第二編第一章第三節 半長靴(ぐんか)の響き

 名前を呼ばれた俺は、なぜ自分が選ばれたのかも分からないまま鈴木区隊長のもとに向かった。

 俺と共に名前を呼ばれたのは三班の助教・児玉紫苑班長と、衛生科の赤十字腕章を着けた雪緒だった。鉄帽の中のショートカットは端末処理されていて、良く見えない。雪緒以外は、みな鈴木区隊の人員だ。

 俺達三名は区隊長の前に立ち、身幹順しんかんじゅん――シャバで言う『背の順』――で横一列に並んだ。右から俺、児玉班長、雪緒の順番だ。

「立ーてー、つつ!」

 号令に従って小銃を垂直に降ろし、右手首の脈どころを体側たいそくに押しつけながら銃を右足に沿わせる。

「短間隔に整頓する。児玉三曹基準!」

「基準!」

「右左へー、ならえッ!」

 右に握った小銃をわずかに持ち上げながら左手を腰に当て、左肘が児玉班長に触れるくらいの距離まで移動する。俺達の整頓を確認した区隊長は「直れ」を命じ、回れ右で校長に向き直った。

「敬礼! 直れ! 申告します! 二等陸尉・鈴木峰夫ほか三名の者は令和十年二月二十六日、防衛省大臣官房警護班勤務を命ぜられました! 敬礼!」

 編成完結式と呼ばれるこの一連の申告動作は、自衛官が誰かの指揮下に入るとき、および指揮を離れるときには欠かさず実施する儀式だ。

 銃礼する俺達に、校長は「ご苦労様。現在時をもって鈴木二尉を班長と定め、大臣指揮下の警護班を編成します」と答礼した。鈴木区隊長の「直れ」の号令で、俺達は銃口から左手を降ろす。

 ……お、俺達が校長の警護班? それも校長付きじゃなく、防衛省大臣官房の警護班だって? 俺は混乱した頭を冷ましつつ、何が起きたのかを冷静に考え始めた。

 つまり、早い話が俺達四名は『佐藤大臣』のSPに選ばれたということになる。だが防衛大臣の警護は自衛隊の隊内警察である警務隊が担当するのが通例で、戦闘装備の俺達が警護に就くなど本来はあり得ない話だった。

 予想される理由は、一つしかない。首相代理として職務を行うにあたり、自衛隊の行動が事実上の戒厳令であることをアピールするための政治的アクセサリー。それが、俺達に与えられた任務だった。それならば、鈴木区隊の生徒ではない雪緒が動員された理由も頷ける。なにせ彼女は学年首席であるのみならず、学祭でミス武山高に選ばれるほどの美少女だ。可愛いと言うよりメガネ美人という感じで大人びてはいるが、マスコミ受けを狙ってのご指名だろう。

 鈴木区隊長は小銃を浮かせると再び回れ右し、俺達三名をサッと見渡した。

「以後、佐藤校長のことは佐藤大臣と、自分のことは鈴木班長と、そして児玉三曹のことは児玉副班長と呼ぶように。質問?」

 俺はためらいながらも拳を握り――自衛隊では、挙手は常にグーである――、まっすぐ上空に挙げた。

「はい、石馬一士!」

「何だ?」

「警護班勤務を命ぜられましたが、具体的には何をすればよろしいのでしょうか?」

「簡単なことだ。自分らは、大臣閣下の動く盾である。今後の政治的行動の全てに随行し、佐藤大臣をお守りする。それが、自分らの任務だ。……山口一士、貴様の質問は?」

 ふと横を見ると、左端の雪緒も拳を掲げていた。

「はい、山口一士! 鈴木区隊長……訂正、鈴木班長。あたしは衛生科生で、要人警護の訓練は全く受けていません」

「それは自分も同じだ、案ずることはない。……それとも何か、貴様は大臣閣下のために命を投げ出せないとでも言うのか?」

「……いえ、決してそのような意味ではありません。正規の命令である以上、全力で事に臨むまでです」

 口ではそう言っているものの、雪緒はどこか納得のいかない顔をしている。なまじっか頭がいいと、色々余計なことも考えてしまうのだろうか。

 鈴木班長はそんな雪緒をとりあえず無視し、佐藤大臣に向き直った。

「それでは大臣閣下、ご下命を」

「私は屋上のヘリポートから、急いで防衛省いちがやに戻ります。貴方がたも随行してください。治安出動の概要については、機中でブリーフィングします」


 ……ヘリコプターでの転地ちょうきょりいどうはYS以来だが、やはりこの乗り心地とエンジン音には何度乗っても慣れない。中で立ち上がれるほど、キャビンが広いことだけが救いだった。

 上空から校庭を見下ろすと、輸送科生が操縦する三トン半トラックの荷台に生徒隊が乗り込んでいるのが目に入った。

 武山高は警務科を除く陸自全職種のスペシャリストを養成する機関という位置づけのため、輸送科・機甲科の運転免許や衛生科の准看護師免許、航空科のヘリコプターライセンスなど各種資格の年齢制限は例外的に免除されている。もちろん試験に受かることは必須条件だが、実戦を意識した即応体制は創立以来の教育方針だ。

「まだ若いのに、感心なことです。法案提出者として、議員冥利に尽きますね」

 武山高創立の張本人である佐藤大臣は、規律を守って整斉と乗車する生徒隊を見下ろして感慨深げに呟いていた。

「さて、治安出動の説明に入りましょう。陸上総隊直轄部隊には、既に私の腹心を送り込んであります。彼らと武山高生徒隊が、霞が関・永田町といった首都中枢の制圧を担任します」

 佐藤大臣の煙草――バージニア・スリムに火をつけながら、鈴木班長は大臣に問いかけた。

「大臣。一応確認しておきますが、これはクーデターと考えて間違いはありませんね?」

「無論です」

「首相死亡による臨時代理就任……まるでジャック・ライアンかジョンソン大統領といったところですな。この手があったとは気付きませんでした」

「ふふ、何を言いますか。それではまるで、ように聞こえますよ? ――自衛隊は、決して暗殺には手を染めません。その白い手袋が汚れるのが嫌だからです」

「いや、これは大変失礼をば致しました。ハッハッハ」

 班長が高笑いしたところで、機内に備え付けてある電話機のランプが点滅する。

「東部方面総監からですね。都心外縁部への展開報告でしょう」

 心底嬉しそうな表情の大臣は、そう言って革手袋で受話器を取った。

「……私です、佐藤です。ええそうです、貿易・生産・流通に関係する施設は一切傷つけないでください。このクーデターによって円相場は暴落しますから、今が稼ぎ時です。貴方は円の空売りでも仕掛けさせておいてください。証拠金には、防衛省が管轄する特殊法人への財政投融資を。政策実現には、いつの世も『実弾』が必要ですからね……」

 俺達を差し置いて、大臣は何やら政治的な難しい話を続ける。大臣が何を話しているのかはよく分からないが、俺達が謀略のまっただ中にいることだけは辛うじて分かった。

 大臣は受話器をいったん置くと、すぐにそれを持ち上げて「国家公安委員長に」と短く言った。今の国家公安委員長は、確か自民党の後藤田ごとうだ正義まさよし衆議院議員だ。

「後藤田委員長ですか? こちらは佐藤首相代理です。先ほど命令した共産党への強制捜査はどうなっていますか? ……何ですって? 『左翼は公安的視点から監視することしかできない』とはどういう意味ですか?」

 大臣は煙草の煙を深く吸い込むと、声の苛立ちを隠さずに告げた。

「……貴方の言い分はよく分かりました。それでは現在時をもって私は貴方を解任し、首相代理である私自身が国家公安委員長を兼務します。用件は以上です」

 受話器を置いた大臣は制服のポケットからスマホを取り出し、どこかに電話をかけ始めた。とても俺達に状況を説明するヒマもないほどの慌ただしさだ。

「警視庁公安部ですか? 私は首相代理の佐藤です。たった今、前国家公安委員長の後藤田正義議員から国務大臣職権を継承しました。共産党を担当する公安総務課の、稲垣いながき聡一郎そういちろう係長を出してください」

 それきり黙り込んだ佐藤大臣は、時間が惜しいとばかりに膝頭を指でトントンと叩いていた。

「――稲垣係長、お久しぶりです。貴方のことです、どのみち材料は山ほどため込んでいるのでしょう? 共産党に強制捜査をかけ、関係者を可能な限り投獄しておいてください。。え? ふふ……ご冗談を、係長? 彼らはそもそも人間ではなく、この国から排除すべき寄生虫でしかありません」

 背筋がゾクリとするような冷たい眼差しのまま、佐藤大臣はこともなげに言い放つ。優雅で静かな語り口は、最後の部分だけ抜き身の刃のように鋭くなった。その声に潜むいびつな感情を、俺は見逃さなかった。

 普段は知的な物腰を決して崩さない大臣だが、彼女は心の底に大きな闇を抱えている。静かにうねる、黒いおりを秘めている。このとき俺は、そう直感した。

 大臣は座席脇の灰皿エンカンに煙草の灰を落とし、続けた。

「……軍隊が戦争をして何が悪いと言うのです? これは私の戦争です。そして貴方がた官僚の最大の仕事は、私達政治家の戦争に共犯として巻きこまれることです」

 佐藤大臣はそれだけを言い捨ててスマホを切り、座席の背もたれに深く腰掛けた。

 ……これが政治か。これが大臣の言う『戦争』か。俺は途方もない陰謀劇の渦中に引き込まれたことを肌で再認識し、思わず武者震いした。

 大臣が向き合っているのは、まさに『悪魔の管轄領域』だ。大臣の言うことが真実で、それがもし実現したとしたら……日本は変わる。『日常としての平和』に甘え続けてきた日本人は、安全保障に関する大きな選択を迫られることになるのだ。

 ならば、俺がやることは一つしかない。南スーダンで自衛官だった父親を失い、中三のときに母親とも死別した俺にとって、自衛隊とは親そのものだ。

 両親を亡くした俺に、自衛隊は居場所を与えてくれた。だから俺は、生涯かけて旭日きょくじつの自衛隊旗を守る。俺のこの身が自衛隊国軍化の礎となるのなら、それは俺の本懐だ。

 俺は佐藤大臣を全力で守り抜き、今回のクーデターに殉じよう。たとえどんな結果が待っていようとも、最後まで大臣と行動を共にする。ただそれだけが、俺の正義だ。

「……さて、石馬一士と山口一士と言いましたか。経験豊富な者ではなく、自衛隊生徒である二人を選抜した理由を伝えておかなければなりませんね」

 新しいバージニア・スリムをくわえた佐藤大臣は、俺と雪緒に目をやった。隣に座る雪緒の緊張が伝わり、俺も思わず身体を硬くした。

「年若い少年少女が理想のために戦う姿は、日本人のメンタリティを強く刺激します。私や鈴木二尉では、もはやその役目は果たせません。二人の主な役割はマスコミの前で私を警護し、このクーデターの正当性を宣伝プロパガンダすることにあります」

 ごくり、と唾を飲み込む。予想通りの目的とはいえ、実際に大臣の口から聞かされると重みが違った。

 席を立った大臣は雪緒の前にひざまずきメガネを抜き取ると、革手袋の指先でクイと顎をすくい取った。整った顔に困惑を浮かべ、思わず雪緒が身を引く。

「っ……だ、大臣……申し訳ありませんが、あ、あたしにそっちの趣味は……」

「ふふ、お嬢さん。何を勘違いしているの? ……なるほど、リクエスト通りの美少女ですね。貴方の人選は間違っていませんでしたよ、鈴木二尉。今に見ていなさい、通りは殿方のしかばねで埋め尽くされます。みな等しく、彼女に焦がれ死ぬのです」

「恐れ入ります。彼女は今年度、九月の開校祭においてミス武山高を受賞いたしました。校則の関係でミス横須賀には出場できませんでしたが、彼女は我が校の誇る最終兵器です」

「す、鈴木班長……」

 滔々とうとうと美貌を褒め称える鈴木班長の弁舌に、雪緒は反応に困ったような顔で言葉を失う。確かにここで照れるよりは、うろたえている方が雪緒らしい。

 自分の能力に絶対の自信を持っていて、化粧もロクにせず、浮ついた話もなく、それでいて学校のことはそつなくこなす。俺ですら英語モスをいち早く取ってYSに参加したことで、嫉妬めいた風評を受けた経験があるくらいだ。入学以来首席で通してきた雪緒は、俺の比ではない注目を浴び続けてきたに違いない。だが何かと特別視されることの多いこの優等生は、俺の知る限りただの不器用な少女だった。

 席に戻った大臣は一息つき、警護班の四名をぐるりと見渡した。

「私は先ほどクーデターという言葉を使いました。ですが厳密に言えば、これはクーデターではありません。強いて言うならば、これは『挑戦』です。現行憲法に対しての、そしてアメリカの核に守られて安全保障から目を背けてきた日本国民に対しての挑戦です」

「……」

「歴史が、私の企てをいかに裁くかは分かりません。ですが私は、皆さんに背中を預けました。ですから皆さんも、私を信じてついてきてください。私は皆さんの信頼と自衛隊員の悲願を、決して裏切りません」

 ……いいだろう。大臣がそう言うのなら、俺達はその期待に応えるだけだ。

 指揮官の不屈の闘志は、その従僕の魂に火をつける。俺は既に、佐藤大臣が示した『改憲』という媚薬に魅せられていた。

「部隊、気をつけ!」

 班長の号令に従い、警護班の四名が大臣に正対し立ち上がる。市ヶ谷に急ぐヘリの中で足場は不安定だったが、俺は足を踏みしめて不動の姿勢を取った。

「佐藤大臣に対し敬礼! 我々大臣官房警護班は、来たるべき改憲の日まで全力で戦い抜くことを誓います。復唱!」

「「「我々大臣官房警護班は、来たるべき改憲の日まで全力で戦い抜くことを誓います!!」」」

 佐藤大臣は煙草を煙缶に放り込むと敬礼を返し、窓の外に目をやった。

「……そろそろ本省A棟のヘリポートです。じ後、正規の首班指名が行われるまで防衛省A棟十一階を臨時の首相官邸と定めます。さっそくですが、A棟に隣接する講堂で記者会見を行う予定です。右前と左前を生徒二名、後ろを基幹要員の二名で固めてください」

「A棟十一階が首相官邸……ですか? なんでまた……」

 俺の質問に、大臣は答えた。

「A棟十一階には防衛大臣・防衛副大臣・大臣政務官・事務次官などの執務室があります。そして十二階から十三階にかけては防衛政策局や情報本部、大臣官房も入っています。を行うには、位置的にいろいろと具合がいいのです」

 腕のGショックを見ると、時刻はまもなく一八〇〇になろうとしている。手回しのいい大臣のことだ、講堂では既にマスコミが大挙して俺達を待っているのだろう。

 窓に寄って眼下を見下ろすと、二つのヘリポートを持つ吹き抜けのビルにヘリは着陸しようとしていた。いくつか建物を挟んだ脇には、100メートルをゆうに越す通信部隊の電波塔がそびえている。ヘリポートの周囲を囲む赤い航空障害灯が、俺の視界に瞬いては消えた。


         ▼


 小銃を担いだ作業服の俺達が佐藤大臣の周囲を固めて講堂の演壇に近づくと、ノートパソコンを膝の上に置いて待っていた記者達からは軽いどよめきが起こった。

「テレビはどこですか? 放送法で中立を義務付けられたテレビは偏向的な新聞と違って、真実を伝えます。私はテレビを通して、直接国民と話をしたいのです。新聞記者の皆さんは、今すぐ退出してください」

「な……佐藤大臣、情報の信頼度が劣るテレビというメディアだけに公開するのはいかがでしょう? 仮にも我々新聞社は社会の公器であり……」

「冗談もたいがいにしなさい、何が社会の公器ですか。貴方がたは押し紙を使って、詐欺まがいの広告料をかすめ取るしか能のないメディアです。恥を知りなさい」

 新聞記者の反論を、歯牙にもかけずに切り捨てる佐藤大臣。タブーである『押し紙』に言及された記者はそれきり押し黙り、他紙の記者とともに渋々ながら講堂を出て行った。

「……ふう。邪魔者はいなくなりましたね。それでは会見を始めましょう。……ああ、彼ら自衛官は私の警護班です。気にしないでください。テレビクルーの皆さん、彼らの姿も入るように撮影をお願いします。……では班長、号令を」

「はい。控えーつつッ!」

 班長の大声が講堂に鳴り響き、大臣を囲む俺達は報道陣に向けて控え銃の姿勢を取る。小銃を垂直から約三十度左に倒し、身体の前で支える姿勢である。小銃は相当な重さがあるので、姿勢の保持は意外ときつい。特に、細腕の雪緒なんぞは大変だろう。もっともあいつの場合、どんなに苦しくても顔には出さないだろうが。

 演壇の佐藤大臣は目の前の原稿に手を伸ばすと、報道陣に向けて語り始めた。

「本日一六〇〇ひとろくまるまる……訂正、午後四時前、内閣総理大臣および副総理が中核自衛隊のテロにより殉職されました。それにより私、佐藤優理也防衛大臣が内閣総理大臣臨時代理として内閣を臨時に継承することとなりました。まずは殉職されたお二人に、深い哀悼の意を表します」

 テレビクルーのライトの角度が変わり、眩しさに目を細める。だが大臣は構わず原稿をめくり、会見を続けた。

「私は一般の警察力をもっては中核自衛隊の脅威から国民を保護することは不可能と判断し、事態発生を覚知した直後に陸上自衛隊に治安出動を命じました。これは、自衛隊創隊以来初の治安出動です。国会議事堂、中央省庁、経済三団体、東京証券取引所、マスメディア、インフラ企業などの都内要所は陸上総隊直轄部隊をはじめとする精鋭部隊の警護対象に指定されています。それでは質疑応答に移ります」

 大臣がごく短い報告を終えると、NHKの記者が手を挙げた。

「NHKの依田よだです。共産党に強制捜査が入ったという情報がありますが」

「それは中核自衛隊への関与の嫌疑です。事実関係については、今後の『独立した』捜査を待ちたいと思います。――他には?」

「はい」

 次に手を挙げたのは、日本テレビの記者だった。

「日本テレビの神崎かんざきです。首相代理、今回の自衛隊の治安出動は戒厳令と考えて間違いありませんか?」

「そもそも日本国憲法に、戒厳制度は存在しません。ですが事実上、現状は国家の非常事態と言って差し支えないかと思われます。我が臨時政府は日本国憲法下の戦後体制に公然と宣戦を布告し、治安出動を通して自衛隊創隊の本義を世に問いたいと考えています。ここに、令和維新の偉業は開始されたのです」

 記者席から、再び大きなどよめきが返ってくる。佐藤大臣はここに至り、初めて治安出動のもう一つの目的を明らかにした。いまこの瞬間、全国のお茶の間に大臣の言葉が放送されたはずだ。国論を二分するだろう政争は、まさにその火蓋を切って落とされたのだった――


         ▼


 記者会見を終えた佐藤大臣は、A棟十一階の大臣執務室にこもって行政各部との連絡調整に追われていた。

 警護班の四名はとりあえず二交代制で大臣室入口の両脇を警衛することになり、深夜帯の今は俺と児玉副班長が上番している――つまり、勤務についている。

 鈴木班長と雪緒は内閣官房機密費をクーデター資金として押さえるため、首相官邸に向かっていた。

 警護班に組み入れられて以来、副班長は言葉少なだった。いつもは饒舌なのだが、さすがに急転直下の展開についていけないのだろう。

「児玉班長……訂正、児玉副班長」

「なに?」

 小声で児玉副班長に呼びかけると、小さく返事が返ってきた。

「この政変、どうなると思いますか?」

「わたしたち下っ端の役割は政策決定じゃなく、命令の確実な実行よ。この国がシビリアンコントロールで動いている以上、佐藤大臣と臨時内閣の動きが全てを決めるわ」

「シビリアン、ですか。大臣の言動は誰がどう見ても、制服組じえいかんそのものだと思いますが」

「そうは言っても小選挙区で選ばれた衆議院議員なのよ、大臣は。どうやら本気で改憲を実行するみたいだから、一波乱あることは間違いないわね」

「ところで……警察のお客さんが来るって話でしたけど、遅いですね」

「そうね。だけどこの非常時だし、彼らも彼らでやることがあるんでしょ」

 鈴木班長を経由した情報だが、共産党の本部に対して警察の強制捜査が入り、党の職員は別件逮捕でビルから連行されたらしい。これにより臨時内閣は、共産党の議員に一切手を触れず政党機能だけを麻痺させることに成功していた。

 ――と。

 アタッシェケースを手にしたスーツの青年が、十一階に敷かれた赤絨毯を踏みしめて大臣執務室に近づいてくる。見慣れた名札を着用していないので、防衛省の人間ではないと思う。だが駐屯地の入口で身分確認をしているため、怪しい人間は入ってこられないはずだ。

 恐らく、彼が来客だろう。その姿を認めた俺と副班長は、自衛隊式の銃礼を取った。

「……お疲れさまです。失礼ですが、どちら様でしょうか?」

 副班長の問いに、男は上着の内ポケットから警察手帳を取りだした。そこには『稲垣聡一郎』という名前と警部の階級が記してある。この若さで警部ということは、当然キャリア組だろう。

「警視庁公安部の公安総務課係長、稲垣です。お約束に遅れて、申し訳ありません」

「お待ちしておりました。大臣からお話は伺っています。どうぞお入りください」

 稲垣警部は息をつき、ノックしてから大臣執務室に入室する。俺はイヤホンを作業服のポケットから取りだし、片耳に装着した。佐藤大臣の制服には集音マイクがついていて、このイヤホンに繋がっている。来客中に何らかの異状を認めた場合、踏み込んでよいという許可を俺達は受けていた。

 イヤホンの向こうから聞こえてきたのは、十年来の知己ちきに話しかけるかのような大臣の気安い声だった。


「あらいらっしゃい、稲垣係長。何か飲みますか?」

「いえ、遠慮しておきます。あいにく職務中ですので」

「つれないですね。昔は私の言うことをちゃんと聞く、可愛い子だったのに――」

 どうやら『ような』ではなく、本当に以前からの知り合いだったらしい。

 なおも昔話をしようとする大臣を遮り、稲垣警部は手帳をめくる音とともに一方的に報告を始めた。

「……外事からの情報です。今回の政変については、アメリカ当局アンクル・サムもその他各国の情報機関も熱い視線を注いでいます。特にアメリカ国防総省隷下れいか国家安全保障局NSAは先週から今週にかけ、架空の企業を通して貴党に資金を流していました。まるで、閣下の首相代理就任を事前に察知していたかのように」

「ふふ、素晴らしい。いい仕事をしていますね。貴方は充分に、警察庁長官を狙える器です」

「恐れ入ります。騒動の影に女と金。前者は専門外なので、お金の流れを先んじて洗っておいただけです。金融機関の記録は消せませんからね」

「それで? 私の身柄を取りにでも来たのですか、稲垣係長? ご存じの通り、国会議員には不逮捕特権があります」

「いえ、共産党の潰滅という手付け金はいただきました。私は既に共犯です。これでもソロバンの弾き方は、きっちり学んできたつもりです」

 紙を打ち合わせる音がして、手帳が閉じられる。机から遠ざかっていく稲垣警部の気配に、佐藤大臣は問いかけた。

「この借りは、そのうち何かで返すとしましょう。貴方、次のポストはどこをお望みですか?」

「そうですね……公安部は飽きましたから、次は警備部などいいかもしれません」

 ドアノブがひねられる前に、俺と副班長はイヤホンをしまって姿勢を正す。

「お疲れさまでした」

「ご苦労様です」

 俺達に一礼して去っていく稲垣警部は、霞が関の黒い空気をその背中にまとっていた。

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