【3】
しかし、気が付くと、零二の手は巾着袋の口をするすると広げていた。
中にあった、白い風呂敷の包みを取り出す。その結び目を解くと、表面がつるりと光沢を帯びた白い円柱形の骨壺が現れた。
その蓋を、掴んで、持ち上げると———、
———ぁ……ぁぁ……ぁあ……
中から、フワフワと線香の煙のような白いもやが、漂うようにして現れた。
それは、微かに人の顔の形を成しては崩れ、成しては崩れを繰り返しながら、力ない呻き声を上げていた。
零二は、それを無表情で見つめていた。
ずっと、気配だけは感じていた。あの客の男が乗り込んできた時から、車中に、この世ならざるものが居ると。だが、それは――例えるなら、小さな羽虫が発している程度の、酷く弱々しい気配だった。
これは、恐らく魂の残滓だ。人の形を成すことができないほど、希薄な魂の。
今までに、似たようなものを何度か見たことがあった。生前の意思が希薄な者——この世に未練という名の感情の鎖を残すことすらできないほど無気力に呆けている者が死ぬと、大体の場合、こういう風になる。まともに人の形を保つことができず、もやだの、影だの、声だのといった、種類は違えど、弱々しく在ることしかできない存在に成り果てるのだ。
故に、害になるようなことは何も無い。ただでさえ希薄な魂の残りかすに、できることなど無いのだから。放っておけば、いずれこの世から消え去るもの。そう、正に煙のようなものだ。
……これが、あの男にも見えたのなら、一体どういう思いを抱くのだろうか。
考えてみたが、虚しくなるだけだった。
こういう存在に成り果てているということは、あの男の父親は、話の通りに、ろくな生活を送っていなかったのだろう。生きる目的も無く、活力や熱量の無い堕落した日々を送り、無気力に路上で力尽きて、人生を終えたのだ。
だが、曲がりなりにも、僅かであろうと、こうして残滓を遺しているということは、少なからず、この世に未練というものが―――、
——―さ……けぇ……さ……けぇ……酒……ぇ…………
「……っ」
零二は身を乗り出すと、金銭の受け渡し用に開けてあるアクリルの開口部に腕を突っ込み、助手席に置いていた消臭除菌スプレーを手繰り寄せた。
コンビニの方に目をやる。まだ、男が出てくる様子は無い。
零二は無表情で、もやに向かって消臭除菌スプレーを噴射した。
線香の煙のような頼りないもやは、スプレーから噴射された霧に煽られ、ゆらりと空中に溶け込んだ。水に浮いた油のような不定形の顔が、声も上げずに弱々しく歪んで消えていく。
零二は容赦なくスプレーを噴射し続け、希薄な魂の残滓を車中から消し去った。
「やあ、すいません。やっぱり、呑み過ぎはよくないですね」
コンビニから戻ってきた客の男の手には、ミネラルウォーターのペットボトルが握られていた。顔から、少しだけ赤みが抜けている。
「あの、もう、すぐそこですから、ここで精算してもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
零二は無表情でメーターの支払いボタンを押した。テキパキと会計を済ませ、釣銭を手渡す。
「すいませんね、運転手さん。変な話に付き合わせてしまって。それじゃ、ありがとうございました」
リヤドアから、身支度を済ませた客の男が出ていこうとした瞬間、
「お客さん」
と、零二は呼びかけた。
「はい?」
「……きっと、お父さんは天国で誇りに思っていることでしょう。立派に大人になられた、あなたのことを」
それを聞くなり、客の男は言葉に詰まっていたが、やがて目を潤ませながら感慨深そうに巾着袋を抱え直し、
「……ありがとうございます」
と、礼を述べて、帝苑プラザホテルの方へ歩き去っていった。
———バタン、とドアが閉まり、車中で一人になった零二は、しばらくの間、無表情でハンドルを見つめていた。
〝ジッ……ジジッ……〟
突然、カーナビにノイズが走ったかと思うと、ミュージックアプリが立ち上がり、ステレオから音楽が流れ始めた。
Redioheadの〝Go To Sleep〟が、まるで取り繕うかのように賑やかに車内に響き渡る。
「……よせよ。別に何も気にしてない」
零二は珍しく自分でカーナビを操作して曲を止めると、ゆっくりとアクセルを踏み込み、コンビニの駐車場から出た。
道路を走る漆黒のローレライは、まるで溶け込むかのように、暗い夜の街並みへと消えていった。
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