下だった人たちは、今でもお盆の時期には仏壇に手を合わせに来てくれている。決して多くを語ることはなかったが、仏前で合掌する彼らの背中から俺は感じ取っていた。

 ……親父の生き方は、間違っていなかったのだと。親父は自衛官として正しい道を貫いて、そして死んでいったのだと。

 俺は中学を出てすぐ、陸上自衛隊武山高校に入った。親父が辿った道を、ただ歩きたくて。親父が生きた意味を知りたくて。……そして今、その答えを知る人物が目の前にいる。

 だから、俺は問わねばならない。たとえそれが、佐藤大臣の古傷をえぐることになったとしても。……俺は石馬敏光の息子として、佐藤大臣をたださねばならない。

「……教えてください、佐藤大臣。俺の父はなぜ、南スーダンで死ななければならなかったんですか?」

「当時の政治情勢や、ずさんな法制のせいにするつもりはありません。全ての原因は、当時新任だった私の判断ミスにあります。指揮所を無視して要撃を指示するのがもう少し早ければ、あるいは無理にでも退却を強行していれば、お父上は助かっていたかもしれません」

 佐藤大臣はそこで言葉を切ると、肩を震わせながら執務室の絨毯の上に土下座した。

「……申し訳……ありません。当時の小隊指揮官として、深く謝罪します。貴方からお父上を奪ったのはこの私です! ……軽蔑けいべつしてくれて構いません! ののしってくれて構いません!」

「大臣、そんな……やめて下さい! 父が死んだのは、大臣のせいじゃありません!」

 顔を上げた佐藤大臣は、両の瞳から滂沱ぼうだの涙を流して俺を見つめていた。俺は大臣の前にひざまずき、肩に手を掛けて身体を起こした。

「……私は、部下も守れない無能な指揮官でした。そんな私を……許してくれるのですか?」

「許すも許さないもありません。父を殺したのは、自衛隊を軍隊として認めてこなかった戦後日本の政治です。……俺はいま、大臣が改憲にこだわる理由がやっと分かりました」

 知らず、俺の眼からも涙があふれ出ていた。改憲という部下の弔い合戦のため、佐藤大臣が払ってきた努力の重みが分かったからだ。

 ……このクーデターを、無駄にしてはいけない。少なくともこれがきっかけとなり九条問題が国民的論議を呼ぶのなら、それだけで親父の死は無駄ではなかった。俺は涙声を必死に隠しながら、大臣に深く頭を下げた。

「憲法九条が改正され、自衛隊が軍として当然の地位と資格を得るのなら、それは父の本懐でもあるでしょう。……佐藤優理也防衛大臣。俺は遺族として……閣下に深い感謝を……捧げます……」

 最後の方は、途切れ途切れで声にならない。もはや、嗚咽おえつを止めることはできなかった。

 頭の中を感情の奔流ほんりゅうが渦巻き、自分を見失いそうになる。流れる涙が、胸の軋みに拍車をかける。

 ただ泣き続けることしか出来ないぶざまな俺を、佐藤大臣は膝立ちになってそっと抱きしめてきた。

「石馬一士、貴方はまだ子供です。子供には泣く権利があります。――貴方のような子供を泣かせた私達は、悪い大人です」

「だ、大臣……?」

「存分にお泣きなさい。これも命令です。父親代わりは無理ですが……母親代わりなら、してあげられます」

「……はい。ありがとう、ございます……」

 甘い言葉に誘われるように、俺は大臣の柔らかい胸に顔をうずめる。左胸の防衛記念章が頬に当たったが、不思議と不快には思わなかった。

 夜が更けてゆくにつれ、俺の感情も次第に落ち着いてくる。佐藤大臣は何も言わず、まるで本当の母親のように俺の頭をなで続けてくれていた。

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