【3】
「降りてください」
ドアが開けられ、真己は言われるがままに外へ出た。
深夜のだだっ広い駐車場には、他に車が一台も停まっていなかった。暴走族の集会場にでもなっているのか、地面のアスファルトにはタイヤ痕による曲線が無数に描かれていた。それを、あちこちに点在する外灯の頼りない灯りが弱々しく照らし出していた。暗闇に染まった周囲の緑地からは、夏の虫と蛙が競い合うように鳴く声が響いている。
どうすればいいのか分からず途方に暮れていると、ガチャリと音がして零二が降りてきた。
「あなたが死んだのは、そこの溜め池でしょう」
零二に促されて、真己はゆっくりと駐車場の奥の方へと歩いていった。頭の中で、ぼんやりとあの日の記憶が蘇っていく。
「大きな公園なのに、誰もいないな」
「平日の昼間だからじゃない?」
「ああ、そうか。そうだね」
「誰が私たちのこと、最初に見つけると思う?」
「死んだ後のこと、気にしてるの?」
「だって、もし子供が見つけたりしたら、トラウマになるでしょう?」
「……優しいんだね、最後まで……ううっ」
「ちょっと、どうしたの?」
「ごめん……ごめんな……俺がもっとしっかりしてれば……俺のせいで……」
「……いいの。私ね、二人で逃げた時からずっと、最後はこんな感じになるんじゃないかなって思ってたの。色んなものを犠牲にして、色んな人を不幸にしてきたから……。だから、これが運命だっていうのなら、素直に受け入れるわ」
「……真己」
「まあ、どうせ死ぬのなら海で死にたかったんだけど。そっちの方が、なんだかロマンチックだから、ふふふ」
「そっか……。今からでも遅くないよ。海まで行く? 栗栖岬とか」
「もういいわよ。ここまで来たんだし、あんなに遠い所までこんなパンプスで歩きたくないし。それに、海には嫌な思い出があるんでしょう?」
「……最後まで、僕の我儘に付き合わせちゃったね」
「ふふ、いいって言ったでしょう。……じゃあ、最後に私も我儘を言っていい?」
「うん、いいよ。何?」
「……お願い。最後の最後まで、私を離さないで―――」
ああ、そうだ。そんな会話をしながら、二人でここを歩いたのだ。
そして、私のワンピースの裾に、その辺にあった重たい石を包むようにして括りつけ、彼に抱かれながら飛び込んだのだ。
そのまま、二人で暗い水底に沈んで、沈んで……。
最後の最後まで、離さないでって言ったのに―――。
駐車場を突っ切って囲いの植え込みを抜け、腰ほどの高さまでしかない茶色い金属製の柵の前まで辿り着いた。その向こう側——眼下には、黒々とした水面を湛えた、溜め池が広がっていた。夥しい量の水草が浮いていて、所々から木の枝がおどろおどろしく突き出ている。
私は、この汚らしい池に飛び込んでは、暗い水底へと沈んでいき、そして気が付いたら、また街並みの中をトボトボと歩いていて……それを延々と、今まで、ずっと。
彼と死別した? 違う。私が死別していたのだ。置いて行かれた訳ではない。置いて行かれたのは彼の方なのだ。……いや、やはり置いて行かれたのは私の方だろうか?
「私は、一体どうしたら……」
顔を押さえて嘆く真己の背中に、零二は、
「それは、あなた次第です」
と、諭すように投げかけた。
「自分が死んでいると気が付いても尚、あなたは消えなかった。ということは、この世にまだ未練があるってことだ。あなたはそれが消えるまで彷徨うことになる。でも、その未練を断ち切れたのなら、行くべき場所に行けるだろう」
「……行くべき場所って?」
「いわゆる、あの世ですよ。死んだ人間の魂が行くべき場所だ。俺は行ったことが無いから、天国だの地獄だのがあるかどうかは知りませんがね」
真己は振り返ると、零二を見た。
駐車場の外灯の薄明りに照らされたその顔は、やはり無表情だったが、垂らした長い前髪に隠れていない方の左目はどこか、不器用な憂いを湛えているように映った。
「あなたは、私を助けようとしてくれているの?」
真己が訊くと、零二は無愛想に、
「さっきも言ったでしょう。俺は、手を差し伸べただけです。これからどうするか――未練を断ち切れるかどうかは、あなた次第だ」
「未練を……」
真己はしばらくの間、逡巡した後、ゆっくりと零二に歩み寄った。
「……お願い。最後に、あなたの顔をよく見せて」
彷徨う私の魂を救ってくれた人の――と、真己は心の中で続けた。もう動いていなはずの、命の鼓動を発していないはずの心臓が、静かに疼いているような気がした。
零二の、憂いを帯びた視線を受けて。
「……」
対する零二は、無表情で黙り込んでいたが、やがてゆっくりと垂らしていた前髪を掻き上げた。街灯の薄灯りに晒されたその顔の右側には――目の周りを囲うように、赤黒い火傷の痕があった。
「……ご、ごめんなさい」
真己は思わず謝ったが、零二は、
「別に、気にしませんよ。これから成仏する人間に何を見られようが」
と、ぶっきらぼうに呟いた。
その、どこまでも不器用な優しさを受けて、真己は心を決めた。
私は、ずっと独りで彷徨っていた。
だけど、この人が、この人は、この人なら———。
「……ねえ。もうひとつ、お願いがあるの」
真己は、伏し目がちにボソリと呟くと、
「私は……一人で死にたくないのっ!」
そう叫ぶや否や、真己は零二の手をガッチリと掴んだ。そのまま、グイグイと自身の方——溜め池の方へと引っ張った。
「お、おいっ! 何するんだっ! やめろっ!」
零二が身体のバランスを崩しながらも抵抗したが、真己は、
「私はもう一人は嫌なのっ! 誰かと一緒なら、私はっ!」
絶叫しながら、強引に零二を引きずった。植え込みをずるずると抜けて、溜め池の柵の前まで来ると、さらに力を込めて零二の腕を引っ張った。
「よせっ! 俺はっ!」
「お願いだから、私と一緒に死んでよっ!」
と、真己がまた絶叫した、その時だった。
———フィイイイン!
突然、澄んだ耳鳴りのような音が響き渡り、溜め池の柵の前でもがいていた二人に強い光が当てられた。
何事かと、真己がそちらを向いた瞬間、
———キィィン!
と、その光から、高周波のような音が発せられた。それは、何度もこだましたかと思うと、より一層強く、
———キィィィィン!
という耳を劈くような響きに変わり、
「きゃあああああっ!」
と、真己を怯ませた。思わず、零二の手を離して耳を塞ぐ。
「あ、あああっ……!」
うるさい、痛い、苦しい———、
———キィィィィン!
嫌——―、
———キィィィィン!
もう―――、
———キィィィィン!
やめてっ!
———キィィィィィィィィン!
「いやあああああああああああっ!」
耳を塞ぎ、頭を抱えて悶えていた真己は、突如として見えない何かに弾き飛ばされたかのように、柵をすり抜けて溜め池へ落下していった。
「ううっ……」
零二が柵を頼りによろよろと立ち上がると、植え込みの向こうの駐車場で、ローレライが狼の眼のようなヘッドライトを光らせていた。フィイインと、呼びかけるかのように唸っている。それに、
「……大丈夫だ」
と答えると、零二は溜め池の中を覗き込んだ。ローレライのヘッドライトに薄く照らされた、その黒い水面の中心に、真己がいた。胸の辺りまで水に浸かり、恨めしそうにこちらを見つめている。
「……」
零二は、無言で手を差し伸べた。が、真己はそんな零二を見つめながら、恨めしそうな表情を浮かべたまま、ゆっくりズブズブと溜め池の中へ沈んでいった。
「……そんなに未練があるのかよ」
零二はため息をつくと、乱れていたYシャツの袖を正しながら、ローレライの下へと向かった。
私は、ここでいい。
あの人と一緒に逝きたかったけれど、それはどうやら無理らしい。
あの人には、もう……。
別にいい。
ここで、待とう。
私のような人が来るのを。
一緒に逝ってくれる人が来るのを、待とう。
いつになるかも分からないけれど、
ずっと、ずっと、ここで待っていよう———。
一筋の光も届かない、暗い暗い溜め池の底で、真己はそんなことを思いながら、ゆっくりと横たわった。
誰かと一緒に逝きたいという、新たな感情の残滓で構成された希薄な彷徨える魂は、水底に繁茂する水草のように、ゆらゆらと悲しく揺らめき続けた―――。
「チッ、最近災難だらけだ」
街に戻った零二は、コンビニの駐車場でびしょ濡れになった後部座席を拭いていた。元から備えていた清掃用の布巾一枚では埒が明かず、先程買ったタオルを使って拭いていたが、それもあっという間に水を吸ってグズグズになっていく。
「クソッ、やっぱりこうなるのかよ。薄々分かってたが、オチとしてベタ過ぎやしねえか。いくらピグメントレザーっつったって、水には弱えんだぞ……」
零二がブツブツと文句を垂れていると、
〝ジジッ……いやあ、しかし、浮気するなんてねえ。真面目そうなイメージで売っててさあ。清潔感ある見た目で人気だったんだろう? 新進気鋭の若手俳優だったのに、せっかくのキャリアが台無しだよ。魔が差したのかねえ。まあ、ともかく、浮気なんてする奴はクズ野郎だ!〟
カーナビが突然、画面にノイズを走らせ、深夜ラジオらしき音声を流した。下世話なダミ声のDJが、嬉々として芸能ゴシップに息巻いている。
「……そんな訳ないだろ。向こうが勝手に――」
〝恋人がありながら、他の女に目移りしちまうなんてなぁ! 反省しろっ!〟
「……怒るなよ」
〝ジッ……ジジッ……清潔感ある……清潔感ぁ……清潔感……〟
「……分かったよ」
零二は丁寧に後部座席を拭き上げると、仕上げに備え付けの消臭除菌スプレーを振りまいた。車内に漂っていた腐り水のような臭いが消えていき、代わりにシトラス系の香りが満ちて、黒い革張りのシートが輝きを取り戻していく。
掃除が一段落した零二は一服しようと、ベストの内ポケットからジッポライターとJPSを取り出した。瞬間、バタン! と、ひとりでにローレライのドアが閉まった。
「……おい」
——―フィインッ
と音を立てて、ローレライはひとりでにドアの鍵をロックしたかと思うと、ミュージックアプリを立ち上げて音楽を流し始めた。Radioheadの〝Just〟が、誰もいない車内から漏れ聴こえてくる。
「……自業自得ってか」
零二はやれやれと、コンビニの前に設置されている灰皿の方へ向かった。ジッポライターで煙草に火を付け、夜空を見上げると、どんよりとした分厚そうな雲が一面に広がっており、月を覆い隠していた。
それに向かって、ふう、と煙を吐いてみたが、当然のように雲は晴れず、輝いているはずの月は見えないままだった。
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