【2】
「……やあ、なんか、すいません。一人でペラペラ喋っちゃって。おかしいな、僕、普段は人見知りで、初対面の人となんて、ほとんど話せないのに」
零二は〝ようやく気が付いたか〟という言葉を、再び無気力に呑み込んだ。ローレライは大通りの信号に捕まっているところだった。目の前を、労働にくたびれたのであろう大人たちが、トボトボと通り過ぎていく。
「……運転手さん。変なことを訊きますけど、父親はご存命で?」
父親、という言葉を聞いた瞬間、零二の眉がピクリと動いた。
「……ええ」
「すいません、変なことを訊いてしまって。お酒のせいかな。あんまり呑み慣れてないのに、結構吞んじゃったんですよ、ハハ」
客の男は、無愛想に答えた零二を取り繕うように力なく笑った。
「……実は、僕、今日久しぶりに、父親と会いましてね。もう長いこと会っていなかったんですけど。僕が中学に上がる前に離れ離れになったから、えっと……十年ぶりくらいかなあ。もう、ずっと連絡を取っていなかったんです。というよりは、取れなかったんですけどね。どこで何をしているのやらと思ってたんですが……」
「そちらがお父様で?」
「えっ?」
客の男は思わず、隣の座席を見遣った。当然のように、黒い革張りのシートには誰の姿もなく、自身の荷物である白い巾着袋が置かれているだけだった。
「……よく分かりましたね。そうです。これが、父です」
ようやく信号が青に変わり、零二はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
「ハハ、笑っちゃいますよねえ。積もる話どころか、問い詰めたいことが山ほどあったっていうのに、いざ再会したら、骨になっちゃってたんだから」
客の男は窓の外を眺めながら、今度は自嘲気味に語り始めた。
「僕の父は、あんまり褒められるような人間じゃありませんでした。父と過ごした記憶は小学生の頃しかありませんけど、あんまりいい思い出はなくて。物心ついた時から、父は母に暴力を振るっていたし、息はいつも酒臭かった。ふらっと出ていったら、二、三日は帰って来なかったし、帰って来たと思ったら、金の無心をする始末で……。一度なんか、僕の貯金箱を叩き割って、中の小銭を根こそぎ持って行ったこともあるんですよ」
零二は黙り込んでこそいたものの、さっきまでと違って客の話に耳を傾けていた。
「最低の父親でしょう? 僕もそう思ってました。とにかく大嫌いでしたし、顔を合わせるのも嫌で嫌で……。学校から帰ってきて、玄関に父の靴があったら、とにかく憂鬱でした。逃げてしまいたかったけど、母に何かあったらいけないから、我慢して中に入るんですよ。そしたら案の定、母は父のいいようにされていて……。そんな風に、母と二人で、父に怯えながら暮らしていたんですけど、ある日突然いなくなってしまって。どうせまたすぐ帰ってくるんだろうなあって思ってたら、いつまで経っても帰って来ない。携帯なんて扱えるような人間じゃなかったから、連絡も取れなくて。そのまま、音信不通ですよ」
煌めく街並みの向こうに、帝苑プラザホテルの看板が見えた。ローレライは再び信号に捕まったが、それはどこか不自然に、まるでわざと示し合わせて捕まったかのようだった。
「子供ながらに、せいせいしてました。ようやく安心して生活できるって。……でも、いざいなくなってみると、どうしても寂しく思える瞬間があって……。それは母も同じようで、言葉じゃあ、せいせいしたよっていうんですけど、時々、凄く寂しそうな顔をするんですよ。やっぱり、腐っても父親だったんですかねえ。あんなクソ野郎でも」
目の前を、千鳥足の中年男がフラフラと横切った。手に下げている紙袋は、全国に展開している有名なおもちゃ屋のものだった。零二は、紙袋の中身がどこに行き着くのかを想像しながら、また客の男の声に耳を傾けた。
「借金漬けだった父のせいで、僕と母は貧しい暮らしをする羽目になりました。母は昼も夜もずっとパート三昧でしたし、僕も大学に行くのを諦めて、高校を卒業したら、すぐに就職して、家にお金を入れて……。そんなこんなで、ようやく生活が安定してきて、母と二人でどうにかなるものだねって笑ってたら、急に死んだなんて連絡が来て……。父は長いこと、この街で暮らしてたらしいです。まともな生活を送っていたかどうかは、分かりませんけどね。路上で身一つで冷たくなってるのを発見されたみたいだから」
千鳥足の中年男が横断歩道を渡り終えると、ようやく信号が点滅し始めた。
「住所不定、職業不明……でも、唯一財布だけは持っていて、その中に期限切れの免許証だけが入ってたんですよ。それで、身元が判明して、行旅死亡人にならずに済んで。警察の人から連絡があって、僕が引き取りに行くことになって、それで今日、来てみたら、父はもう骨だけになってて……。別にいいですけどね。今更、顔なんか見たくなかったし」
信号が青に変わり、零二はアクセルを踏み込んだ。帝苑プラザホテルまで、もう二分とかからない地点まで来ていた。
「さっさと帰ろうかと思ってたんですけど、骨になった父親を見てたら、なんだか無性に話がしたくなって……。ハハ、変な話でしょう? 骨壺と酒を呑みに行くなんて」
「……話はできましたか?」
「えっ?」
終始黙り込んでいた零二が突然言葉を発したので、客の男は少し驚いた。
「……はい、気分だけですけどね。まるで、一人芝居ですよ。おかげで、酒ばっかり進んじゃって。ハハ……すいません、運転手さん。ちょっと、そこのコンビニに寄ってもらってもいいですか?」
ルームミラー越しに客の男を見ると、顔色が少々優れていなかった。
「分かりました」
零二はハンドルを切り、ローレライをコンビニの駐車場へ入れ込んだ。停車すると同時に、ローレライのリヤドアがひとりでに開く。
「すいません、すぐに戻りますから……」
客の男は口元を手で押さえながら、コンビニの中へ足早に入っていった。雑誌売り場を突っ切り、トイレの中へと消えていく。
一人、車中に残された零二は、アクリル越しに後部座席を見遣った。白い巾着袋には、よく見ると表面に白い花柄の模様があしらわれていた。
コンビニの方を見る。まだ、客の男が出てくる様子は無かった。
「……」
零二はガチャリとドアを開け、外に出ると、後部座席のドアを開いた。黒い革張りのシートに鎮座している巾着袋を、まじまじと見つめる。
それに手を伸ばし――ふと、躊躇った。自分が何をしているのか、理解しようとする。
これは、赤の他人の問題であり、自分がしゃしゃり出る幕など無いはずで———。
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