【2】

 死んでいる?

 私が、既に、死んでいる?

「急に、何を……」

「たまにいるんですよ。あなたのように、自分が死んだことに気が付かないまま、フラフラ彷徨ってるのがね」

 死んだことに、気が付かないまま?

「馬鹿なことを――」

「自分の姿をよく見てみたらどうです」

 言われるがままに、自分の姿を検めた。が、別におかしいところなど――え?

 服が、濡れている。

 着ている白いワンピースが、ぐっしょりと水を吸っていた。どうして、雨は降っていなかったのに。

 困惑していると、不意に腐り水のような臭いが鼻に付いた。瞬間、ポタリと前髪の先から雫が垂れて、思わず額に手を当てようとすると、

「……え?」

 自分の手が、異様なことに気が付いた。生白くふやけていて、所々に紫がかった斑紋が浮いている。

 そして、先程の腐り水のような臭いがそこから――自分の身体から発せられていることにも気が付いて、

「い、いやっ……」

 何だ、これは、なんで、こんな――と、その時、窓ガラスに反射して映り込んでいる自分と目が合った。

 そこには、ぐっしょりと濡れた藻のような髪を所々紫がかった生白い頬に貼り付けた、明らかに生気が失われている自分の顔が―――、

「きゃああああっ!」

 嘘だ、嘘だ、自分が、まさか、そんな―――、

「落ち着いて」

 運転手が極めて冷静な声で、真己に呼びかけた。

「あなたは自覚しただけです。自分が死んでるってことを。だからといって、別にどうにもならない」

 諭されたことにより、真己は悲鳴を上げることをやめはしたが、動揺は抑えられないでいた。経験したことのない恐怖に駆られて、ガタガタと震えながら、肩を抱えて身を縮める。

「わ、私はっ……どうしてっ……」

 真己が怯え切った声で言うと、運転手は淡々と語り出した。

「恐らくあなたは、自分が死んだことに気が付かないまま、フラフラ往復していたんだ。自分の家だった所と、今から行く所を、延々とね。あなたが帝苑山自然公園までと言った時、ピンときた。三カ月くらい前だったか、そこで若いカップルの心中未遂があったんだ。正確には、自然公園の中にある貯水池で。あそこで死ぬ連中は大概、林の中で首を吊るんだが、わざわざ池で入水自殺したって話を聞いたから、妙に印象に残ってて覚えてた。確か、浮かんでたところを発見されて病院に運ばれたは、奇跡的に助かったんだっけか」

 真己の頭の中で、生前の記憶が次々とフラッシュバックのように蘇っていった。

 三年に渡る不倫の末、ほとんど駆け落ちのような状態で、彼と栗栖市に逃れてきた日のこと。場末のラブホテルで、これからどうしたらいいんだろうと苦悩しながらも、それと同量の幸せを感じながら身を寄せ合って眠った夜。

 それから、彼の親友の助力もあって、どうにか新生活を始めることができた。帝苑町の小さなアパートを借り、手に職を付け、細々とだが、彼と二人きりの、幸せな日々を手に入れた。だが――長くは続かなかった。

 俺が悪かったと、絶望した表情で項垂れる彼の姿。その手に握られた書類の、連帯保証人の欄に書かれていた彼の名前。電話の向こうで嘲笑う、裏切って行方をくらました彼の親友の声。アパートに押しかけて来た柄の悪い男たちの怒鳴り声。ダメ元で連絡した両親から吐かれた想像以上の暴言。それを隣の部屋で聞いていた彼の後ろ姿。それは、酷く頼りなく、小さく見えた。そして、結局どうにもならなくなって、最後に行き着いた考え。

 何もかも、お終いにしよう。二人で一緒に、あの世に行こう。

 そう誓い合ったはずなのに、彼は、暗い水底に私を置いて―――。

「記憶が曖昧だったんでしょう? よくあることだ。死んだ人間は、この世に強い未練があると、その感情を鎖にして魂がフラフラ留まり続けることになる。あなたの場合は、〝恋人に置いて行かれて悲しい〟っていう感情だろうな。それ以外は、何も考えられなかったんでしょう? いや、考えることができないっていった方がいいか。だから、死んだのが自分の方ってことに気付かないで、同じことを延々と繰り返し続けてたんですよ。おぼろげな生前の記憶を頼りにね。別に、珍しいことじゃない。自殺した連中には、そういう風に呆けちまってる奴が多いからな」

 淡々と続ける運転手の言葉を、真己は呆然としながら聞いていた。

 ……そうだ。こんな風にタクシーやバスを使う金すら手元に残っていなかったので、二人でトボトボと歩くことにしたのだった。アパートから、死に場所に選んだ帝苑山自然公園まで。

 悲しみ以外に何も考えられないでいたのは、悲しみしか残されていなかったからだ。そんな感情だけの存在に、夜の一人歩きは危ないとか、明日は仕事なのにとか、戸締りはしただろうかとか、考えられるはずもない。その必要が無いのだから。

 命も、仕事も、住まいも、明日も、すべて失った死者である私には―――。

「……どうして、あなたは私を乗せたの」

 ようやく自身の置かれている状況に理解が追い付いた真己は、ひとつの疑問を絞り出した。

 この男の目的は、一体何なのだ。どうして、死者と知りながらも、私を——―、

「それは、視えたからですよ。ずぶ濡れで街をフラフラ彷徨ってるあなたが。死んでることに気付いてなかったから、自分じゃまともな姿に見えてたんでしょうが、こっちからしたら異様なもんでね。我ながら、よく声を掛けたもんだと思いますよ」

 運転手は相変わらず、飄々とした口調で答えていたが、

「でも、まあ……あなたはまだ、どうにかなりそうだったからな。俺みたいな人間にでも」

 不意に、情の籠った声で零した。

「……どういうこと?」

「そのままの意味ですよ。俺は、単にこの世の者じゃないモノが視えるってだけだ。霊能者でも何でもない。祓うこともできなければ、浄めることもできないんです。でも、話をして、行くべき場所に行けと諭すくらいのことはできる。あなたみたいに、フラフラ彷徨ってる連中にね。別に、そんなお節介をわざわざ焼く必要は無いんだが……いつまでもフラフラしてたら、大概の場合ろくなことにならないからな」

 そこまで言うと、運転手はまた元の飄々とした口調で、

「まあ、死んだことを自覚してもあなたは消えなかったから、これからもう一仕事ありそうですがね」

 と言い放ち、ため息をつきながらカーナビを操作して、料金をカウントしていたタクシーメーターを終了させた。

「仕事って……あなた、何者なの?」

「別に、何者でもありませんよ。ただのタクシー運転手です」

 ふと、金銭の受け渡しをするコンソールボックスを見ると、設置してある黒いトレーに、名刺が何枚か積み重ねられていた。その黒い名刺には、銀色の文字で〝夜坂零二〟と記されていた。

「……着きましたよ」

 いつの間にか、車は目的地である帝苑山自然公園に辿り着いていた。

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