「朝食は買いに行くしかないな」

 ベッドから降りたキースは、備えつけの冷蔵庫を覗いてそう言った。いいよな、と振り返るその顔には、いつも通り無邪気な笑顔をたずさえている。

 いいよ、と返す。いいよ。いまはもう、なんだっていいよ。

「あー、でも」キースは水の入ったボトルを二本、器用に片手にぶら下げながら、反対の袖を鼻に近づけた。「先にシャワーかな。まだ臭うや」

 言ってから、彼はなにかに気づいたように気遣わしげな眼でこちらを見た。その視線に、私はどう応えていいかわからなくなる。どんな反応をしようが、なにかが変わるわけではなかった。いまさらどうしようが、昨日が消えるわけではない。

「ローワン」私の沈黙をどう受け取ったのか、キースは私の名前を呼んだ。ひどくやさしい声だった。

 数秒の躊躇うような沈黙のあと、彼は冷蔵庫の傍の窓枠に腰掛けながら、淡々とした声で言った。

「お前は間違ってない。お前は間違えないよ」

 その無邪気で無機質な信頼に、私は思わず顔を上げる。咄嗟に朝陽の眩しさに眼を細めた。

「だって、お前はいつだって正しい。俺はときどき正解がわからなくなるけど、お前はいつだって正しかったじゃないか」

 だから、今回も、お前が正しいに決まってる。

 背後の窓からひかりが射し込んでいて、キースの表情がわからなかった。その白髪なんかは、ほとんどひかりに溶け込んでいた。けれど、ぼんやりと立つ陰は、まるで神様みたいに全身で微笑んでいるようだった。かの聖母のように。慈しみ、私を見下ろす眼差し。

 たまらず、私はいますぐにこの影から出て、ひかりの溜まる彼の足もとで懺悔したい衝動を覚えた。しかし、そんなことを彼に背負わせたくはなかった。これ以上、彼を私で穢したくなかった。血に塗れたワイシャツを身に纏う、こんな私で。

 なにかの信仰のように私の正しさを信じて疑わない彼に、私は精一杯微笑みかける。うまくできた気はしなかった。でも、彼はきっと微笑み返してくれた。


 バスルームに入ると、鏡に自分の姿が映ったのが見えた。ワイシャツのぼろぼろの白い生地に、無数の血痕がついていた。しばらく眺め、なにも感じていない自分に気がついた。彼が穢れるのは許せなかったが、私が汚れていくことには微塵も心が動かなかった。

 それよりも、服を調達しなくては。昨晩のようにあの分厚いコートを羽織って秋空の下を歩くわけにはいかない。もはやただの布切れになった服を脱ぎ捨て、シャワーの下に進んだ。


「まだニュースにはなってないみたいだぜ」テレビのリモコンをいじりながら、椅子の背もたれの上で腕を組んだキースが言った。

 テレビからは男性アナウンサーの均一な声が流れる。その口が、私たちの名を読み上げることはなかった。

「シャワー、空いたよ」血のついた彼の服から眼を逸らし、私はベッドに腰掛ける。やわらかすぎるマットレスは一瞬で私を沈み込ませた。

 バスローブは少しカビ臭かった。でも、あのワイシャツよりは何倍もマシに思えた。服はどうやって買いに行こうか。もうあの家に取りに戻るわけにはいかないんだから。


   *


 家の扉を開けてすぐ、引き込まれるように寝室まで連れて行かれた。驚きつつも、いつものことだ、とひどく冷めた自分がいた。

 部屋は暗く、扉が閉まると闇に包まれた。父の粗い鼻息と、執拗な水音。部屋の闇に、耳から侵蝕されていくようだった。

 次第に行為の勢いは増していった。苦しかった。でも、苦しいことが苦しいと感じなくなっていた。暗い部屋の天井は、見つめていると本当に溶け込めそうで、自分とこの闇を隔てるものはなんなのだろうと不思議に思えた。

 どれくらい経ったのか、意識が朦朧としてきたころ、突然、部屋に廊下のあかりが射し込んだ。その眩しさに眼を細めると、次の瞬間には自分に覆い被さっていた影が吹っ飛んだ。

 散々汚い言葉が聞こえたけれど、それがキースから発されているのだとわかるのには時間が要った。ああ、玄関の鍵をかける暇もなかったもんね、と呑気なことを考えていた。

 気づいたころには父は虫の息だった。状況をようやく理解してきた私は、慌ててキースの名前を呼んだ。追いついてきた恐怖や羞恥のおかげで、きっとまともな発音ではなかった。

 振り返ったキースの表情は、いままでに見たことのないものだった。正気を失っているわけではなく、どこまでも冷たい怒り。見開かれた瞳孔は、無機質と言っていいほど冷静にこちらを見つめていた。そして、淡々と、彼は私に問いかける。

「トドメ、刺す?」

 困惑した私は、部屋の暗闇で呻き声を上げる父を見た。床に這いつくばり、なんとか逃げようともがいている。そのあまりの醜さに、私は、自分の中からせり上がってくるものを強く自覚した。キースは無表情にこちらを見ている。

 次の瞬間には、ちいさな声が口から漏れた。

「うん」


   *


 眼を醒まして、自分が眠ってしまっていたのだと気づいた。キースは上半身になにも身につけずにボトルの水を仰いでいる。彼の嚥下のたび、中身がひかりをもてあそぶ。視線の先にはテレビの画面。じっと見張るように動かない。

 私はしばらくその背中を見つめた。白く健康な肌が、どこまでも眩しかった。こんなに辛気臭いホテルにも、ひかりは射し込むのだ。

「おはよう」

 いつから気づいていたのだろう。彼は振り返る前にそう言った。夢と現実のあいだを彷徨っていた私は、その声で一気に彼のいるほうへ引き戻される。

「新しい服、買ってきた。そこに置いてあるから。着替えてきなよ」

 ベッドサイドを指差してから、彼は器用に視線でバスルームを示した。私は頷く。これは、現実だ。

「着替えたら、朝食を摂りに行こうぜ。近所に美味そうな店を見つけたんだ」

 ドアノブに手をかけた私に、彼は言った。普段通りのすこし乱暴な口調だが、その声はどうしようもなくやさしすぎた。そんなふうな囁きを、昨日までの彼は身につけていなかった。

「ぜひ」私は短く言った。バスルームに入ると、涙があふれた。


 サンドイッチは喉を通らなかった。トマトのスライスだけ抜き取って、二人前のサンドイッチをキースが片付けるあいだにゆっくりと食らった。

 キースはなにも言わなかった。代わりに、私の様子を窺うようにじっとこちらを見ていた。私はなにか面白い話でもしようと口を開きかけて、しかしなにも思い浮かばずにトマトをかじった。酸っぱいような気がしたが、唇に走った痛みでそれどころではなくなった。どうやら噛まれていたらしい。鉄臭い血の味。すでに死体となった人間の、生きていた証。

 急な吐き気に襲われる。

「ローワン?」

 キースの声。顔を上げると、伸ばされた手が眼の前にあった。

 反射的に払いのける。キースの丸くなった眼。この手は、あの手とは違うのに。

 ごめん、と言おうとして、声がうまく出なかった。喉が詰まったように萎縮していた。ほとんど無意識に首を掴むと、キースはその手首を掴み、向かいから私の隣に席を移った。

「大丈夫」ホテルでの囁きのように、彼らしくないやさしい声だった。「俺はなにがあってもお前を傷つけたりしない」

 そんなこと、わかっている。そうじゃない。私が、なにより恐れているのは、そんなことじゃない。

「あいつはもういない。怯えなくていいんだ」

 その通りだった。もう、父はいない。私たちが殺してしまった。私が、殺させてしまった。

「どこにも行かないから」

 そう言って私の手を包み込むように握ったキースは、祈るように唇を当てた。その美しく哀しそうな横顔を、私は心底憐れんだ。

 しばらくして私の呼吸が落ち着いてくると、キースは下から覗くように私を見た。それから、テーブルのほうに視線をやり、私の肩に頭を乗せ、おもむろに話しはじめる。

「なあ、憶えてる?」

 ひかりが射していた。窓の遥か向こうから、彼にだけ、降り注ぐ。

「四年生のとき、俺がついカッとなって教室でピーターをぶん殴ったら、誰よりも先にお前が止めたよな。五年生のときに友達のペンを盗んじゃった子は、説き伏せて一緒に謝ってやってたし。九年生のときには飛び降りようとした子を引き止めた。もはや伝説だよな」

 キースはくく、と喉を鳴らして笑った。その振動が、肩越しに伝わる。

「だからさ」頭を持ち上げながら、キースは言った。伏せられていた眼が、私を見上げる。

「お前が正しいって言うなら、それは正しいんだよ。お前はぜったいに間違えない」

 この信頼は、呪いだと思った。あるいは、私を苦しめるための罰かなにか。

 私は肯定も否定もしなかった。できなかった。彼の微笑みに、みっともなく縋りつくことしかできなかった。

「ほら、トマト残ってる」キースはまだ三分の二以上残っていたトマトのスライスを、その美しく白い手で私の口元まで運んだ。躊躇いつつもちいさくかじると、果汁が彼の手を伝った。

 赤く滴るそれを、彼はなんでもないふうにナプキンで拭った。


 中央公園のベンチから見上げる空は高かった。障害物のない視界を、白く大きい雲が流れていく。その動きはひどく緩慢で、時間が本当に進んでいるのかどうか、ときどきわからなくなった。

「ひとりかい?」

 声のしたほうを振り向くと、スーツを着た人の好さそうな男が、心配そうな顔で立っていた。キースは飲み物を買ってくると言ってしばらく離れていた。

 私が答えずにいると、男はますます戸惑った顔になった。おおかた平日の昼間にこんな場所にいる若者を不審に思ったのだろう。私はどうしたものかと視線を落とした。

「怪しいものじゃないよ。ほら」言うと、男は胸元から警察のバッジらしきものを取り出し、こちらに見せながら隣に腰掛けた。私は思わず息を呑む。本物かどうかなんてわからなかったが、私を動揺させるには充分だった。

 男は私を観察するようにじっと見ている。

 ——もしかして、遺体が見つかったんだろうか。

「……もしなにか困ってることがあるなら、聞かせてくれないか」

 硬くなる前に冷蔵庫に詰め込んだ遺体は、そう簡単には見つからないはずだった。無断欠勤で誰かが家までくるほど、人望もないはず。

 でも、もし、血のついた服で逃げる私たちが見られていたら? もう犯人の目星はついていて、私がボロを出すのを待っていたとしたら?

 荒くなりそうな息を殺すように黙りこくって、必死に平静を装った。いつのまにか、足元を蟻の列が通っていた。

 男はしばらく待ったが、私に答える気がないのだとわかるとやがてため息をひとつつき、脱力するように背もたれに身体を預けた。

「君、見たところ高校生でしょ? 学校に行けない理由があるのか、行きたくない理由があるのか、わからないけど、なにかしら抱えてるのはわかるよ。顔色すごく悪いし。でも僕には無理に聞き出せるほどの立場はない。だから、名刺を渡す。ダメになる前にここに連絡して。一応、正義の履行者なんだ」

 仕方のない子どもに言い聞かせるように、最後は冗談ぽく微笑んで、男は私の横に名刺を置いた。私が手に取ろうとしないのを確認すると、またやれやれと息を吐いた。

 男はダメ押しのように口を開こうとして、ちょうどそのとき、向かいの茂みから子どもの泣き声がした。見ると、樹の下で少年がうずくまっている。おそらく木登りでもしているときに足を踏み外して落ちたのだろう。

 咄嗟に私は立ち上がった。しかし、その前に隣の男が駆け出していた。私は後に続けばよかったものの、なぜかそうすることができなかった。男はひかりを駆け抜け、木陰のなかにしゃがみこんで絶妙な距離で少年に話しかける。少年ははじめ警戒していたが、すぐに表情を緩めた。

 やがて少年をおぶって茂みから出てきた男は、私に目配せして公園の奥のほうへ進んでいった。「待ってて」そう大袈裟に口が動いた。

 私は去っていく男の背中とそこに乗る少年を見つめ、自分が一歩踏み出した状態で不自然に固まっていたことに気がついた。諦めるように座ろうとすると、足元の蟻の列が乱れているのが眼に入った。私の足を、回り込むように避けている。

 ゆっくりと足を上げてみる。何匹かの蟻が潰れていた。

「ローワン」

 顔を上げると、キースの姿があった。左手に炭酸水を二本と、右手にホットドッグを二つ持っている。

「どうかした?」

 腰を降ろしかけた状態で静止している私に、彼は首を傾げながらそう訊いた。

 私は少し考えてから、いや、とこぼす。「なんでもない。それより場所を変えよう」

 キースは不思議そうな顔をしたものの、ローワンがそう言うなら、と来た道を振り返った。私はもう一度蟻を見下ろしてから、キースの隣まで追いつく。

「飲み物だけでよかったのに。ホットドッグ、ありがとう」

 言うと、キースはまたも不思議そうな顔をしたが「どういたしまして」とホットドッグを一つ渡してきた。ケチャップとマスタードのにおいが鼻まで届き、温かい感触が手に乗った。


 夕方まで電車を乗り継ぎ、私たちは昨晩よりも家から遠のいた。競い合うように建っていた高層ビルは、もうほとんど見えなかった。

「自首しよう」

 やっと見つけたホテルの部屋に入るや否や、私はキースに向かって言い放った。キースはまず目を丸くして固まり、それから理解できないというような顔をした。

「どうして」

 ちいさくこぼれた声は、私の言ったことに疑問を投げかけているというよりは、どこか責めるような響きがあった。どうしてそんなことを言うの、と。

 まだわずかにためらいながらも、私は続けた。

「私たちはひとを殺してしまったから」

 言った瞬間、キースが弾けるように両手で私の口を覆った。私は戸惑いながら相手の顔を見る。苦しそうに歪んでいた。

 キースがそんな顔をする必要はない。そう言いたかった。でも、彼の手は力が増すばかりだった。

「言うなよ」

 やがて消え入りそうな声で彼は言った。俯いた白髪は、いまは照明をつけていないせいで濁って見えた。

 それから何十秒かの沈黙ののち、彼は一度大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと顔を上げた。

 そこには今朝のようなおだやかな笑みがあった。

「今夜は一緒に寝よう」彼は言った。


 父を殺してから、私は引き出せる限りの現金を彼の口座から引き出していた。「これで生きていけるだろ」と言われて渡されていたカードからは、それなりの金額が引き出せた。

 だから、ホテルだってわざわざ二人分のベッドがある部屋を選んだ。それなのに、彼は自分のベッドに私を上げ、私の肩にもたれながら、行かないでと懇願する子どものように、私の右手を両手で掴んでいた。

「怖くない?」と彼。

「怖くない」と私。

 しばらくの沈黙。彼は私の存在を確かめるように指をひとつひとつ握った。

「ああいうの、いつからあったんだ」

 部屋はあの日のように暗闇に満ちていた。ちがうのは、もう私を覆う影がないということ。隣に、ひかりに愛された存在がいるということ。

 キースが私の様子を窺うような気配がする。私を傷つけていないか、心配なのだ。

「お母さんが死んで、すこし経ってから。はじめは悲しくてまだ立ち直れないんだと思ってたけど、だんだんそれにしては様子がおかしいことに気づいて、そしたらある日突然」

 そこで私は言葉を切った。口にしたくもなかったし、そうすることで彼の耳を穢したくもなかった。

 キースはしばらく答えなかった。けれど、息遣いから、後悔が滲んでいた。

「もっと早く気づきたかった」声が震えていた。

 私はどうしようもなくて彼の顔のあたりに手を伸ばす。まだ温かい涙に触れた。

「あのとき、扉を開けてよかった」

 寝室に入ってきた彼の手には、私のノートがあった。借りていたのを返しそびれていたのだ。

 そんなことで、終わる悪夢。そんなことで、背負わせてしまった悪夢。

 私は開けてほしくなかった。

 それは口には出さなかった。

 彼はそれから眠りにつくまで、私のこれまでの英断を語り続けた。いじめられそうになっていた子を助けたとか、捨てられていた子猫の新しい飼い主を探してやったとか、そういう、本当に些細なこと。たしかに私は正しいのだと、私たちはなにも間違っていないのだと、ひとつひとつ、証明していくように。

 やがて彼は、とても静かに眠りについた。私はそれを確認すると、彼を静かに横たわらせてから、自分のズボンのポケットを探った。キースに呼ばれて引っ掴んだ名刺は、勢いよく突っ込んだせいで折れ曲がっていた。

 スマホを取り出し、印刷された番号を押していく。

 振り返ったベッドの先には、眠りにつくキースの姿。白い肌はいまは闇に溶けていて、私は早く彼をひかりのもとに返さなければ、と強く思った。

 発信ボタンを押す。相手は三コールで出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る